<1>嵯峨 旭――(※)



 白いシーツに皺を作り、まだナナキは眠っている。
 嵯峨旭はそれを一瞥しながら、赤いマルボロを銜えた。

 時刻は、午前十一時。

 大学があるとすれば、とうに遅刻しているだろう。
 だが、あまりにも無防備に、寝入っているナナキを見ていると、起こす気がおきない。
 相手の酔いに任せて襲った自分だというのに、安堵しきった様子で彼は寝ているのだ。

 柔らかそうな黒い髪を、歩み寄って撫でたくなった葛藤。

 それを押し殺して、傍らの机に、嵯峨はカードキーを置いた。

 普段の自分からは考えられない行動だったが、この部屋は滅多に使わない”夜月時計の世界”のために用意したマンションなのだから構わないだろうと独りごちた。

 思えば連絡先など何も知らなかったから、『起きたら帰れ』とだけ書き残して、嵯峨は部屋を出た。嗚呼――今日も仕事が始まる。

 仕事とは名ばかりで、警視庁特別第九科――怪奇対策室には、ほとんど仕事はない。
 精々が、学校の七不思議を解明してくれといった物だ。
 それは此処ではなく、精神科の範疇だと何度告げたか、分からない。

 本日もそんな対応をしながら、嵯峨は煙草のフィルターで、灰皿に山を築いていた。

「嵯峨さん……今日、機嫌悪くないですか?」

 その時、名前すら覚えて無い部下に言われ、嵯峨は顔を上げた。
 何せ部下になった者は皆、一ヶ月以内に辞表を出すか、殺されている。
 覚える価値も、記憶する価値もない。

 ――一々そうしていたら、とっくに心が壊れているはずだ。

「別に」

 淡々と応えた嵯峨に、安堵したように部下が言った。

「そうですか。あの、お客様がお見えです」

 続いた声に、あからさまに嵯峨は眉間に皺を刻んだ。
 周囲に漂った冷気には、部下も流石に息を飲んでいる。

 しかしそんな事は考えずに、嵯峨は思案していた。

 もしも、ナナキが鍵を返しに来たのならば、それで良い。
 あり得ない話しだが、”リスナー”が仮に自首してきたのだとしても、何ら問題はない。
 だが、両者共に、その可能性は低い。

 特にナナキは、この職場の場所を知らない。あの部屋には、警視庁特別第九科――怪奇対策室の場所を示すような物は何も置いてはいないのだから。

「どんな奴だった?」
「え、普通のリーマンって感じで……『コンポタ』飲んでましたけど」

 その言葉に嘆息し、嵯峨は立ち上がった。

「ちょっと出てくる、お前一区切りついたら、飯に行け」
「は、はい!」

 新人にそう告げて、嵯峨は階段へと向かった。
 そして一階にあるソファの前で立ち止まった。
 見れば、ソファの背に両腕をまわした”コンポタ”がいた。

 灰色のストライプ入りのスーツを着ている。
 革靴が光っていて、ネクタイの色も明るい。

「なにをやってるんだ?」
「聞く前に缶コーヒーの一本でも奢って、”ネコ缶”」

 そう言うと、”コンポタ”は、猫のような眼を細め、側にあった自動販売機を見据えた。
 仕方がないので歩み寄り、無糖と微糖の二本を購入し、嵯峨は戻って隣に座る。
 缶コーヒーのプルタブを開ける音だけが、その場に響いた。
 『コーンポタージュ』以外を飲んでいるのを、初めて見たかも知れない。

「”リスナー”が、人を殺したんだってね」
「だからなんだ?」
「うわ、警察官にあるまじき言葉」

 クスクスと笑い、それから”コンポタ”が缶を傾ける。
 その揺れる茶髪を見据え、嵯峨は眼を細めた。

「しかも昨日――お持ち帰りしたんだって?」

 そんな言葉が響いた瞬間、気づけば嵯峨は、銃を放っていた。
 目の前で、派手に脳漿が逆側に飛んでいく。
 桃灰色の小さな肉片が、血で染まる。

 冷静な思考で――こいつは”流転時計”を持っているのだから、”朝陽時計”の世界でも死なないと、どこかで理解していた。

 飛び散った脳漿が、黒いソファの上に、ポタポタと落ちている。吹き飛んだ血液よりも、そちらの方に、吐き気がした。銃声は無かった。

 衝撃でソファに横たわった”コンポタ”を淡々と一瞥し、嵯峨は立ち上がる。
 ――向かった先は、洗面台付きのトイレだった。

「う、あ」

 短く呻いて、吐瀉物を堪え、飲み込んで誤魔化した。
 本当は洋式便座の中に吐き出したかったが、その余裕が彼には無かったのだ。
 水道水を勢いよく流し、口元を拭ってから、手もまた洗う。
 鏡を見れば、己の黒い瞳と視線が合いそうになった。

 ――いつか天草に聞いたことがある。
 鏡の中の自分とは、決して目が合わないのだと。

 だから目が合う前に視線を逸らし、嵯峨はポケットを探った。

 プチプチと音を立てて、錠剤を二つ手に取る。
 舌に乗せると、溶けるような甘さがした。
 それを無理に飲み込んでから、水道水でうがいをする。
 その甘ったるい味が、嵯峨は大嫌いだった――だが、それだけが、己を現実世界へ唯一留めてくれる蜘蛛の糸だという事も、よく実感している。

 初めこそ、天草が言う通り、”夜月時計の世界”など妄想だと思っていたのに。
 なのに、それなのに、だ。
 きつく厳しい現実は、嵯峨にそれを許してはくれなかった。

 トイレから出ると――脳漿を片付けた様子で、やはり”コンポタ”は笑っていた。
 まだ穴の空いた頭部からは、赤い血液が線を作って流れている。

「珍しいね、そんなに苛立ってるの」
「別に」
「悪いけど、応援はしないよ」
「必要ない」
「それに僕、子供は嫌いなんだ。特に十代後半。舐めてるよね、僕達大人のことを」

 吐き捨てるように告げた”コンポタ”は、きっと、”雨”や”灯”、そして”霙”を想定しているのだろう。”コンポタ”について嵯峨が知っている唯一の事柄は、彼が今年で、二十六歳になると言うことだけだった。

「ああ――そう言えば、君の使えない部下」
「誰だ?」
「僕の来訪を君に告げた人、かな」

 顔すら思い出せず、嵯峨が首を傾げた。
 黒いネクタイが、静かに揺れる。

「殺しておいたから、安心して。断末魔も何もなく、一瞬で、苦しむ事もなく眠ったよ」

 それを聞いても、嵯峨はただ、そうなのかという感想しか抱かない。

「辛い?」

 微笑しながら、”コンポタ”が言う。

「いいや。別に」

 淡々と応えるとスッと眼を細めて、”コンポタ”が空になった缶をゴミ箱へと投げた。
 ダストボックスからは、缶と缶がぶっつかる高い音が響いた。

「じゃあ――”ナナキ”君を殺しても良い?」

 その嘲笑を聞いた時、何故なのか嵯峨は再び、拳銃の銃把を握りしめていた。

「……冗談だって、冗談。”夜”が来る前に、二度も殺されたら、さすがに僕もキツイ」
「そうか」

 頷いて、嵯峨が拳銃を下ろすと、”コンポタ”が首を傾げた。

「好きなの?」
「お前よりは、な」
「へぇ。僕より嫌いな人、いたんだ」

 そんなやりとりをする内に、”朝陽時計の世界”が、過ぎていった。