<6>嵯峨 旭――(※)


 巨大な金槌で、嵯峨の後頭部から側頭部にかけてを潰した青年は、実に柔和な表情をしていた。緑茶色の髪に黒い瞳の、何処にでもいそうな青年だった。きっとすれ違っても、すぐに記憶から消えてしまうだろう。強いて言うならば、前髪が長い。彼は白いシャツを着ていて、その上には黒いエプロンが着けられている。シャツのボタンは二つほど外れていた。

「大丈夫?」

 声をかけられ、呆然としたままだった”ナナキ”は、顔を上げた。

「いやぁ、”ネコ缶”にも賢者タイムってあるんだなぁ」

 朗らかなその声に、頽れ血を流している嵯峨の体を抱きとめながら、
 ”ナナキ”は呆気にとられていた。

「これでも君のことを助けに来たつもりだったんだけどな――俺のストーカーの”ネコ缶”が、ついに思い極まり俺と重ねて強姦してるのかと思ってね。あ、同意だった? ”ネコ缶”ってば、毎日毎日飽きもせずに俺の店見張ってるんだよ」

 何が楽しいのか、二十代半ばくらいに見える青年は、笑っている。
 開いてるのか閉じてるのか不明な細い眼を、更に細くし、唇に弧を
 張り付けながら、青年は続ける。

「もしかして勘違いだった? 本当に、助けに来たつもりだったんだけどなぁ」

 何も言えないまま”ナナキ”は、重い嵯峨の体を抱きしめていた。

 肩に顎を乗せ、陥没箇所は見たくなかったから、あえて視線は向けない。
 けれど流れ出る血液も肉片も、自身の右腕を濡らしていくのが自覚できた。

「俺は、ここでは”冷梅(ひやしうめ) ”って呼ばれてる。日中はお花屋さん。はい、これ良かったら、俺の名刺」

 大きな金槌を脇に挟み、両手で”冷梅”が名刺を差し出した。
 腰が深々と折られている。

「普段は、瞳を持たない”贄羊”の群れの一つ――”遮断機”の、主人(マスター) をしてるんだ。よろしくな――”贄黒羊”には、恨みしかないから、仲良くは出来ないだろうけど」

 つらつらと淀みなく、”冷梅”がそんな事を言った。
 その瞬間には、その部屋に、何処にいたのか数十人の人々が姿を現していた。大抵が黒いサングラスをかけていた。

「死ねばいいのに――ああ、死んだのか」

 誰かがそう口にした瞬間、周囲で失笑混じりの忍び笑いが伝播していく。
 しかし、”ナナキ”の頭の中には、何一つそれらの声は、入ってこなかった。

 ――目の前では、嵯峨さんが、人が一人死のうとしているのに?

 どうして、笑っているんだろう? 何故、嗤っているんだ?
 何もかもが理解できなくて、何かを理解することを何かが拒んでいて、その結果――……”ナナキ”の意識は、白い闇に飲まれたのだった。



「……フ、ハ、ハハハハ、アハハ」


 急にその時、乱暴に嵯峨の体をアスファルトが打ちっぱなしの床の上に突き飛ばし、”ナナキ”が笑った。いや、嗤っていた。それは、哄笑だった。

 その姿に瞠目し”冷梅”は、気づけば反射的に、後方へと跳び距離を取っていた。

 ――恐らく悲鳴すら上げる時間は無かったのだろう。

 そこにいた六十名の内の四十数名は、既に息絶えていた。
 首から血を流す者、心臓や肺に刀をつきられた者、様々だ。

 ”冷梅”同様、唐突にあふれかえった”ナナキ”の気配に、逃避あるいは後退した、十数名のみが、辛うじて生きている。

 そこに立っていたのは、最早既に、”ネコ缶”に縋っていた、酔った大学生などでは無かった。”リスナー”からの情報で、”狐提灯”――安倍九尾家の縁者であることは知っていたが、同時に”力を使えない無能”であるとも、聞いていた。

 では、コレはなんだ――?

 また二人の首が飛び、”冷梅”の正面に、生首が転がった。
 いくら名高く歴史も古い”狐提灯”であろうとて、この、これ程までの”力”を、無能だ等と評することは出来ないはずだ。

 哄笑をいつの間にか止め、今度は笑みすら浮かべず無表情になった”ナナキ”が、目の前まで近寄った瞬間、反射的に下へと屈んで、その打撃を交わす。そして蹴りを入れようとするが、あっさりと交わされ、刀を突きつけられた。

 これは――決意し、唇の片端を持ち上げてから、右手で刀身を無理矢理掴んだ。

「っ」

 僅かに息を飲み、刀を引かれる。
 ”冷梅”は、己の右手の、親指から上の部分が掌事切り落とされたのを確認すると同時に、右に飛んで距離を取った。噴き出す血を一瞥してから、首を傾げる。

 蒼い月明かりを――いいや、赤紫色の月明かりを反射させている、長い刀は輝いていた。

 血曇り一つ無いのは、彼が、刀を床へと向かって振ったからなのか。赤い血液が、下へと点々と跳ね、床には、ダラダラと水たまりを築いている。

「まるで、人形だね」

 率直な感想を”冷梅”が口にしたその時、”ナナキ”がゾクリと背筋に冷気が這い上がるような冷笑を浮かべた。

 そのまま”冷梅”が辛うじて避けた時には、その場にいた”遮断機”の人間で生きているのは、己ただ一人となっていた。

 月明かりで蒼くも見えるが、”ナナキ”が着ている着物は、白い。それこそ合わせ目まで死人の仕様で、死に装束にすら思えた。だが彼が殺すのは己ではなく、圧倒的に他者だという事がよく分かる。いつの間に、服がかわったのかだ何て言うのは愚問だ。武器同様、いつでも装束は出現するのだから。

「あーあ、”殺戮人形”を起こしちゃったんだ」

 その時不意に、そんな声が響き渡った。
 声の主を”冷梅”は知らなかったし、周囲を見回してもそれらしい人影はない。

 それは同様だったのか、眼を細めた”ナナキ”が、素早く周囲に視線を向けたのが分かった。

 ――誰だ? それは、敵か、味方か。
 たった一人、不測の事態で生き残った”冷梅”は逡巡する。

「逃げた方が良いと思うよ”冷梅”」

 だが、相手は自分のことを知っているようだ。それは、重々承知していた。
 逃げたいのは山々なのだが、対峙している”ナナキ”には、隙が無さ過ぎる。もし仮に一つでも間違った行動を取れば、その瞬間には間合いを詰められ、首だけになる自信があった。


 ――その時、ピクリと、背後で嵯峨の動く気配がした。

 虚を突かれたように、初めて”ナナキ”――あるいは”殺戮人形”の表情が揺れるのを”冷梅”は、見て取った。それからの行動は早かった。どこから響いてきた声なのかなど分からなかったが、全力でその場から逃げたのだ。

 逃げることは、恥じることではない。
 それが、彼の矜持だったのだから。