<*>”黒キリン”


僕は何故そうなったのかは分からないが、気づけば皆に”黒キリン”と呼ばれるようになっていた。まだ、あまり慣れない。

 皆、というのは、”リスナー”のBerに来る常連客だ。
 嵯峨さんと関係を持って以来、会いたくて、僕は熱心に通っている。
 貧乏学生のお財布には中々辛かったけど。

「いらっしゃい。今日は、”ネコ缶”と一緒じゃないの? 珍しいね」

 まだ開店作業中だったのか、やわらかい暖色の灯りがともった。
 僕は少しだけ座る位置を逡巡したが、いつもの通り、嵯峨さんの定位置の隣に座ることにした。

「何飲む?」
「マリブコークを」
「はいはい、ちょっと待っててね。あ、今日のお通しは、イカのフリッターなんだ。乾き物じゃないの、この店じゃ珍しいでしょ」
「はぁ」
「まぁ来るようになってまだ日が浅いから、比較できないかな」
「すみません」
「良いんだよ、別に。気を遣わないで」

 そう言って笑うと、コルクのグラス置きを、さしだしグラスを乗せてから、その横に白い灰皿を用意してくれた。

「この前さ、”黒キリン”に余計なことを吹き込むなって、”ネコ缶”が、珍しく怒ってたんだけど。二人の恋は順調って事?」

 白いシャツに黒いエプロン姿で、微笑しながら”リスナー”が言う。

「順調、か……僕には分からないです」
「分からないって言うのは?」
「嵯峨さんは、多分僕のことをセフレだと思ってるから」

 そうして僕は、細いグラスを傾けた。

「え。付き合ってないの?」

 無言で頷くと、目を丸くして、カウンターの奥で”リスナー”も煙草を吸い始めた。

「じゃあ両片思いって事?」
「僕は、好きだって伝えたけど。嵯峨さんは何も言わなかった。多分、僕の片思い、一方通行だよ。嵯峨さんは、僕の事が好きじゃないんだと思う」
「好きって言われたこと無いの?」
「無いな」

 当たり前すぎて、まさか聞かれるとは思わなかった問いだった。
 首を傾げながら、僕はカクテルを飲む。コーラベースだ。

「ゴメンね」
「別に、大丈夫です」

 ”リスナー”と話していると、あんまりにも気が楽になるから、僕は時折敬語を忘れてしまう。彼は殺人者のはずなのに。

「――あのさ、”黒キリン”」
「何?」
「誘われなければ”ネコ缶”は、誰か連れて帰ったりしないんだよ。話を聞く限り、”ネコ缶”が自分から連れて帰ったのは”黒キリン”が寧ろ初めてだ。それにアイツ、一回誰かとヤったらさ、二度と呼ばないし、連絡先の交換もしない」
「連絡先は僕も知らない。ただ、一回だけじゃないのは、よく僕が嵯峨さんの家に行くからだと思う」
「その家だって、都内を転々としてるんだよ。でも特定の場所にいるって事は、君をきっと待ってるからだと思うなぁ」

 そんなやりとりをしていると酒がからになったので、僕は酔っぱらいたくなって、もっと強い酒――バラライカを注文した。今日は、嵯峨さんの姿もないし、それこそ記憶が飛んで全てを忘れてしまいたいほど、飲みたかった。

「慰めないで」

 ポツリとそう告げると、”リスナー”が苦笑した。

「――もう一回聞くけど、”黒キリン”は”ネコ缶”が好きなんだよね?」
「はい。多分」
「じゃあやっぱり両思いだと思うんだけどね」

 ”リスナー”は、そう言いながら、煙草の火を消す。

「この前、”ネコ缶”が一人で来た時さぁ」
「はい」
「”黒キリン”と自分は一回りも年が違う、って言ってたよ。気にしてたのかも」
「そうですか」
「恋って何か聞いてきたよ」

 ”リスナー”が傍らにあった、ラムコークを傾ける。

「だから俺は隣にいて安心できて、今何やってるのかなぁとか考えて、瞼の裏側によく浮かぶ相手――でも、いざ顔を合わせたら、どうして良いか分からなくなる相手かな、って答えたよ」
「そんなありきたりな回答、嵯峨さんの記憶にはきっと残らない」
「そう言われちゃうと、返す言葉はないんだけどね――それに、俺が言って良いのか分からないけど。”ネコ缶”は、好きなのかも知れないって零してた。多分アレは、”黒キリン”のことだと思うよ」
「まさか。そんなはずない」

 ”リスナー”の言葉に思わず笑ってしまった。

「どうして?」
「僕は、昔からカンだけは良いんだ。外したことがない」

 そんな話しをしてから、もっと強い酒を僕は頼んだ。
 その辺から、記憶が飛んだ。

 気づくと、僕は、フラフラと夜の道を歩いていた。
 池袋の雑踏の中を、≪異形≫が透過し、通り過ぎるのを眺めながら。
 嗚呼、早く帰らないとなぁと思いながら――何処に帰ればいいのか、思案した。
 ここのところ、夜はBarか嵯峨さんの所にいたから、自分のアパートに帰るのは久しぶりだ。

 まだ終電はあるかな、何て考えて、ラブホ街の一角に座り込んだ。
 頭がグラグラする。

「ねぇ、お兄さん一人?」

 その声に顔を上げると、金髪の青年が立っていた。
 鼻が丸いなぁ、何て思っていると、彼が続ける。

「俺、終電逃しちゃったんだ。男同士だし、変なこと絶対にしないじゃん? だから、ラブホ行かない?」
「……」

 確かに男同士なのだから、普通はそうだろう。
 そう考えるだけで、その事実だけでも、やはり嵯峨さんは気まぐれに自分を抱いたんだろうなと思う。本来は、女の人の方が良いはずだ。

 ぼんやりと、そんな事を考えていると、しゃがんだ膝の上に乗せていた手を取られた。
 それから、肩を抱かれる。
 酔いで朦朧とした頭は、相手が何をしているのかではなく、嵯峨さんのことでいっぱいだった。

「――からさぁ、俺男もイけると思うんだ。女の後ろは開発したことあるし」
「……」
「お兄さんくらい綺麗なら――」

 バシン。
 その時、何かを殴りつけるような音が響いた。
 緩慢に視線を向ければ、そこには眼をスッと細めた険しい顔の嵯峨さんがいた。

 ――ああ、夢だ。
 僕はそんな事を考えながら、嵯峨さんの拳で罅が入った壁を見る。

「悪いがそいつには連れがいる」
「え?」
「そいつを離して、とっとと失せろ」

 嵯峨さんの冷淡な気配に、金髪の青年は走り去った。
 フラフラと足下がおぼつかないため、肩を抱かれていたその手が離れた瞬間、倒れ込みそうになる。

 それを走り寄って嵯峨さんが受け止めてくれた。温かいなぁと思う。
 涙が出そうになって、そして気づいたら泣いていた。顔を嵯峨さんの胸に押し付けたまま、声を殺して。

「馬鹿が」
「なんで――」
「なんで? ああ、悪かったなぁ、ラブホに行くのを邪魔したか?」

 冷笑しているような嵯峨さんの声に、苦しくなった。

「兎に角、だとしても、この時間に外を歩くなんて自殺行為だ」
「馬鹿」
「あ?」
「馬鹿馬鹿馬鹿」

 夢の中なのだから良いだろうと思い、顔を上げて僕は嵯峨さんを睨んだ。
 すると冷たい笑顔で笑っていた嵯峨さんが、急に目を丸くした。
 僕は何故なのか、泣いていた。

「馬鹿」
「おい、酔ってるのか? なんで、ここまで……」
「僕の事なんてどうでも良いくせに」
「……どういう意味だ?」
「僕、何でこんなに、馬鹿なんだろう」
「おい?」
「本当、馬鹿」

 そのまま僕は寝てしまったらしい。気がつくと、嵯峨さんのマンションにいた。
 頭痛がする。

「……あれ、何で僕」
「……」

 隣の椅子に座っていた嵯峨さんが、睨むように僕を見てから溜息をついた。
 最後の記憶は、”リスナー”の店にいたことだ。

「あ、僕、酔いつぶれて――っ、連れ帰ってくれたんですか……」

 何も言わずに冷たい顔で、嵯峨さんが僕を見ていた。
 きっと呆れられたんだなと思うと、まだ酔いが残っているのか、涙が出てきた。
 多分、今まで以上に、嫌われたんだろう。
 そう思うと哀しかった。もう、嵯峨さんの顔を見ていられない。

「帰ります」
「――まだ朝方だ。”出る”時間だ」
「だけど……」

 情事が無いのに、二人きりで此処にいるなんて、今まで無かった。
 今の僕には、きっとそれも出来ない。
 価値がないのに、此処にいちゃ駄目な気がした。

「もう少し寝ていろ。邪魔なら、俺は向こうに行く」

 嵯峨さんは、そう言った時にはもう、椅子から立ち上がり、扉へと向かっていた。
 パタンと閉まった扉の音を聞いていたら、また哀しくなって、僕は泣いた。

 どうして僕は、こんなに嵯峨さんが好きなんだろう?
 どうしたら、僕は嵯峨さんに嫌われずにすむんだろう?

 僕のことを好きじゃなくても良いから、せめて嫌われずにいたかった。