<5>現実世界への浸蝕


「アぁっ……ンぅ、は」
「どう?」
「やぁ、ヒスイくんッ、もっと奥……!!」
「いいよ、此処でしょ? 此処が、好きなんだろ?」
「ヒ、ヒスイくん……」
「なに?」
「愛して、る」

 自慢じゃないが、僕のアパートの壁は薄い。
 実家と縁が切れていて、仕送りなんて無い以上、僕にはこのくらいの物件しか見つけられなかった。湿気も多いし駅からも遠い上、幽霊物件らしいが、一応二階にある六畳一間で、風呂もトイレもある。角部屋の隣だ。

 唯一の難点はと言えば、やっぱりこの――あえぎ声だろうな。
 最近彼氏が出来たのか、ほぼひっきりなしに響いてくる。
 しかも――両方男の声なんだ。僕は、泣いてもいいと思う。

「ン、アっ……く、苦しい」
「本当に?」
「ぅああっ――アガッ、グォォァアアアアオオオオ」

 やってられないなぁと煙草を銜えた時、僕は驚いて目を見開いた。
 幸い火をつける前だった煙草を、灰皿の上に置く。
 明らかに、今の声は嬌声なんかじゃなくて、悲鳴に聞こえたのだ。

 ――そういうプレイ?

 にしては激しすぎるだろう、まさに断末魔のような咆哮だった。
 その上、あえぎ声はそこで潰えた。

 眉を顰めた僕は、その直後、失笑を聞いた気がする。

「ッ、ハハハハハハ!! 残念ながら俺は、恋だの愛だの友情と言った感情には懐疑的なんだよねぇ」

 笑い声なのに、ゾッとした。笑っている、嗤っている。これは――嗚呼、踏み潰された猫が最後に放った鳴き声に嘲笑すらしなかった”雨”や”灯”よりも、きっと暗い。

 歯を噛みしめて、僕は立ち上がった。

 無意識にエントランスへと向かい、チェーンを外した時――隣室からも開閉音が響いた。
 慌てて外へと出た僕は、ゆっくりと下を見たまま歩いてきた青年を見た。
 大学生か、高校生か。
 二十代前後に見えるが、”雨”達よりは年嵩に見えたし、”霙”なんて外見からの年齢の判別が難しかったから、見た目だけでは何とも言えない。

 晴れ渡っているというのに、青年は、無地の黄色い雨合羽を着て、彼はフードまで被っていた。彼は、出てきた僕を一瞥すると、興味が無さそうに、口元だけに弧を張り付ける。

「一つあげるよ」

 青年はそう言うと、白いイヤホンを外した。
 そして僕にみかんを一つ差し出した。
 翡翠色の瞳が嗤っていた。
 反射的に受け取った僕は、悲鳴を上げた。

「うわッ」

 見れば、僕の視界に入らない部分が、茶と紫の混合状態で腐っていて、そこから蛆虫が数匹わき出ていたのだ。思わず取り落とすと、少年が小首を傾げて笑う。

「あーあ。もったいない」

 ぐしゃりとみかん踏みつぶした青年は、そのまま歩き去った。
 みかんの橙色と、蛆虫の白が、床の上で潰れている。

 正直――僕は迷った。
 隣室で何事かあったのは、間違いないように思う。

 近年では、隣室の住人による暴行殺人事件も多い。僕が不審者を見たと言って、はたして信じてもらえるのか? 逆に、連絡せずに、虫の息かも知れない隣人が死んでしまったら? その罪を僕は抱えて生きていけるのか?

 チクタクチクタクチクタクと耳障りな秒針の音が響いた。

 本当は、何も無かった可能性は?

 そして決意した。
 例え何も無かったのだとしても、だ。
 僕はそんな罪を背負っては生きられない。
 震える手で、タッチパネルを操作して、110番に電話をした。


 パトカーの音が聞こえたのは、そのすぐ後のことだった。

 通報したのも僕だし、相手が角部屋に住んでいたため、断末魔を聞いたのも、不審者を見たのも、僕だけだった。

 詳細は聞かなかったが、やはり隣人は死んでいるらしかった。
 隣の部屋の扉が開け放たれていて、鑑識らしい人々が、中へと急いでいるのが見える。
 事情聴取をされるらしい僕は、これから事情聴取されるらしく、別のパトカーの到着を待っていた。

 ――その時のことだった。

「警視庁特別第九科の嵯峨だ」

 聞き覚えのある声が聞こえて息を飲んだ。
 白い手袋を両手にはめようとしていた彼もまた、僕を見た。
 あちらも短く息を飲んでいる。

「な、なんで、ここに?」
「……お前こそ」
「隣の部屋に住んでたんだ」

 住んでいた、住んでいる、どちらを言うべきか僕は迷った。
 気怠さの浮かぶ表情の中で、彼の目だけが鋭さを増した。

 彼はちらりと床を一瞥した。
 そして鑑識の人が回収していった、潰れたみかんの跡を見た。

「つまり、通報者はナナキなのか」

 嵯峨さんから名前を呼ばれたのは、初めてであるようにも思ったが、それが僕を指すのだという事はよく分かる。だが、本当に何故ここに彼がいるのかは、やはり分からない。

 そんな僕の困惑に気づいたように、嵯峨さんが溜息を漏らした。

「最近、性交後の遺体の周囲に、腐った果物が撒き散らされている事件が多発しているんだ」
「え? 多発?」
「ああ」
「そんなのニュースで見てないけどな」
「は?」
「しかも連続殺人事件なんですよね? 一人、事故死しても騒ぎになるのに。少なくともネットでは」
「お前な、食いつくところ、何でそこなんだよ」

 呆れたような顔で、僕の頭を軽く嵯峨さんが小突いた。
 それから腕を組んで、疲れたように息を吐く。

「被害者に共通点は無い。強いて上げるなら、全員男で同性愛者だが、年齢もバラバラだし、同じ店に通っていた事実もない。その筋の奴に聞いても、全く心当たりが無いそうだ」
「黙ってるだけとか。言いにくい趣味でしょう?」
「金は時に人を甘くさせるんだ」

 そう言えばこの前も、天草医師に、大金をポンと払っていたなぁと思い出す。
 あの日、彼は本当に二十万円が入った封筒をテーブルに置いていたのだ。

「しかも一見自殺に見える例も多い。ただ唯一の共通点は、部屋の中に”腐った果物”が在ることだけだ」
「腐った果物……」
「廊下に落ちてた事例はコレが初めてだけどな」

 みかんと蛆虫を思い出して、僕は気分が悪くなり、掌で口を覆う。

「だから俺が呼ばれた。怪異は、警視庁特別第九科の専門だからな。意味が分からないだろ?」

 そんな俺の様子に苦笑してから、嵯峨さんは携帯灰皿を取り出し、
 煙草を銜えた。

「俺にも一本下さい」
「ナナキも吸うのか?」
「まぁ。隣から雄叫びが聞こえた時も、まさに吸おうとしてました」

 ふぅんという顔で、さして興味も無さそうに、嵯峨さんが一本くれた。

「腐った果物、か。もしコレが馬鹿げた大きさだったら、俺は確実に”リスナー”を疑う。”翡翠”を、な」
「”翡翠”……っ」

 淡々と続いた嵯峨さんの言葉に僕は息を飲んだ。

「どうかしたのか?」
「――亡くなる直前、隣の人が、『ヒスイくん』って」
「へぇ。そりゃあ有意義な情報だな。で、そのあと出てきた人物の顔は見たのか?」
「すれ違った時に少し」

 僕が答えると、耳元で嵯峨さんが呟いた。

「今夜――”夜月時計の世界”に来い。”翡翠”の本人確認をする」

 それだけ言うと、嵯峨さんは隣室へと入っていった。


 嵯峨さんと待ち合わせをしたのは、池袋の東口から少し歩いたサンシャイン通りのはずれにある路地だった。一本隣に行けば、ラブホ街。逆隣は、回転寿司とラーメン屋。多分。

 詳しい場所は忘れてしまったが、目印になる巨大な歯車の絵を見つけたので、僕は安堵した。運命の輪という走り書きがされている壁、扉は無くて、地下へと通じる階段がある。

 そこをクルクル回って降りていくと、最下層に漸く扉が見えた。h
 厚い硝子がはめ込まれているから、中も見えない。
 ――腕時計を見れば、午後十時。

 それまでに来なかったら、中へ入っていろと、嵯峨さんは言っていた。

 hermit――隠者というのが、店名らしい。

 飲食店か何かだろうと自分を落ち着け、きっとBarだろうと考えながら、褪せた緑色の扉に手をかけると、思いの外軋んだ音がした。

「いらっしゃい――あ、昼間はどうも」
「!」

 息を飲んだ僕は、目を見開くしかなかった。

 所狭しと並んだレトロなテレビや電話、それは良い。謎の招き猫だのチェス盤だのが並ぶ棚や卓、無造作に積み上げられた雑誌類も良い。その再奥には、カウンターがあり、奥には酒の瓶が並んでいる。テーブル席への通路は、玄関からは見えなかった暖色の外灯に照らし出された、劣化版のヴィレバンだとでも思っておけば良いだけだ。

 しかし良くないことが一つだけあった。
 出迎えた、店主の顔である。