<2>嵯峨 旭――(☆)



 もうすぐ、夕暮れが訪れる。
 嵯峨はと言えば、黒いありきたりな自動車を止め、ハンドルに顎を預けていた。

 見据える先は――花屋だ。

 白いシャツに黒いエプロンを纏った店員が、人好きのする笑みで、接客をしている。
 ここ数日、嫌、何週間も何ヶ月も、嵯峨はこうして花屋を見ていた。
 いつもただ遠くから、眺めているだけだ。

 車を走り出させる時は決まって――”夜月時計の世界”に飲み込まれる直前だ。
 人殺しも≪異形≫殺しも、好んでするわけでは無かったから、嵯峨は何もなければ帰宅する事にしている。さて今日は、何処に帰宅しようか。都内には、いくつも自分のマンションがある。警視庁特別第九科――怪奇対策室なんていう馬鹿げた部署に所属している嵯峨には、一人暮らしが許可されている。

 その時、不意に”ナナキ”の事を思い出した。
 ――まだ、”ナナキ”は、いるだろうか。

 明日は休暇だったなと、そんな事を考えながら、嵯峨はマンションの鍵を開けた。

「……気楽なもんだな」

 そしていまだにベッドで、シーツを握りしめて眠っている”ナナキ”の姿をまじまじと見た。

「おい、起きろ」
「ん……」

 声をかけると、気怠い声が返ってきた。
 目を伏せたまま、ナナキが静かに眉を顰めている。

「起きろ、いい加減に起きないと撃ち殺すぞ」
「……あ」
「起きたか?」

 嵯峨が険しい声をかけると、ハッとしたように”ナナキ”が体を起こした。
 それからしばらくの間彼は、面倒くさそうになった嵯峨の姿を見据え、そして頬を朱くした。まぁ、行きずりの関係を持ってしまえば、羞恥もあるだろう。そうは思ったが、嘆息するに留めて、近場の椅子に嵯峨は荷物を置いた。

「起きたんなら帰れ」

 その後、冷蔵庫の前に立ち、嵯峨はミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
 心地良い冷たさの水が、喉を癒してくれる。

「あの」
「なんだ? ああ、お前も飲むか?」

 気づいてペットボトルを投げて渡すと、慌てたように”ナナキ”が受け取った。

「いや、あの、そうじゃなくて」
「じゃあなんだ?」

 気怠さの滲む鋭い目で、”ナナキ”を見る。
 嵯峨は、面倒ごとが嫌いだった。

「……連絡先とか」
「連絡先? どうして?」
「え、あ、その……」
「生きているなら、この界隈にいる限りまた会うだろう。後は大抵、”夜月時計の世界”の間は、”リスナー”の店で飲んでる。そこにいなければ、天草クリニックにいる。必要なら、会いに来ればいいだろう。なのに、連絡先は必要か?」

 思わず馬鹿にするように笑いながら、嵯峨はそう口にしていた。
 するとベッドに腰掛けたまま、近場に落ちていたシャツを拾い、ポチポチと”ナナキ”が服を着る。俯いたその瞳が、どこか哀しそうに見えた。

 ――だが、哀しそうだからと言ってなんだ?
 嵯峨は己が気にするような事柄ではないと判断していた。

「――多分、僕は嵯峨さんの事が好きだ」

 ポツリと響いた”ナナキ”の声に、嵯峨があからさまに溜息をつく。

「体に絆されたんだろ」
「っ、違――」
「違わないな。あるいは、助けてくれたから、そんな理由だろ、それは」

 淡々と告げてから、嵯峨は煙草を銜えた。
 紫煙が、部屋の壁へと溶けては消える。

「セフレで良いなら、連絡先ぐらいは教えてやっても良い」
「!」

 目を見開き硬直した”ナナキ”の姿に、さっさと帰れと思いながら、嵯峨は眼を細めた。
 もしも――あるいは幸福に出来ると確固とした自信を持つことが出来たら、嵯峨だって甘い関係を構築したいとは思っている。だが現状がそれを許してくれない以上、きっぱりと断るのが優しさだ。”ナナキ”を見守っていると、下衣を穿かないまま、唇を噛んで立ち上がっていた。

「……それでも、僕は多分、嵯峨さんが好きだ」
「何言ってるのか分かってるのか?」
「うん、良いよ。それで」

 嵯峨の正面に立ち、”ナナキ”が苦しそうな顔で見上げてくる。
 馬鹿な奴だなという感情と、ここまで面倒だったとはと言う感情、そして僅かに、酷い言葉を告げた自身への悔恨に似た感情が、嵯峨の胸中でせめぎ合う。

「――本気か?」
「うん」
「じゃあ、それがどういう事か、教えてやるよ」

 言うが早いか、”ナナキ”を後ろ手に押し倒し、ガチャリと金属音を立てて手錠をはめ、嵯峨は静かに笑った。それから自分のネクタイをほどいて、目隠しする。

 そしてこれまでに肉体関係だけ持った誰かが、新品のまま忘れていったローターを抽斗の中から持って戻ってきた。箱を破る音が谺し、そこへ昨日から置きっぱなしにしていたローションをまぶす。

「うあッ、あ」

 下半身に何も付けていなかった”ナナキ”に前を向かせ、無理に開脚させて、そのローターを押し込んだ。

「あ、ぅあ、や、ヤだ、ああっ」

 無表情でリモコンのスイッチを入れ、嵯峨は溜息をついた。強弱の弱にあわせる。

「俺のセフレになるってのは、こういう事だ」
「ン、あ、ああっ、ァ、ああんぅ――!!」

 ブルブルと体を震わせた”ナナキ”の、白い喉が震えている。
 時折ビクンと体を震わせ、藻掻くように手錠から逃れようとしているのが分かった。
 顎を無理矢理掴み、上を向かせて、無理やり唇を奪う。粘着質な音が響くのには構わず、口腔を蹂躙した。舌を追いつめ歯列をなぞり、息苦しそうに”ナナキ”が唇を動かす度に、今度は角度を変えて舌を嬲る。

「ひ、ァ、ふぁ……あ」

 息づかいが上がった”ナナキ”には構わず、舌を絡め取って引き出してから、甘噛みする。

「フあっ」

 ぴくんと体を震わせ、息苦しそうに”ナナキ”が肩で息をしている。
 それを見守ってから、ローターを強に変えた。

「うア――……や、ヤだ、嫌だッ、あ、ああっン、やぁっ」
「出したいか?」

 鼻で笑いながら嵯峨が言った時、”ナナキ”が果てた。それを確認してから、ローターの動きを止め、中から引き出した。

 口も下腹部も、ぬるぬると濡れている。
 ネクタイを外してから、胸ポケットに入っていた手錠の鍵を取り出す。
 まだ呆然としたようにしている”ナナキ”を見る。

「懲りたら二度と来るな」

 嵯峨それだけ告げると、エントランスを視線で指した。
 そしてウェットティッシュを放り投げてから、自身は浴室へと向かった。
 シャワーを暫く浴びてから、部屋へと戻る。そこにはもう、”ナナキ”の姿が無かった。――少しだけ寂しく感じて、虚無感を覚えたのは、何故なのだろう。本人もその理由が分からなかったから、髪をタオルで拭きながら、煙草を銜える。

 煙を吐きながら、冷蔵庫から麦酒を取り出し、プルタブを開けた。

 心地の良い炭酸が喉を癒していく。ひっそりとその事実に嘆息した時、不意にテーブルの上に置いてあったライターに気がついた。ジバンシーだったか。ブランドには詳しくない嵯峨から見ると、ラーメンのどんぶりに付いていそうなデザインが施されている。きっと

 貧乏学生を地でいくような”ナナキ”にとっては、それなりに高い買い物をしたのだろう。いつかその時の被害者の隣のアパートの部屋に住んでいると聞いた”ナナキ”の家と身元を、嵯峨は知っていた。

「返すとしたら、今だろうな――もう、会うこともないだろうし」

 ただ、それだけだった。少なくとも嵯峨は、そう己に言い聞かせたまま、立ち上がった。
 シャツだけ纏い、黒い下衣を穿く。ジャケットとネクタイは別に良いか。外見に気を遣って会うような仲ではないし、早く追いかけるに越したことはない。

 革靴を履き、外へと出た時、嵯峨の頭は、泣きそうだった”ナナキ”の表情で、何故なのか占められていた。だから現在が――”夜月時計の世界”だと失念していたのだろう。

 嗚呼、月は、赤紫の色をしていた。