<4>”ゑル駄”


 僕は、溜息をついた。
 大学構内にいるというのに、この前の光景が、瞼を閉じる度に甦ってくるのだ。
 そのため、夜、あまり眠れなくなっていた。

 現在午後三時。
 僕は、アパートに戻ってきた。
 今なら眠っても、良い気がした。

 いつから始まるのかは分からないが、直感的に”夜月時計の世界”には巻き込まれない気がしたのだ。アパートへと戻り、布団に転がる。クーラーをつけて、毛布を抱き枕のように握りしめた。祀理が僕の家に遊びに来た時にそうしているのを見て以来、それは僕の癖にもなった。

 目覚まし時計を八時にセットして、少しだけ寝ようだなんて思った。

 ――止めておけば良かった(これも祀理の口癖だ)。

 思わず半眼になった時、僕は縁側に座り手酌で酒を飲んでいる青年を見つけた。水色の着物姿だ。色素の薄い髪に、橙色の瞳をしている。子供時代の僕の手が体液で濡れている光景と、同じくらいの頻度で目にする、平安じみた風景がそこには広がっていた。

「また会えて嬉しいよ」

 喉で笑ってから、青年が木の床を視線で指した。
 立っていた僕は、気がつけば、促されるままに座っていた。
 猪口を渡され、不思議な甘い味の日本酒を口に含む。

「昔はよくここに来てくれたのにね、ナナキ君」

 苦笑するようにスッと眼を細め、青年もまた酒をあおった。

 昔――それは、一体何時だ?

 たった一杯しか口にしていないというのに、意識が朦朧としてくる。
 黄色い蝶々が、鱗粉を撒き散らしながら、飛んでいく。

「君が”人形”だった頃の事さ」

 僕の困惑を解消するように、青年が言った。
 しかしその意味が、僕には分からない。息苦しさを感じた。瞬きをする度に、赤と緑が視界に混ざり込む。僕が無表情で首を傾げると、青年が肩を竦めた。

「≪鬼≫――いいや、≪異形≫に、遭遇したみたいだね。また」
「はい……」
「九尾の運命から、君は抜け出すことが出来ない」
「九尾……」
「それが運命なのだから」

 その声を聴いた瞬間、僕の右手首が暴れた。
 腕全体を絡めとり、白い視神経が蠢いている。

「ナナキ君は、運命から逃れられると思った? 東京に出れば、もう関係ないって」
「運命――……」
「きっとナナキ君は、”榊”と会う。もう会っているのかな。その時の君の役割はなんだい? 忘却の褥がいくら甘くて優しくても、ナナキ君は、もう逃げられないんだ」

 クスクスと笑った青年は、僕を見据え苦笑した。

「何も持っていないようだけど、どうやって戦っているんだい?」
「戦ってないです。もし仮に巻き込まれたら、僕は逃げようと思ってる」

 そしてすらすらと僕の口もまた動いて、言葉を発した。何故なのかそれが、自然であるような気がしたのだ。話題があの、赤紫色の月が照らし出す世界のことだと分かる。

「そう。それも一つの選択だ」

 彼は、僕を責めなかった。それが、何故なのか、どうしようもなく苦しい。別に哀しい顔をされたわけでも、声が辛そうだったわけでもない。だと言うのに、泣きたくなった。

「――そんな顔をするくらいなら、戦ったらどうだい?」

 青年は立ち上がると、僕の髪を撫でるように二度叩く。

「きっとね、君にはこの夢からさめた後、力になってくれる友人が出来るよ。そして彼――は、君が助ける人物でもある」
「友人?」
「うん。私は先見を外したことはない」

 そう彼が言った直後、僕はジリリリリと鳴り響く目覚まし時計の音で、夢からさめた。
 ぼんやりとする思考の片隅で、『友人』と呟いてから、僕は再び毛布を抱きしめる。

 その日の夜、僕は出かける事にした。

 やはり、夜に出かけたせいなのだろう――赤紫色の月が、僕を見おろしていた。
 そこは紛れもなく”夜月時計の世界”の世界だった。
 誰もいない暗闇、けれど見知った住宅街が並んでいる。

 本日は殺し合いも行われている様子はない。
 それに安堵していた時、砂利を踏む音がした。
 僕は慌てて姿を隠そうとしたのだけれど、丁度良い建物がない。

 どうしよう、焦って顔を上げると、そこには背の高い青年が立っていた。目が合う。鋭い目つきの青年は、金色の髪と目をしていた。着崩した制服姿が、近隣の高校のものだとわかり、息を飲む。シャツがだらしなく出ている。ネクタイも緩く締められていた。高校生だとすれば、いくら長身でも、年下である可能性が高い。

 ただ、年下だと分かったからって、僕にはどうしようもない。面倒そうな顔をした少年(?)は、僕を気怠そうな顔で、淡々と見据えている。

「――() る気か?」

 その時テノールの声が響いた。バリトンよりは、高い声だ。

「え?」
「お前、”贄黒羊”だろ? 気配で分かる」

 着崩した制服につけられたネクタイを更に緩め、彼は言った。

「いえ。逃げる予定です、見逃して下さい」
「――なんで?」
「だって、怖いし」
「あ? なんだよソレ」
「主に見た目かな」
「は? 俺に直接言ったのは、お前が初めてだな。俺は、鷹野霙。みんな”霙”か”鷹”って呼ぶ。俺の前以外では、”ヤンキー”とか呼んでるらしいけどな。それと本名は朝霞姓」

 確かに言われてみれば、ヤンキーっぽい。だけど僕は未だに、ヤンキーという人種が存在しているのか、実際に見たことがないから、知らない。ただ、”霙”と言う名前は聞いたことがあった。

「”霙”さん?」
「”霙”で良い。で、何?」
「近寄っちゃ駄目な人だって聞いた気がするんだ」

 僕が正直に答えると、霙が虚を突かれたような顔をした。気怠そうな表情が消える。

「誰が言ったんだよ、ソレ」
「嵯峨さんて人。この前助けてくれて、色々と説明してくれたんだ」
「……へぇ。相変わらずやる気無さそうな顔して、お節介な奴だな。あれだろ、刑事。青島気取りのコート着た。”ネコ缶”か」
「ネコ缶?」
「公園でよく野良猫に、ネコ缶やってたんだよ――昔はな。けど、”灯”にその猫殺されて以来、諦観って言うのか、色々と諦めたみたいだな。俺ですら、可愛がってた猫がそんな目にあったら、殺るのに、随分と温厚な奴だよ。臆病者とも言えるのか」

 なんで”灯”は、そんな事をしたのだろうかと考えてみたが、僕には分からない。
 この前も、仔猫を殺していた。
 もし猫を殺すことが趣味だとしたら、相当な変質者だ。

「それで、ヤンキーはどうしてここに?」
「直接ヤンキーとか呼ぶなよ。気分悪い」
「ごめん。霙はどうしてここに?」
「んー、買い物。お前は? そういや名前は?」
「ナナキ」
「”ナナキ”さんね。次に会った時も生きてたら、覚えてやるよ」

 そう言って意地の悪い顔をした後、霙が小首を傾げた。

「ま、俺は売られた喧嘩は買うけど、基本自分からは手を出さない」

 人を殴ったら一撃で致命傷を与えそうなシルバーのごつい指輪を、右の指全部にはめている霙が言った。制服の下のズボンには、やはり銀のチェーンが付いている。

「だけどさぁ、買い物って、何処でするの? 僕も欲しいモノがあるんだけど」

 僕がそう言うと、吹き出すように霙が笑った。

「もうちょっと行くと、地蔵があるだろ」
「うん」
「その右手を押すと、”入り口”が開くんだ。”夜月時計の世界”の間だけな」
「そうなの? 僕も行っても良い?」
「俺と一緒にか? ”ネコ缶”は正しい事を言ってたと思うけどな」
「だって行き方がいまいち分からないし。迷惑なら別に……」
「……いや、良いけど」

 こうして僕達は、路地を歩き始めた。
 今日はお祈りをしている老婆はいない。代わりに、みかんが一つ置いてあった。
 しかしそれには目もくれず、霙が地蔵が押す。

 瞬間、僕達は吸い込まれるようにして、別の世界にいた。無論赤紫の月は変わらないのだが、そこには何処か異質な商店街が広がっていたのだ。人工的な色彩で、ジュースのキャップみたいな紫色とポテトチップスみたいなオレンジ、そして赤で構成されたアーチがまずはあった。その先は両側にそれぞれ店舗が並んでいる。

 雰囲気としては昭和初期と言ったところか(昭和初期を具体的には知らない僕だ)。
 活気が溢れ、様々な人々がいる。

「ここは?」
「”贄羊”の商店街――”ゑル駄”だ。”贄黒羊”だってバレるなよ」

 それだけ言うと足早に霙が歩き出したので、慌ててその後を追う。

「なんだよ? 帰りは、商店街のアーチを潜れば、自動的に地蔵前に出るぞ」
「そうなの? だからって一人じゃ不安だよ」
「手間がかかる奴だな。で、ナナキは何が欲しいんだよ」
「武器」

 簡潔に俺が答えると、霙が眉間に皺を寄せた。

「武器? お前、何か持ってないのか?」
「うん」
「どんなのが良い?」
「なるべく安全な奴」
「じゃ、薙刀か槍でも買っとけ」

 頷いた僕を、霙は武器屋さんまで連れて行ってくれた。そこで、店主と霙の二人の意見を聞きながら、僕は比較的軽い槍を購入した。その店を出た後、僕は霙を見た。

「霙は何を買いに来たんだ?」
「あー、珈琲の粉」
「買わなくて良いの?」
「どうせ池袋の地下にも同じの売ってるからな」

 そんなやりとりをして、アーチを潜ると、僕達は外にいた。
 すでに空は白み始めていた。

「じゃあ僕は帰る。本当に有難う」
「おぅ」

 僕の言葉に頷いて、霙は帰っていた。
 ”夜月時計の世界”は、まだまだ怖い場所だと僕は思う。
 けれど好きになれそうな場所や人がいることに心底安堵していたのも事実だった。