<1>逢魔が刻の少年の夢


 少人数の講義は怠い――と、恐らく思っているんだろうな。
 同感だから、必修の講義中、隣席で僕は溜息をついた。
 この学科のダウナー1位・2位は、確実にナナキと呼ばれる僕と、アイツ……阿部祀理あべまつりだ。

 テスト前だけ全教科のノートを集めるのが、僕達の特技でもある。
 出席有りの授業は、この講義しかとってない。
 けれど、このお爺ちゃん先生もまたテストの評価がゆるゆるで、基本的に単位をくれるというのも分かっている。

 ――扉が不意に開け放たれたのは、その時のことだった。

 なんだろう急に。講義中止?
 それを期待しながら、僕はライダーズジャケット姿の自分の服を見おろした。ゆるいデニムを穿いていて、多分ピンク色の見せパンが、見えているはず。僕は服装にこだわりとかない。これは、もらい物だ。

 それにしても、先生も驚いている様子だったから、本当に誰なのか分からない。
 革靴の音が響き青年が入ってきた。高級そうな黒いスーツを纏い、同色のネクタイを締めている。少なくとも僕が持っている、就活用のスーツとは違う。切れ長の黒い瞳が、室内を一瞥した後、ある一点に向いた。

「アベマツリ様ですね?」

 続いた声に、アイツが何かしたのだろうかと首を傾げた。だが『様』とか呼ばれている。
 祀理は困惑したような顔で、青年を見上げていた。
 僕は、どこかでこの青年を見たことがある気がする。
 だが、何処で見たのかは思い出せない。

「はい……同姓同名の人がいなければ」

 この教室にはいない、どころか漢字まで一緒なら、大学中探してもいないのではないだろうか。多分祀理も動揺して、そんな馬鹿げたことを聞いたのだろう。

 その時、祀理の声に満足したのか、黒スーツの青年が、急に床へと跪いた。まるで、執事だな。それが率直な、僕の感想だった。――しかし、現状がよく分からない。

「安倍榊様がお亡くなりになりました」

 その名を聞いて、僕は気づかれないように息を飲んだ。
 すると一瞬だけ、青年と視線が合った気がしたから、慌てて顔を背けた。

 会った記憶こそ無いが、安倍榊あべさかきと言う人は、僕の親戚だった気がする。
 僕の親戚――七木家の、だ。ナナキと呼ばれる僕の実家は、現在では兄が当主を務めている。ほぼ絶縁状態なのだが。

「本日夜、遺言状が正式に公表されます。これは内々の話ですが、貴方に――安倍榊の名を継いで欲しいとの事……それが先の榊様の最後のお言葉でした」
「え……」

 祀理が息を飲んだ。

 亡くなったのか、あの人。昔僕が入院した時に、何故なのか付き添いをしてくれたらしいお婆ちゃんだと思う。どうして彼女がそこにいたのかも、僕には分からない。そのお婆ちゃんの死に現実感はあまり無かったが、ただ心が空っぽになったような、そんな感覚がした。

「貴方は八坂家の正式な御当主。遺言など無くとも、葬儀にはぜひお越し頂きたく、参りました」
「いや、俺相続放棄してますし……それに今、講義の最中なんですが……」

 一瞥すれば、祀理の顔が引きつった笑みを浮かべていた。それもそうだろう、いきなり来られて、こんな事を言われたら。

「一刻を争うのです」
「そうは言われましても……」

 困惑したように、祀理が教師を見る。

「身内に不幸があったのであれば、仕方がないでしょう。退席しなさい」

 呟いた老教師の評価を、使えないな奴だなと、僕の中で最底辺まで下落した。
 あきらかに学生が嫌がっているのだから、一言くらい何かあっても良いだろうに。

 結局そのまま、祀理は教室から出ていった。

 僕は、記憶にない親戚について、残りの講義時間で、ひとり考えていた。
 ちなみに僕は、小学生の頃、よく言う”記憶喪失”って奴を経験したことがあるらしい。

 気がつけば白い寝台の上に座っていて、頬には白いガーゼが貼られていたのは覚えている。右手を見おろせば、そこには――あるはずの何かが無いような、そんな感覚に襲われた。代わりに点滴のチューブが二つ伸びていたのだっけ。

 何故自分がそんな目にあったのかは、今でも分からない。
 ただ一つだけ分かるのは――元気になったものの、僕の成績はお世辞にも良くなく、と言うよりも遊びほうけていた事と、やる気が起きなくて、怠惰な生活を送っていた事だ。

 その頃になると、僕は周囲に諦められていた。

 実の兄である、(ひろむ) にも蔑むような視線を向けられたのだったかな。だから誰も、僕が東京の大学に進学すると伝えた時、反対する者はいなかった。一族の恥さらしなんてよく嗤われたものだ。

 一族――僕の七木家も含めて、九つの古い家柄があることくらいは聞いたことがある。
 一宮・二葉・三輪・四條・五瀬・六月・七木・八坂・九重の九家だ。
 詳しくは知らないが、陰陽道(?)の家系らしい。
 跡取りの兄は、小さい頃からみっちりと勉強させられていた。
(ちなみに誰にも期待されなかった僕は、その頃ゲームをして過ごした)

 ま、実家はおろか、親戚とすら絶縁状態の僕には、関係ない事なんだけれども。


「さっきの凄かったですね」

 校舎脇の喫煙所でプカプカと煙を吸ったり吐いたりしていたら、そんな風に声をかけられた。視線を向ければそこには、比嘉直哉(ひがなおや) が立っていた。

 同じ歳なんだけど、コイツのデフォルトは敬語だ。

「どれが?」
「祀理さん」

 赤を入れて無理に色を戻したのだろう黒い髪を見据えたまま、僕は煙を吐いた。
 ネコみたいな顔をした同級生は、瞳を瞬かせる。

「まぁ、祀理なら大丈夫だろ」

 何の根拠も無かったが、僕は唇の片端を持ち上げた。
 仮に本当に、僕の親戚に拉致されたのであれば、さすがに命までは取られないはずだ。

「どうして大丈夫だって分かるんですか?」
「カン」
「それが当たるから、ナナキさんって凄いですよね」

 自慢じゃないが、僕はくじ引きや○×問題、五者択一などの問題でカンを外した事が無い。短い黒髪を揺らしながら、比嘉が笑った。

 皆、就活に備えて、髪の色を黒くしている。当然、僕も含めてだ。
 僕にはもう京都には帰る場所なんて無いし、居場所もない。唯一僕がいて許される場所は、ここ――東京だけだ。

「とりあえず、僕帰るわ」

 ポツリと呟いてみる。

「え、サークルに顔を出さないんですか?」
「ん。ちょっとな」

 僕達三人は、学部学科も同じ上、サークルまで一緒なのだ。
 だが、何をするわけでも無くたむろしている、スノボサークルだから、特に夏は暇なのである。


 帰宅すると、丁度午後五時だった。

 僕はこの時間帯があまり好きではない。
 いつも――嫌な夢を見るからだ。
 極力昼寝を避けているというのに、多くの場合眠ってしまう。

 その日も睡魔に体を絡め取られて、やはり夢を見た。

 夢の中で――僕の右手首は、グルグルと白い視神経が絡みついている。
 手の甲には、黒金色の瞳をした、巨大な眼球が鎮座していた。そして赤く血走った瞳を覆うように、何度か瞬きした後、その瞳は静かに僕を見た。僕の右の掌は、緑色と赤色の液体が、まぜこぜになって汚れていた。肉片をつかみ取った僕は、己が此処で何をしているのか、いまいち分からない。ただ一つ理解できたのは、≪異形≫を殺す、その事だけだった。

 その時僕は、死に装束みたいな白い和服を着ていたが、それも赤で汚れていた。
 鈍く痛む頬からも、血が滴っているのだろうと考える。

 眼前には、紫色の歯茎をし、他には何も部位がない、そう、巨大な【口ダケ】が迫り来た。黄ばんだ大きな歯列を見て、大人である現在の僕は淡々とそれを真横から見て動揺しているはずなのに、夢の中の幼い僕は無表情のままだった。

 時折、少年の内部に僕の思考が入り込む。少年――それが、その時の 僕の姿だった。彼は、笑うでもなく嗤うでもなくぼんやりとそれを眺めている。

 瞬間、彼の白い手首が露出した。するとまた、緑色の体液が飛んだ。
 手刀のみで、【口ダケ】を屠ったのだとすぐに分かった。

「ねぇ、ナナキ君」

 不意に響いた声に、驚いて僕は顔を上げた。
 明らかにその声の主は、少年ではなく、その視点と同化している俺を見ていた。
 声の主は水色の着物を着ていた。
 ――殺さなければ。だけど、何を?

「何も怖い事なんて無いんだよ」

 青年が穏やかな声で続けた。何かが染み入ってくるようで、僕は夢の中で緩慢に瞬きをした。その瞼が少年のものだったのか自分のものだったのかは分からない。

「……この夢自体が怖いんだけどな……」
「嫌なら、逃げるんだ」
「何処へ?」
「きっと君のことは、榊が助けてくれる」

 何を言われているのか理解する前に、僕は目を覚ました。