<1>”黒キリン”の予感


 ――これは、夏の京都に白い雪が舞う数時間前の事の記憶だ。




 その日も、僕はいつもの通り、”リスナー”の店へと向かった。

 何もかもがいつも通りすぎて、”今”のいつも、で、僕はここに来る度に――口には出さないけれど、どこかで、守られているような、そんな安心感を覚えていたような気がする。

 隣では、嵯峨さんがいつもの通り、お洒落な形の麦酒のジョッキを傾けている。
 逆側では、両手で頬杖をついた”コンポタ”と、その向こう側には”雨”がいた。

「へぇ。じゃあ、『みんな仲良くお友達になりました』ENDだったって事かぁ」

 話を聞いていた”コンポタ”つまらなそうに嘆息した。

「僕は、良かったと思う」

 そう声をかけると、こちらを見て、”雨”が楽しそうに笑った。

「この前は、色々聞いてくれて有難うね、”黒キリン”」
「僕は別に、そんな――……」
「すっごく、すっごく感謝してるよ。それに――『恋』は、これからでも出来るからさ。”灯”が、戻ってきて、側に居るんだからね」

 クスクスと笑った”雨”に、ジントニックを差し出しながら、”リスナー”が続けた。
 先日の”雨”達の話を思い出した。高校生も恋愛には苦労しているらしい。

「殺し合い、再開したみたいだね。それも、ちゃんと薬飲んでるから、理性がはっきりしてる”灯”と」
「平気だよ。俺が勝つから」

 きっと彼等の関係性は、それでも愛と名のつく何かなんだろうなと思いながら、僕がマリブコークを傾けた――その時の事だった。

「ッ」

 思わず息を飲む。
 嫌な予感が、ざわりざわりと胸に染み込んでいく。焦燥感にそっくりだけれど、もっともっともっと、嫌な感覚だ。

「――”黒キリン”?」

 ”リスナー”の声で我に返る。

「ちょっと濃かった? もう一回作り直そうか?」

 慌てて首を振るが、声が喉の辺りで凍り付いてしまったようで、僕の口からは、何も出ては来ない。

「ナナキ?」

 嵯峨さんの声がした。僕を見ているのも分かる。普段はそれが嬉しくて嬉しくて仕方がないはずなのに、なのに――……嫌な予感に絡め取られた僕の体は、動く事を忘れてしまったようだ。気づけば目を見開いて、僕は震えを抑える事に必死になっていた。

「大丈夫か? 何処か具合でも――」
「違う、違うんだ」

 その時嵯峨さんの声を遮っていて、そうしたら、やっと呼吸が出来た気がした。
 何故か、何故なのか、月に絡め取られて全てが終わるような、恐怖。

 何度も何度も、明るい満月と、紫色の満月が、砂嵐のように、闇のような視界に、間断なく入り込んできて、恐怖と言うよりは、強い胸の痛みと息苦しさで、やはり体が震えた。

 ――祀理に、何かある。あるいはもう、あったのかもしれない。

 気づいた時には、そんな思考で全てが埋め尽くされて、スマホに耳を当てていた。
 響いてくるのは、ただの機械的な電子音声だけだった。
 電話を取り落とし、眉を顰めて、ただただ僕は立ち上がり、正面にあるグラスを見据えていた。

「嫌な予感がして」
「予感?」

 すると、そんな物を宛にするなとでもいうかのように、スッと眼を細めて、嵯峨さんが呆れたような顔をした。口元を片手で覆っていると、いつものように嘆息された。

「兎に角座れ。何処に電話していたんだ?」

 僕を落ち着かせるような嵯峨さんの声に頷いて、静かに腰を下ろす。
 その時”リスナー”が、レモン水を出してくれた。

「祀理のところ」
「へぇ……そんなに心配なのか?」

 焦っていった僕に、嵯峨さんが目を細めて笑った。”リスナー”が、何故なのか「あーあー、なんていうか、なぁ」何て言って苦笑していたが、僕には、もう祀理の事しか考えられなかった。――僕の勘は良く当たる。テストでも外した事が無いくらい。

「え、”黒キリン”? 本当に大丈夫?」

 ”リスナー”の声に、呆然としていた僕は顔を上げた。冷や汗が伝っていくのが分かる。

「ナナキ」

 少し強い調子で嵯峨さんに言われ、僕は気づけばやっと我に返る事が出来ていた。
 そうだ――……カンなんか、あてにならない。それこそ、テストで正解したのだって、くじ引きで引き当てたのだって、偶然なのかも知れないではないか。

「大丈夫か?」

 僅かに首を傾げ、煙草を銜えながら嵯峨さんがこちらを見ている。

「え、あ、うん。あの、なんかごめんなさい」

 慌てて頷くと、嵯峨さんが煙を吐き出しながら、目を伏せた。

「全くだ」

 呆れられてしまったのかと悲しくなりながら、それでも少しだけ楽になったとはいえ胸中の焦燥感を僕は消せないでいる。思わず俯いて、唇を噛んだ。すると。

 ――ポン。

 俯いたまま、僕は目を見開いた。嵯峨さんが撫でるように、僕の頭を軽く一度だけ叩いたのだ。優しい手だった。それだけで、安心感が少しだけ、頭をもたげてくる。

「ま、最近ずっと、此処か家にしか居ないからな。大学もほとんど行ってないみたいだし、ストレスが溜まっているんだろ」
「は、はい。そうかもしれません」

 慌てて何度も頷くと、嵯峨さんがこちらを一瞥してから、再び正面のジョッキを見た。
 それから深々と吸い込んだ煙草の煙を吐き出す。

「――旅行にでも行って気分転換でもするか。俺の有給も溜まりまくってるしな」

 楽になったとはいえ、まだ胸がザワザワする中で、それでも僕は必死に何度も頷いた。コクコクと頷いたのだ。もう平気なのだと思ってもらいたかった。おかしな所を見せてしまったなと、悔恨と羞恥も浮かんでくる。

「そうだな。行き先は――京都、なんてどうだ?」
「!」

 その言葉に、僕は息を飲んで、勢いよく嵯峨さんを見た。
 京都に祀理が居る事を、嵯峨さんは知っている。僕が話したからだ。

「行動は勢いだ。思い立ったら即吉日って言うらしいしな。まだ、この時間なら新幹線に間に合うな。今から行くか。宿は、走っている内に取れば良いし。本当スマホなんて便利なものが生まれたもんだよ。俺は、使ってないけどな。必要なものは現地で揃えるか、その方が雰囲気出るだろ――”リスナー”そう言うわけで、俺達は帰る。ごちそうさま」

 そう言うと嵯峨さんが、茶封筒を”リスナー”に手渡した。

「丁度、飲み代に丁度良いくらいの額が入ってる。じゃ、『またな』」

 またな、何て言う嵯峨さんを初めて見たが、それよりも手を繋がれ、外へ出た事に胸がドキドキしていた。それからすぐにタクシーを拾って、嵯峨さんが「東京駅まで」と告げた。

「あの、有難うございます」

 思わず僕がお礼を言うと、嵯峨さんがチラリとこちらを見た。

「全くだ。酒が入っているのに、禁煙は中々つらいからな」
「え、あ、そうじゃなくて」
「じゃあなんだ? 俺は、お前と旅行や観光がしてみたかったんだよ。ただそれだけだ。今更嫌だとか言ったら、怒るからな」

 嵯峨さんは、優しい。

 僕は、その優しさに応える事なんて、出来るのだろうか。仮に――応えられなくても、僕も嵯峨さんに優しくできたら良いな、だなんて思った。

 ――7時から飲んでいた僕たちは、9時半手前にはタクシーを拾っていて、10時過ぎに東京駅へと着いていた。丁度新幹線があったから、それに乗り込む。もう少し遅かったら、最終に間に合うか否か、危なかった。

「よく新幹線の時間なんて分かりましたね」
「仕事で、移動する事も多いからな。九課みたいな部署は、ある土地の方が少ない。前は、東海道新幹線は、喫煙所があったんだけどな、今はどうなんだろうな。まだ確認してない」

 二人で乗り込み、座席に座ってから僕は、一安心して、安堵の息を漏らした。

「そうだな――ただ俺は、別に土地勘があるわけでもないから、”榊様”が案内してくれれば、ベストだな」
「っ」
「なるべく早く、出来るなら、今夜の内には連絡取れよ。繋がらないんなら、それこそ家にでも押しかけてみるか? ”コンポタ”も親戚らしいからな、あいつなら、家の場所が分かるだろ。今頃まだ飲んでるはずだしな――ま、閉店まで居るだろ、あいつは」

 嵯峨さんはそう言うと、いつも持ち歩いている鞄から、一つの扇子を差し出した。
 紺色だ。

「どうだ、雰囲気出るだろ?」

 ニヤリと笑ったその表情が嬉しくて、思わず僕は嗚咽を堪える事に必死になった。
 嵯峨さんとなら、僕は何処へでも行ける気がした。

 ――あるいはそれが、血濡れの地獄でも。