<4>嵯峨 旭――


 ――ピンポン。

 そんな馬鹿げたありきたりな音を立てた呼び鈴。幸いだったのは、このアパートへと来るまでの間、≪異形≫と、あまり遭遇しなかったことくらいだろう。

 ――ピンポン、ピンポン。

 しかし二度目に二回押しても、室内からは、何の応答もない。
 気づけば右の掌で、口元を覆っていた。嫌な汗が浮かんでくる。嫌な想像が過ぎる。もしも、もしも、だ。今日は無駄に多い≪異形≫に、囚われているならば? 己が遭遇したのだから、”ナナキ”もそうである可能性は高い。無事に、無事に帰ることが出来たのか?

 嵯峨の不安はそれだけだったが、何も出来ないのが苦しくなって、もどかしくなって、呼び鈴を連打した。そんな事をしていても無意味で、本来ならば、姿を探して助けに行くべきだという事は、嫌と言うほど分かっていたのに。

 ――ピンポンピンポンピンポン……以下∞。

 気づけば嫌と言うほど繰り返しながら、嵯峨は呼び鈴を押すと言うよりも、叩きつけていた。

「……はーい。なにか御用ですか?」

 その時、間延びした声と共に、チェーンを外れる音と、鍵回る金属音、そして扉が開く音が響き渡った。

「って、え?」

 嵯峨の姿を見た”ナナキ”が、虚を突かれたように目を瞠っている。
 その姿にどうしようもなく安堵して、肩から力を抜きながら嵯峨は目を伏せた。

「あれ、何で此処に?」

 動揺したような”ナナキ”の声に、嵯峨がうっすらと目を開く。

「別に。忘れ物だろ、コレ」

 本来の目的を思いだし、嵯峨は下衣の後ろポケットに無造作にしまっていたライターを差し出した。

「あ」

 受け取りながら、それの存在を思い出したように、”ナナキ”が驚いた顔をした。

「有難うございます――……って、あの」
「なんだ?」
「怪我してるじゃありませんか」
「どうせ”朝”には消える」
「だけど……」

 ”ナナキ”は呟くと、赤く染まった嵯峨のシャツを見た。
 ここに来るまでの間に、喰い千切られそうになったのを、辛うじて回避した結果だった。

「痛いですよね――それに、”朝”まで、まだ時間あるし。良かったら、中に入って下さい」
「……」

 散々セフレだのと言った相手に対してだというのに、無防備に”ナナキ”が扉を開けた。
 素直に中に入り、革靴を脱ぐ。

 ――今度は、あちらに下心があるのか?

 そんな思いと、確かに痛む腹部、そして掌を汚していく血の感触に、嵯峨は思案していた。が、嵯峨の考えなど気にした素振りもなく、救急箱を手に”ナナキ”が戻ってきた。

「とりあえずあの、上着とシャツ脱いで下さい」
「ああ」

 素直に頷きながら、嵯峨は相手の真意を探る。
 そうしていると、傷口に消毒液まみれのガーゼをあてがわれた。シミ無かったというのは嘘だ。息を飲みそうになるのを堪えていると、グルグルと包帯を巻かれる。背中にも、爪で抉られた傷があったせいか、肩から腹部にかけて、包帯が巻かれた。確かに傷は、朝になれば消える。それでも――痛みがその時、無いわけではないのだ。

「はい、終わりです」
「悪いな」
「いえ、別に」

 静かにそう言うと、”ナナキ”が顔を背けた。
 その様子が可愛くて見守っていると、不意に睡魔が来た。そんな経験は初めてだった。

「悪い、朝まで寝かせてもらっても良いか?」

 このままの状態で、≪異形≫が闊歩する”夜月時計の世界”に、戻るのは厳しい。
 そんな事を考えた瞬間、嵯峨は意識を喪失するように、寝入ってしまったのだった。



「はぁ……はい、いつもの居酒屋ですね? 五時に開くから、五時半前には行きます」


 電話の声で、嵯峨は目をさました。
 慌てて体を起こせば、既に怪我は消えていた。痛みもだ。
 いっとき、自分がどこで寝ていたのかわからなかった。

「……ナナキ」
「うえ、あ?」

 通話を終えた様子の”ナナキ”が、狼狽えたように声を上げた。
 振り返った彼に向かい、静かに嵯峨が頷く。

「あ、ええと……そうだ、お腹空いてません?」

 作り笑いだろうと分かる笑顔で”ナナキ”に言われたものの、嵯峨は静かに頷いた。
 すると安堵するように、”ナナキ”が吐息した。

「その……大学の奴と、後はその、執事(?)と、居酒屋行くんですけど、一緒に行きます? お腹減ってたら」

 おずおずと続いたその声に、確かに空腹を感じていたから、嵯峨は頷いた。

 向かった先は、全ての部屋が個室の居酒屋だった――学生時代を彷彿とさせるような、安価な値段のメニューが並んでいる。先に着いた嵯峨と”ナナキ”は、適当に料理を注文した。串盛りや、納豆オムレツ、軟骨の唐揚げ、等々。別に食べたい物が特になかったので、嵯峨はタッチパネルを操作する”ナナキ”を眺めていた。丁度その時――待ち合わせ相手らしい大学生と、執事(?)がやってきた。

 学生の方は、別段構わない。

 しかし四人で、一斉に生ビールを飲みながら、入ってくるなり威圧感を撒き散らしている青年を見て、思わず嵯峨は言葉に詰まった。

 黒いスーツの青年だ。だが特に自己紹介が始まるわけでもなく、皆で雑談をする――その後、”アベマツリ”という名前らしい青年の非日常的な話が始まった。

 ジョッキを傾けながら――……彼もまた”夜月時計の世界”という非日常に巻き込まれたのだろうと推測する。

 何度か、茶丘時雨と名乗る執事(?)と目があった。

「そんなこんなで、俺はヤりまくりだったわけ」

 祀理の声に、嵯峨が、勢いよく麦酒を吹き出しそうになった。
 何てあけすけと語るのだろうかと、思わず隣の”ナナキ”を一瞥する。

「ふぅん」

 しかし”ナナキ”には、気にした素振りはない。

「――というわけでな、俺には執事(?)が出来たんだ」
「へぇ……ああ、何て言うの? 言葉が見つからない」

 続いた”ナナキ”の声に、それはそうだろうと、嵯峨が腕を組む。
 それから淡々と眺めていると、会話が再開された。

「けどそれ、多分僕とお前も親戚だって事だ」
「え?」
「京都の安倍九尾の七木だろ? それって。横にいるのは……茶丘の時雨さんか」
「ええ。亮様のお目にかかるのは、お久しぶりです」
「なんか大変そうだな。ま、僕で良ければ話は聞ける」

 どうやら自分以外の皆が、”狐提灯”の関係者であると判断し、嵯峨は麦酒を飲む。
 その時のことだった。

「ところでこちらは?」

 いきなり祀理が嵯峨を見た。心地の良い炭酸が喉を流れていくところだったから、何も応えずに顔を上げる。

「ああ、嵯峨さん」

 すると嵯峨の代わりに、”ナナキ”が答えた。

「嵯峨さん?」
「刑事さん」

 不意の答えに、祀理が息を飲むのが分かった。

「なんだそれ。まさか、俺の拉致事件の調査?」
「いや。何て言うか、どっちかと言えば、僕の送り狼」

 しかし二人のやりとりに、咽せた嵯峨は、麦酒を吹き出しそうになった。

 確かに、そうなのだ。それは、間違ってはいない。
 だが、明らかに此処で出す話題ではないだろう。

 ”ナナキ”から差し出された白いタオルで、僅かに零した麦酒を拭う。
 そうしていると、忌々しそうな視線に気がついた。
 それは、茶丘時雨と名乗った執事(?)からのものだった。

「――”夜月時計の世界”の”贄黒羊”ですか」

 続いて響いた言葉に、嵯峨もまた眉間に皺を刻んだ。
 ”ナナキ”の友達であるという祀理は兎も角として――こちらの茶丘という執事は、確実に、”夜月時計の世界”を知っているのだから、気は抜けない。しかし自分たちが敵対関係にないこともよく知っていた。組織的に≪異形≫を退治してくれる安倍九尾家は、有難い存在だ。

「”狐”の縁者か。ま、どうでもいいけどな」

 口元を拭いてから、嵯峨は改めて麦酒を飲み、ジョッキを置いたのだった。
 それにしても、最近の大学生ってオープンなんだな、なんて思った。