<3>嵯峨 旭――(※)


 マンションから一歩踏み出した瞬間、嵯峨は短く息を飲んだ。

 多分それは、舌打ちに近かった。トカレフによく似た拳銃の銃把を気づけば握っている。撃っても撃っても銃弾を込める必要が無い点と、≪異形≫の体を吹き飛ばす点以外は、一見すれば、ただの黒い銃だ。

 この”夜月時計の世界”においては、”自分の武器”が気づくと出現する。

 それまでは付けていなかったネクタイと、黒いジャケットの感覚にも、もう慣れた。喰い破ろうとしてくる≪異形≫に対峙するために、”贄羊”が築いた”ゑル駄”という商店街で買った一張羅。噛みつこうとしてくる、赤紫色の巨大な歯茎と合間に覗く黄ばんだ歯。ネチャネチャと時折口を開けては、涎を撒き散らしている。――【口ダケ】だ。

 ≪異形≫にも、いくつか種類がいるらしい。

 現在、ほぼ全ての≪異形≫が、正面のアスファルトを横切っている。

 嘘か誠か、この”夜月時計の世界”は、少なくとも平安時代には存在していたのだとか――百鬼夜行等というふざけた名前で。嵯峨は別にそれを信じていないわけでは無かったが、ただ名前などどうでも良いと考えていた。

 ピタリと壁に背をあて、上を向く。夜の星々の瞬きだけは、通常の夜と変わらないのだ。
 それから瞬時に道路を確認して、また身を隠した。息も詰める。嚥下した唾液が、思いの外大きな音を立てた気がした。

 嵯峨が確認した≪異形≫は、少なくとも、これまでに知られている。
 まずは先ほど嵯峨が、銃で吹き飛ばした存在、他に六体が確認されている。


【口ダケ】は、巨大な赤紫色の歯茎のみで構成された口だ。黄ばんだ歯で襲いかかってくる。唾液は強い酸性らしく、噛みつかれれば、肉片が飛び散るだけでは無く、皮膚から骨までを溶かされる。最も頻出する為既に見慣れた、軽自動車くらいの大きさの≪異形≫だ。嵯峨の”銃”であれば、ほぼ一撃で吹き飛ばせる。

【皮膚ムケ】は、五階建ての細いビルのような大きさの、巨人だ。全身の皮がはげているように見え、脂肪が所々に走る肉体を持った、人間によく似た姿をしている。人体との差異を無理に上げるとすれば、鼻と瞼が無いことだろう。緑色の瞳が、ぎょろりと動く。歩く度に腐った肉が飛び散る。しかしゾンビという風でも無い。【口ダケ】の次によく見かけるが、強い攻撃を放ってこない代わりに、中々死なない。単独で相手に出来るのは”雨”や”灯”くらいだろう。それも、群れていない【皮膚ムケ】に限っての話しだ。【皮膚ムケ】は、何故なのか集まろうとする習性を持っているらしい。一匹しかいないのであれば、気づかなければ嵯峨でも頭を吹き飛ばして一体くらいなら倒せる時もある。

【足ツキ蛾】は、人間の足が胴体から出てる巨大な黄色い蛾だ。鱗粉を撒き散らし、それを吸い込めば、肺が溶ける。腐臭に誘われるように、【皮膚ムケ】の現れる場所に姿を現すことが多い。鱗粉さえ吸い込まなければ、こちらも嵯峨は三撃程度で殺せる。観覧車で回る黄色いゴンドラくらいの大きさだ。腹部を撃てば、黄緑色の体液を撒き散らして死ぬ。やっかいなのは、固い外郭に覆われた”蛹”や、死後に撒き散らす巨大な白い”芋虫”の方だろう。孵化する前に見つけ出して、殺さなければ、一晩の内に産まれるからだ。

【蟻サマ】は、巨大な蟻としか言いようがない。嵯峨は一撃で倒せるのだが、あちらの攻撃もやっかいな相手だ。大抵の場合、”贄羊”は為す術もなく、喰われる。巣は無く、女王蟻もいない様子だが、緑色の体液を撒き散らされるといい気はしない。【口ダケ】の次に良く目にする、赤黒い虫だ。

【トゲ球体】は、巨大な球体からトゲや触手が伸びる、それこそ”贄黒羊”に絡みついてきた眼球そっくりの、黄ばんだ白い球体だ。一見瞳に見えるが、しかし白目に当たる部分は、固い。コレが出たら――逃げるに越したことはない。幸いなのは、滅多に出現しないことか。誰であっても単独で倒すのは無理だろう。一説では、人工物では無いかとされているが、そんな事は嵯峨にとってはどうでも良かった。何せ倒すあるいは逃げるべき敵である事には代わりがないからだ。あの白い触手に絡め取られたら、最後。少なくともそう聞いているし、あれに関わって殺されれば、”朝陽時計の世界”でも、怪我こそ治っても、精神が崩壊すると聞く。そしてそうした被害者を、嵯峨も見たことがあった。

【人馬ウツロ】は、半身半馬で、しかし顔には巨大な眼球と口があるのみの≪異形≫だ。大きさも、通常の馬と大差ない。だが、蹴りが繰り出される度に、衝撃波のようなものが生まれる。蹴られれば、即死するはずだ。一度咆哮でもされれば、意識を失う。そうして我に返れば、喰われている。だから誰も詳しいことは知らない。


 以上の、六体だ。
 それら全てが数は兎も角として、アスファルトの上を行き交っている。

「あれ、嵯峨君?」

 その時不意に声をかけられ、冷や汗を伝わせながら、嵯峨は声の主を一瞥した。
 白衣を揺らし、そこに立っていたのは、天草だった。

「何で此処に……?」
「んー、僕の台詞かな。今日は、”お薬”取りに来る日でしょ。あんまりにも来ないから、処方箋出して、わざわざ薬局にまで行ってきた僕を、褒め称えてくれても良いと思うんだけどな」

 アスファルトを闊歩する≪異形≫達は、天草に気づいた様子もなく、透過するように路を進んでいく。恐らく天草が、”朝陽時計の世界”へと強く関わっているからなのか、会話を交わす嵯峨の事も≪異形≫達に気づいた様子はない。

 一気に脱力して、壁にぐったりと背を預けた。
 何が二つの世界を分けるのかは知らなかったが、明るい日の下を歩くのがよく似合っている天草の前では、大抵の≪異形≫が、視えこそすれ、透過するのだ。

「一応僕は外科医だから、範囲外なのに。大体、君は疲れきっているように見えるけど、僕には何にも視えないんだからねぇ」
「そうか……それでも、助かった」
「それより、また引っ越ししたの? 僕既に君の家、五・六軒回ってきた後なんだけど」

 天草がそう言って嘆息した。
 その時、先ほどまで過ごした、天草の知らないマンションのことを思い出して、嵯峨は気づけば息を飲んでいた。そうそう”朝陽時計の世界”に深く関わっている人間などいないのが実情だ。

「おい」
「ん?」
「その――ナナキを見なかったか?」

 焦燥感が滲むような嵯峨の声に、白衣姿のまま、天草が腕を組んだ。

「さっき見たよ。なんか、走ってたけど」
「っ、どっちに行った?」
「あー、あの方向だと、この前クリニックに来た時に、身分確認で見せてもらった時の……自宅アパートじゃない?」

 その言葉に、嵯峨は走り出していた。それを見送りながら、天草が苦笑するように笑う。

「あーあ、あんなに必死になっちゃって」