<0>兄の死


 兄さんが死んだ時――……それは、子供が三人いる義姉と結婚して二・三年が経過していた頃だった。最近では、顔を合わせる機会がなさ過ぎて、実感がなかったというのが正しい。

 ――嗚呼、死んだのか。

 それが率直な感想だった。医師と言うには未熟すぎたその時の僕だったけれど、人の鼓動が止まる事にも、脳死する事にも、慣れていて、何の感慨もいだかなかったのかも知れない。

 そんな時だった。
 ポツリと一人の少年が呟いたのは。

「ねぇ、義父さん。今、何処で何をしてるの?」

 小さな声だった。だけどそれは、僕の耳にはマスキングされたかのようによく響いてそして、改めて”肉親の死”を思い起こさせるには、十分すぎた。けれど、僕の口から放たれた言葉には、今でも後悔している。

「土の下の骨壺の中じゃない?」

 淡々と僕は言った。
 まさかその後、少年のその言葉を、何度も何度も酔う度に聴かされるなんて、思いもよらずに。ただ――何とはなしに、黒い髪をしたその少年の髪と、青さえ入り込んでいるような夜のような瞳に、死臭を感じた。ただそれが、彼が後を追う気なのか、それとも彼が兄たちを殺したのかは、分からなかったのだけれど。

 その時の僕には、興味など、まるで無かったのだ。


 ――四條由唯。それが少年の名前だという事は、知っていた。

 だか、それが何だ?
 淡々と僕は踵を返し、それから正面に、黒いスーツを纏い、緑色の外套を纏った青年を見つけた。

「今回は、ご愁傷様です」

 声をかけられ、僕は会釈を返した。

「四條警視正には、大変お世話になりました」

 ああ、義姉の事だなと考えながら、口角を持ち上げる。
 青年の瞳には、闇しかなかった。悲しそうには、微塵も見えない。

「有難うございます。義姉も喜ぶと思います。来て下さった事に」
「――何も、聞いていないんですか?」
「え?」

 だが、淡々と続いた青年の言葉の意味が分からず、首を捻る。
 一体何を、何を、なのだろう?
 こちらの親族とは、関係なく過ごしてきた僕には、答えようもなかった。

「いや……仕事の話です。守秘義務を、最後まで、全うされたようだ」

 それだけ言うと、青年は踵を返した。


 ――それが、嵯峨旭との出会いとなった。


 まだ開業して浅いクリニックへと、僕は帰った。


 少し時が流れた。

 その日、降りしきる雨の中、僕はぼんやりと外を眺めていた。
 長い間目を伏せて、こんな時間には誰も来訪をしないと知りながら、ただ両手で、温かいマグカップに指を添えていた。

 その時、銃声が聞こえた気がして、嗚呼どこかに雷が落ちたのだろ
 うなと、静かに目を開けた。避雷針も、飛行機よけの赤い光も、何処のビルも高いから、設置されている。池袋から少し離れた、要町との間。そこに僕は開業していた。

 元々それほど、金銭には困っていなかった。何故なのか、再婚して以来、兄が援助してくれるようになり、遺産も貰った。それ以前に、私立の医学部に進学させてくれる程度には、実家も裕福だったのだ。

 家族は貿易会社を営んでいる。兄はそこの跡取りで、必死に経理の勉強に励んでいた事を知っている。だからこそ、婿養子に入ったのは意外だったし、両親が何も言わず、また自分にも戻ってこいと言わなかったのが不思議だった。ただ、また、理解も出来た。出来損ないで何の価値もない次男の僕になど、端から跡継ぎなどの期待はしていなかったのだろう。

 僕はその日、気まぐれで、何処に雷が落ちたのだろうかと、傘を差して外へと出た。

 そして、息を飲んだ。
 白いシャツの腹部を真っ赤に染め、血が所々飛び散っている――確か、葬儀で顔を合わせた青年が、電信柱に背を預けていたからだ。思わず駆け寄り声をかけたのは、あるいは、医師としての使命感に、かられたからなのかも知れない。

「大丈夫ですか? すぐに救急車を」

 意識がある様子の青年に声をかけた。だが。

「必要ない、馬鹿げた話だけどな、”朝”には消える」

 何の話なのかは分からなかったが、公共機関に行きたくないのだろうという事は、判断が出来た。

「――すぐそこに、僕のクリニックがあるから、せめてそこに」
「……」

 迷うように青年が瞳を揺らした。それから、酷い傷にも関わらず、ゆっくりと立ち上がった。

「何も知らないと言っていたのは嘘か?」

 冷たい声が響いた。

「え?」
「葬儀で会っただろう」
「嘘じゃないけど……だけどその傷と失血を放って置いたら、命に関わる」

 僕の言葉に半眼になってから、それでも、彼の手を掴んだ僕に、彼は素直に従った。
 ”天草クリニック”――それが、僕の病院の名前だった。

「……内科で手当が出来るのか?」
「元々の専門は、外科なんだよ」

 苦笑しながらそう告げて、だけど嫌な記憶が浮かんでくる。
 元々僕は、脳外科を得意としていた。けれどある日、両手の人差し指と小指の感覚が無くなってしまったのだ。それの原因は分からなかったけれど、もう、繊細な手術など、こなせなくなっていた。単純に縫ったりはできるのだとは言え、それは、もう、僕には、大学病院にいる資格など無いと、通告されたようなものだった。

 とりあえず寝台へと彼を座らせ、傷口を縫合していく。
 同時に、点滴した。同時に、痛み止めも打つ。
 無言でそれを見守りながら、彼が嘆息する。

「医者なのか?」

 何を今更、と思いながらも、僕は告げた。

「保険証か、免許証でも良いけど……今何か、身分証明証を持ってる?」

 尋ねると、彼が気怠そうな目をしたまま、黒い手帳を差し出した。

「っ、警察官なの? それなら、早く、救急に――」
「それは出来ない。すぐに帰る、迷惑をかけたな」
「帰るって、この雨の中?」
「ああ」
「傷口から、細菌でも入ったらどうする気?」

 正気じゃないだろうと僕は思った。

「――本気で何も知らないんだな。こんな風に俺を助けるなんて」
「は?」
「四條警視正の旦那にも会った事があるから、天草とは呼びたくない。下の名前は?」
「祐助だけど……」
「祐助先生か。有難うな。俺は、手帳を見たんだろうから分かるだろうけど、嵯峨だ。勝手だが、下の名前では呼ばれたくないけどな」

 そう言うと、怪我なんて何でもないという風に、嵯峨刑事が起き上がった。

「まだ寝てた方が――」
「普通の怪我ならな」

 その時、彼の傷が不自然に癒えていくのを、確かに僕は見た。
 寧ろ縫った糸が邪魔であるかのようにすら、見える。

「ただ、輸血は楽になった」
「……それは、良かったけど」
「確認するけどな、お前はあの時、外で何も視なかったんだな?」
「うん。死体とかは、何も」
「死体、か。そういう事が聞きたかった訳じゃないけどな、十分な収穫だ」

 それだけ言うと、彼は、側に置いてあった血濡れの外套を着た。

「念のために言っておくが、夜は外に出るな」

 そう言って、彼は、引き留めるまでもなく、雨が降りしきる外へと出て行った。
 まるで今の出来事が、夢のように思えて、僕は息を飲むしかできなかった。

 その後――……今度は、雪が降りしきる日に、僕は嵯峨君を見つけた。

 乱れたシャツにも、くすんだ深緑の外套にも、暗く積もった雪にも、鮮血が飛んでいた。
 意識が朦朧としている様子の彼を、僕はまた、自分のクリニックへと運んだ。
 そして点滴をしていると、嵯峨君は目を覚ました。

「……ここは?」
「前に来たよね、一度だけ。覚えてるかな……天草……祐助がやってるクリニック」

 彼は、兄の名を、名字を嫌っているのだったな、何て、何となく思い出した。

「運んでくれたのか……先生」
「君は正式な患者じゃないし、此処には滅多に患者なんか来ないから、別に祐助で良いよ。多分、僕の方が年上だけど」

 その時、嵯峨君は無言だった。けれど気怠そうに寝返りを打ったのは覚えている。

 それ以後、夜になると、嵯峨君は度々、このクリニックに顔を出すようになった。
 なんでも嵯峨君によると、ここは僕の義姉が、強い結界を張ってから死んだため、≪異形≫が避けているのだとか。深く話を聞く内に、僕は彼が、統合失調症である事――一昔前ならば、精神分裂病――あるいは、気が狂っていると一昔前は言われた病気だと判断した。勿論専門では無かったが、看板としては、此処は内科だし、神経科と心療内科、精神科の看板も出している。いくらでも診療科は増やせるようなものだった。僕は何を処方するべきか、色々と調べていた。

 ――そんなある日の事だった。
 初めて嵯峨君が、他者を連れてやってきたのだ。

「――……診てやってくれ」

 嵯峨君がそんな事を言うのは珍しい。僕は特殊機関に通報しようかと、何度か悩んだほど、嵯峨君の治癒能力が高かったからだ。きっと彼が連れてきたのならば、同じような身体構造をしているのではないかと思ったのだ。

 見れば――意識がない様子で、青白い顔の青年が、嵯峨君に肩を抱かれていた。
 肋骨が肺を突き刺している様子で、頭部は吹き飛び脳が出ていて、首元の頸動脈からの出血も止まっていない。

「助かるわけが……」

 思わず患者の前では有り得ない言葉だというのに、発言していた僕は、唇を片手で覆った。

「怪我は――俺を診ていて分かっただろ? ”朝”になれば治る。それまでの間、なんとか延命してくれ」
「どうやってッ」
「とりあえず血を止めて、輸血してくれて、心臓が止まったら動かしてくれればそれで良い。脳が潰れているのは、治癒を確認済みだ」

 嵯峨君のその言葉を信じる事にして、僕は慌てて点滴の用意をした。
 それを腕に突き立てて、他にも様々な点滴を用意し、それから鼓動を確認する。

 ――とても、弱々しい音がした。
 何度か止まりそうになる度に、心臓マッサージをしたり、電気で刺激したりと、最善を尽くした。そうして朝が来たら……自然と傷が塞がっていった。

 僕は何故このような現実があるのか何て分からなかったけれど、ただ、ただ、助かったのだと思えば、安堵して、床に座り込んでいた。

「有難うな、祐助」
「ううん。連れてきてくれた、嵯峨君のおかげだと思うよ」
「――今度また、お礼に来るから。そいつは、目が醒めたら、放り出せ」

 そう言うと、嵯峨君は帰っていった。
 僕は呆然と、寝台で眠る彼の起床を待っていた。

「ン、ァ」

 暫くそうしていると、青年が目を開けた。

「大丈夫?」
「え?」
「痛いところは?」
「無いけど……」
「そう――良かった」

 気づけば、心から僕は笑っていた。今日は休診日だから、本当に誰も来ない。

「僕、どうして此処に?」
「嵯峨君が連れてきてくれたんだよ」
「へぇ……”ネコ缶”が、ねぇ」
「”ネコ缶”?」

 何の話しか分からなくて、僕は首を傾げた。
 ――丁度その時だった。

「っ、え?」

 狼狽えたように青年が、目を見開いた。

「どうかした? まだ、何処か痛む?」

 単純に聞いた僕は、その時、響いてきた声に息を飲む事になった。

「創助さん……?」

 それは、それは――紛れもなく、僕の兄の名前だった。
 驚きを隠すように僕は作り笑いを浮かべて、青年をまじまじと見る。
 まだ、身分証は、貰っていない。
 ただ、推定できる年齢からして、そしてその顔の作りと髪の色、目の色から、僕は確信していた。

 ――兄さんの義理の息子の、由唯君だ。

 いつか僕が、『土の下の骨壺の中じゃない?』だなんて、酷い事を言ってしまったあの時の少年だ。唾液を嚥下し、首を振る。

「僕は、天草。残念だけど、人違いみたいだよ。此処は、天草クリニック。一応コレでも、分かりやすく言えば病院なんだ」
「……そう」

 呟いた青年の声は、どこか辛そうだった。


 ――それが、”コンポタ”と”天草祐助”の、新たなる出会いだった。