<6>安倍柊という人(★)


 祀理の住むマンションに九重空野が尋ねてきたのは、ある良く晴れた日のことだった。

 警戒しながらも応対した時雨に、深々と空野が頭を下げた。
 本来使用人である時雨にとるような姿勢ではない。

「頼む。柊、様が……このままだと」
「柊様が?」

 その声に驚いてから、背後の祀理と、チェーン越しに扉の外に見える空野を時雨が交互に見た。

「頼む。何もしない、誓って何もしない。今後ずっと指一本触れないと誓っても構わない」
「――狐の血判が捺せますか?」

 それを捺せば、決して誓いが破れなくなることを知りながら、時雨が尋ねた。

「ああ」

 一呼吸の間すらなく頷かれたため、時雨はチェーンを外した。

「どこに捺せばいい?」
「結構です。柊様には、大変お世話になっていて、助けていただいておりますので。なにがあったのですか?」

 言いながら、時雨が歩き、祀理を見た。

「僭越ながら、お通しさせていただきました。構いませんでしょうか? 私ではなく、祀理さまへのお客様なのですが」
「は、はい。時雨さんが大丈夫だって言うんなら」

 祀理が頷いた時、天草が顔を出した。

「おはようございます……あ、こんにちは」

 白衣を纏っている天草は、明らかに今起きた様子ではない。
 ”灯”は、今学校だ。

 時雨が通したから、万が一に備えて、気配を察知してと言うか、来訪者があったら部屋に報せが届くため、天草は出てきたのだ。

 特に嵯峨からは事前に、”コンポタ”には一週間ほど前くらいに、”狐提灯”から来訪者があったら、気を配れと言われていたのだ。

 正確には、”コンポタ”には、『気をつけろ』と言われたのだが、
 同じ意味だと天草は判断していた。

「僕もご一緒しても?」

 天草が言うと、祀理が頷いてから、席を空けた。
 正面には、完全にもう、話を聞いてもらえるのであれば何でも構わないという態の空野がいて、時雨はそんな彼等を見渡してから、お茶の準備を整えた。

「時雨さんも座って」

 祀理の言葉に、空野の隣に一礼して腰を下ろしてから、皆で茶を手に取る。
 それから一呼吸置いて、空野が話し始めた。

「もう、一ヶ月近く、安倍柊様の意識が戻らないんだ。意識不明だ、全く目を覚まさない」
「っ」

 事情を何も知らなかった祀理が驚いて息を飲む。
 概要だけは土岐から聞いていた時雨は、僅かに目を細めただけだった。
 医師として、天草が聞く。

「外傷は?」
「ない」
「熱は? 既存疾患は? 検査は?」
「吐血することがある胃潰瘍は、定期的に医者にかかっていたらしい。吐く時には咳もしていたらしいけど、別に肺は大丈夫だって話しだ。免疫力も抵抗力も体力も、平均からするとかなり落ちているって聞いたけど、もう何年もこうだったって、九尾の医者は言ってる。他の検査も全て正常だった。その胃潰瘍以外。今更これが原因だとは考えられないって。ただ、高熱がずっと続いていて、解熱剤も全然きかなくて、それで、血も一日に何度も吐いてる。原因が分からないんだ。気配からして、恐らく九尾の――……晴明様の関係なんじゃないのかって、医者は言ってる」

 それを聴いた天草は、これは医師として気を配れと言うことではなくて、来訪者に気を配れと言うことだなと一人判断していた。

「頼む、祀理君。次に”晴明様のお渡り”があったら、柊様の事を聞いてもらえないか?」
「晴明様のお渡り?」

 その単語自体を知らなかった祀理が首を傾げた。

「夢の中で晴明様と会うんやろ?」

 そう言えば、確かに夕方くらいに眠るとそうなるなぁと思い、祀理は頷いた。
 最近みんなで暮らしているため、その時間にはあまり眠らないし、最後に見たのは、”霙”の家で、夜のことだった。

「榊様、お願いいたします。九重家の当主として」

 そう告げ深々と空野が頭を下げた。

「分かりましたけど……ええと、九重さんは、柊さんと、仲が良いんですか?」

 頷きながら、祀理が首を傾げた。

「っ」

 すると空野が言葉に詰まった。

「――お二人は、幼い頃のご学友です」

 そこへ時雨が助け船を出した。
 二人の丁度二つ上の学年が、時雨だったのだ。

「あ、そうなんですか。なら分かるな。俺だって、ナナキが意識不明に何てなったら心配でしょうがないからな」

 苦笑するようにしながら、何度も祀理が頷いた。

「丁度良い時間だから、今からお昼寝して、会いに行ってきます。ちょっと待ってて下さい」

 そう言い、祀理は自室へと戻った。

 久方ぶりに意識して、寝台へとのぼった。あの世界のことを意識したのだ。
 すると瞼の向こう側には直ぐに平安風の風景が広がった。

「やぁ、祀理君」

 声をかけられ視線を向けると、うつろな表情の柊を抱きかかえている晴明の姿があった。

「なにしてるんですか?」

 正面から抱きかかえるようにしていて、グッタリとした柊の顔が、晴明の肩に乗っていた。見える表情はうつろで、柊の視線は合わない。何処を見ているのかも分からない。

「ん、ちょっとね、悪意を吸い出してたんだけど……なんだかねぇ。思いの外ね」
「柊様が目を覚まさないってみんな心配してるんです」
「みんなって具体的には?」

 晴明の言葉に、祀理が目を細めた。

「俺とか時雨さんとか九重さんとか」
「九重くんね。九重空野。全く君に来させて、自分が来ないとか、本当に呆れてしまうよ」
「え?」
「祀理くん。君には恨みしかないかもしれないけれどね、柊はこれでもずっと君を守っていたみたいだよ。だから、その心に免じて、直ぐに九重の今の当主に、京都に戻って、柊の隣で眠るように言ってあげて」
「別に恨んでないですけど……守って……?」
「うーん、まぁ、そういうのはね、君がいつか自分で気がつくことだから。例えば九重の空野君もね、昔、『今回は見逃してあげます』みたいなことを言われて、その瞬間はイヤミだと思ってたのに、後々、それが『自分のためを思って処罰を回避してくれたんだ』って悟ったみたいにね」
「……分かりました。けど、晴明様」
「何?」
「九重さんと柊さんて」
「うん」
「俺とナナキっていうより、嵯峨さんとナナキみたいな関係じゃないですか?」
「それこそ本人達を見て、祀理君が判断した方が良いよ。じゃあ、伝言よろしくね。九重空野が来るまで、柊はこちらで預かっているからね」

 そう言って笑った晴明を見た後、祀理は目を覚ました。


 祀理に指示された通りに京都へと戻り、”晴明様のお渡りの間”で眠り込んでいる柊の隣室に、布団を敷かせて空野は横になった。本当にこんな事でどうにかなるのか不安だった。ていよく追い返されたのだろうかと何度も考えた。

 しかし目を伏せると直ぐに、不思議な風景の中に立っている己を自覚した。

「……?」

 茂みの中に自分は立っていて、何かに背を押されるように歩いていくと、不思議な邸宅が正面に出現した。

「!」

 その縁側に座り、一人の狩衣姿の青年が、柊を抱きしめていた。
 輪にするような彼の腕の中で、柊は青年の体とは逆方向に体を預けていたから、まさに腕で引き留められている形だった。柊の瞳は、蕩けていて、焦点が合わない。口元には赤いさかずきを宛がわれている。

 柊は、今度はしっかりとその中の酒を飲み干すことが出来ていた。

 だが――代わりに、ここのところ覚えたことの無いような熱に体を襲われていた。
 まるで初めて此処へと足を踏み入れた幼き日のような、尋常ではない快楽に似ていたが、何処かもっと、穏やかだった。

「狐栓なんて開かなくても、ちゃんと気持ちいいんだよ」

 柊の耳元で囁くように告げた青年の声が、はっきりと空野にも聞こえた。

「っん」

 青年の手が、柊の腰を撫でると、ピクリと肩が震えたのが分かる。

「あ……」

 そのまま青年の片手が、柊の着物をはだけ、前の陰茎へと触れた。
 もう一方の手では抱き寄せるように体を支えているから、その姿が真正面から見えた。

「ッ」

 虚ろな眼差しに、僅かにチカチカと色が宿っていくように見えた。
 逃れようとするかのように柊が手を動かしていたが、力が入らないのか、腕を動かすだけでも辛そうだった。

 それを楽しむかのように、意地悪く腕を手に取り、柊の首筋を晴明が舐め上げる。それはいつか、智徳に噛まれた場所だった。何かを吸い出されるような、あるいは押し込まれるような感覚が――そうだ、気持ちいいのだと理解して、柊が体を震わせた。

「う」

 嫌だった。どうしようもなく嫌だった。気持ちいいと感じる自分など気持ち悪くて受け入れがたいのだ。

「――やぁ、お客さんみたいだ」

 上気した柊の姿に見入っていた空野は、その声にハッとして顔を上げた。

「九重空野君だ」

 その言葉に柊が僅かに目を見開いた。何か言おうと唇が動こうとした瞬間、意地悪く晴明が、前を弄る手を早めた。

「っ、ン」

 そのため、久方ぶりに感じる快楽からの嗚咽を堪えることに必死になり、柊は何も言えなくなった。空野に気持ち悪いと思われるような声など、決して出したくはなかったのだ。

 止めて欲しいと何度も首を振って晴明を見るのに、彼はただ笑っているだけだった。
 涙がこぼれそうになる。こんなのは、久しぶりのことだった。

「柊は、気持ちいいって言うのがどういう事なのか、もう何年も前……そうだね、君に気持ち悪いなんて言われた頃から段々段々分からなくなっていったみたいだよ。今日まではね」

 晴明はそう告げて、空野を見据えた。その嘲笑するような笑みと、快楽に震えている柊を見て、空野が思わず声を上げた。

「違うあれは、俺の方の力が抜かれたのが気持ち悪かっただけで――」

 それを聞くと晴明が、ガラッと表情を変えて、穏やかに笑った。

「ふぅん。だったら、君が気持ちいいって言うのがどういう事か教えてあげる?」
「ッ、ぅ」

 柊の前を扱き上げながら、晴明が笑う。
 言われた瞬間には、土足で邸宅へと上がり、柊の体を奪い取っていた。

「紫織」
「……っ、あ」
「紫織!!」
「……空野……駄目、だ」
「何が?」
「その名前で呼んだら、空野が怒られる……っあ、ああッ、や、やああ」

 聞きながら両方の胸の飾りを空野が刺激したせいで、ボロボロと柊が涙を零した。
 こんな風に快楽を感じるのが久しぶりすぎて、どうして良いのか柊には分からなかった。

「うわ、あ、ああッ、いや、いやだぁッ」
「ごめん、ごめんな、俺じゃ嫌かもしれないけど――……」

 苦しそうにそう告げた後、空野は一度目を伏せてから、しっかりと目を見開いてそのまま柊の中へと腰を進めた。もう、我慢なんて出来なかった。

「――俺はお前が良いんだよ!!」
「あああっ」
「なんで、なんで、お前……――本当に、馬鹿な奴だよな、お前って」
「うあ、あ、ああっンぅ、あ、やぁああ」

 内部で快楽を感じるのも、自然と前が立ち上がるのも久方ぶりすぎて、その快感が怖くなり、ボロボロと柊が涙を零した。

「何でだよ、何で俺にあの時、自分は悪くないって言わなかったんだよ。なんで、なんで……いや、本当に馬鹿なのは俺だよな。俺って最低だと思うわ、自分でも。けどな、こんなんでもずっと、お前の事……っ」
「空野、あ、ああ、もう僕ッッ、あ、ああっ――ッ」

 目を伏せた柊の瞳からは、涙がどんどんこぼれ落ちる。
 瞬きをして開いた瞳は、欲情に濡れていた。
 どうしようもない色香が放たれていた。

「やっと悪意が全部抜けそうだから、ちゃんと体を清浄にしてあげないとね」

 その時青年――晴明がそう告げ、後ろから突き上げている空野に苦笑してから、抱きかかえられている柊の前へと顔を下ろした。そして陰茎を口へと含む。

「うあああああッ!!」

 前と後ろへの刺激と快楽から、柊が泣き叫んだ。嫌がるように体を揺らす。
 そのまま直ぐに果てて、柊は意識を喪失した。
 ほぼ同じ頃合いに、空野も果てた。

「まぁ……なんて言えばいいのかは分からないけど、これからは大切にしてあげることだね。九重空野君」
「……はい」
「君は私のことが嫌いそうだね」
「貴方が晴明様なら大嫌いで恨んでます。俺から紫織を取り上げたのは貴方なんだから」
「一応ねぇ、こちらとしても、救済措置のつもりだったんだよ。そもそも、それならばもっと早く引き取りに来れば良かったのに。責任転嫁だね」
「分かってます」
「――柊を思う恋敵は、僕が迂闊に手を出せないほど多いんだから、気をつけた方が良いね」
「もう離す気はありません。もらい受けても構いませんよね?」
「どうかな。三役は、皆私の器だ」
「紫織は紫織です、俺の大切な、たった一人だから」
「そう思うなら、あの酷いタイトルの本をとっとと返却して貰うことだね。まだに大切に大切に手にとっては、タイトルだけ見て、棚の上に置いている柊が不憫でならないよ、君に会う度に返そうとしているようなのに、その機会がまだ来ていないみたいだ」
「っ」
「柊は、自分が人間失格だって思っているみたいだよ。確実に君のせいで」

 わざとらしく嘆くように言った後、晴明が笑みを零した。

「幸せにね」

 その言葉を聞いた瞬間、自分の腕から消えた柊の温もりを意識したのとほぼ同時に、見開いた目で空野は天井を見据えていた。

「っ」

 慌てて起き上がり、隣室の扉を開け放つ。
 するとそこでは、周囲にいた使用人や医師に声をかけられている柊の姿があった。

「紫織!!」

 思わず叫んで駆け寄ると、視線があった瞬間目をスッと細められた。

「――僕は、柊、です。九重様。なんです、急に」

 ごくごくいつも通りの、安倍柊がそこにはいた。
 息を飲みながらも、目が醒めたことが嬉しくて、だからもうそれでも良いと思って、何度も何度も空野は頷いた。

「し、つれい、いたしました。柊様――そうか、良かった」
「ご迷惑をおかけ致しました」
「迷惑って言うよりも心配をしたよ、俺は」
「……それは、大変申し訳ございませんでした」

 そんなやりとりをしてから、診察があるとのことで、空野は部屋から追い出された。

 終わった後で医師を捕まえて話を聞くと、熱も下がり、もう平時の状態に戻ったとのことだった。正し前から患っていた胃がまだ完治しているとは言えないし、暫くの間は、いつ回復するかも分からなかったから外部との仕事も断っていると聞き、安堵した。

 翌日から、ほぼ毎日、空野は柊の部屋へと、少なくとも一日一度一時間以上は顔を見せた。

 誰かに見舞いに来られたことなど無い柊は、困惑しつつも、作り笑いを浮かべて出迎えていた。何故毎日空野が来るのか、全く分からなかったのだ。

 一方の空野は、そんな柊の様子に、あの夢は、やはりただの夢で、柊は何も覚えていないのだろうかと不安になっていた。作り笑いからでは、何を考えているのかさっぱり読み取れない。

 そんなある日のことだった。

「――僕があのまま死んでいれば、遺言状の効力で祀理君はもう苦しまなくて良かったのに。後最低二回……結納の儀と、狐の嫁入りの儀があるのに」

 布団を見たまま、何とはなしに、柊が漏らした言葉だった。
 反射的に視線を向けた空野は、口元こそ笑みを形作っているのに、
 酷く暗い瞳をした柊の姿を捉えた。

「っ、馬鹿。何言ってるんだよ」
「え、あ」

 我に返って、失言だったなと柊は顔を背ける。

「馬鹿なことを言うな。遺言状なんか無しに、今すぐにでも効力を発動させればいい」
「僕にはそんな権限はない」

 いまだに己の持つ権力など何一つ正確には理解していない柊が、苦笑するようにそう呟いた。それが出来るのであれば、とっくにそうしている、そんな心境だった。

「あるだろう、”柊様”なんだから。これからは外部のお役目も何もかも無しにすれば良い。本当はもう今はいらないんだろう? 力を貰わないとしょうがないのはどうにもならないから、その部分だけ考えていけば良い。必要な物は残すべきだけどな、おかしな儀式なんていらないんだ」

 つらつらとそう言ってから、堪えられなくて、言葉の途中で空野は柊を抱きしめた。
 その腕の温もりと強さと、そもそも行為に驚いて、柊が目を見開く。

 ギュッと抱きしめられて、まるでこの前意識を取り戻す直前に見た幸せな夢のようだと思いながら、二度静かに柊は頷いた。すると唇に、優しく触れるだけのキスをされた。しかしそれには狼狽えた。

「……? 僕は、”お褥滑り”をしているから、現在の当主である君とは、何も出来ないよ? 新しいモノには、新しいモノをと決まっているから。綺麗なモノを、と」
「お前は綺麗だよ」
「な」
「俺はお前が良いって、そうちゃんと、言ったよな。迎えに行った時に。晴明様の家で」
「っ、あれは夢じゃ――……っん」

 驚いて何か言おうとした瞬間、今度は深々と口を貪られた。

「あ」

 舌を甘噛みされ、何度も何度も口づけられる。
 口づけだけで息苦しくなるなどという初めての体験を、その日柊はした。

「っ」

 そのまま布団の上へと押し倒されて、柊は虚を突かれた。

「ま、待って。いつ誰が来るか分からない――僕と寝たなんて言う噂が立ったら君は――」
「別に良い。どうでも良い。俺はお前が欲しいんだよ、紫織」
「っ、な、そんな、なんで……」
「好きなんだよ、お前の事が」
「え」
「どうしようもなく好きなんだよ。だから、だから早く当主になれば、そうすればまたお前に直ぐ会えるのかと思ったら、全然違うしなッ、ああ、本当いやになっちゃったよ、俺は」

 泣くように吐き捨てるように空野が笑っていた。

「お前が、落ちたって聞いた時、怪我したって聞いた時、俺はずっとずっと、後悔してた。心配で不安で、もうどうしようもなかった。お前が、酷いこと何てしないって思ってたのに、嗚呼、クソ、お前って言うより俺が悪いのは分かってるんだよ、ちゃんとね。けど、なぁ、お前さぁ、何もあんな風に言わなくたって良いだろ。それにあれ、本当は、自分で飛び降りたんだろ?」
「空野……」
「今思えばさ、本当に、俺って最低だけどな。あれも、桜に対する庇護欲なんかじゃなかったんだよ、お前が、他の奴とヤってるって話しを、お前の口から直接聞くのがただ嫌だったんだよ。それもお前の意志でやってるって聞く話が」
「なっ……」

 泣きそうな顔で、自分自身を嘲笑うような顔で、空野が俯きながら言った。
 柊は、なんと声をかければいいのかよく分からなくなる。

「お前の好きな人って誰だったんだよ。誰なんだよ? もうこの前それを聴いてからずっと、気が狂いそうだった。なのにお前、さらに最悪なことに、目を覚まさなくなるなんて」

 肩に押し付けられた空野の髪を眺めながら、柊は気づけば苦笑していた。

「――馬鹿なのは君の方だよ。僕が好きだったのは、空野だ。今の君のことは、あんまりよく知らないけど」
「っ」
「そう、夢じゃなかったんだ。そっか。助けてくれたのか、有難う」
「それは祀理に言え」
「そうなの? 分かった」
「俺には代わりに――お前を寄越せよ」
「え?」
「もう家のこととかどうでも良いから。もう良いだろう。俺、どれだけ待ったと思ってるんだよ。ずっとずっとずっと、お前の事しか考えてなかった」
「いや、柊として言うけど、戦う時は戦って、家の仕事はきちんとした方が良いと思うよ。ちゃんと考えながら」
「そう言う事じゃない!!」
「うあッ」

 そのまま首筋を強く吸われ、柊が声を上げた。
 媚薬も何も飲んでいないというのに、こんな快楽を感じたのが久しぶりすぎて狼狽えた。

「ま、待って」
「嫌だ」
「そ、空野……っあ」

 怖くてのしかかってくる空野の肩に両腕を回し抱きつきながら、後ろを解される度に、一々柊は声を上げそうになった。堪えているその姿に、執拗に空野が刺激を繰り返し、ついに柊は吐息と共に声を上げた。

「ああああっ、うあ、あああああ」

 こんな感覚、夢の中を除けば、本当に十数年ぶりだった。
 快楽が気持ちを満たしてくれるような怖いような感覚だなんて、改めて知った気がした。

「やぁっ、うあ、あ、あああッ」

 そのまま指を引き抜かれ、中へと押し入られる。
 巨大な熱も、その圧迫感も、辛いのになんだか心地良かった。

「あ、ああっ、う、んあ」
「っ、大丈夫か?」

 柊の目元の涙を拭い、空野が尋ねる。すると静かに頷かれた。

「狐栓……開いても良いか?」
「う、あ、ああっ、ン……良い、けど、けど僕じゃ、榊様みたいな力はもう……」
「俺は一度も、榊様から力を摂ったことはない。桜からもだ」
「そんな、まさか――っ、ああッ」
「九重は攻撃が本来は主体なんだよ。今は、”殺戮人形”を想定してるから、一宮と同等の攻撃力は最低あるのに九重が、結界張りに回ってる。理由は俺が、”力”を得ずに全力を出せないからだ。狐栓こじ開けて、武器にだけはため込んできたから、殺れと言われた
ら今なら、七木の弘にも負けない自信があるけど。結界は何せ自力だからなぁ」
「う、あああっ、や、ああ、あああッ」

 柊が鼻を抜けるような高い声を上げて、泣くように喘いだ。

「や、いや、あ、ああっ、ううう、あ、あああ」

 気づけば狐栓はとっくに開けられていた。だが、これまでに感じていたような辛さなど一切無く、ただただ、強い力が快楽となって染み込んでくる。

「嫌、嫌だぁああああっ、ウあ、あ、あああ、こ、こんな風にされたら、ぼ、僕、もう、うあアッ」

 柊が喉を振るわせ逃げようとした時、その体を引き寄せて、激しく空野が打ち付けた。

「ああ――!!」

 その衝撃で果て、柊は、久方ぶりに大きな力が抜けていくのを実感した。
 なのに全く苦痛はなくて、ただ気持ちの良さと脱力感に体を支配された。
 ぐったりと布団に体を預けながら、肩で息をする。

「平気か?」

 頷きながら、体の何処も痛くないことを認識した。
 感覚で言うと、東京ドーム分くらい力を抜かれた気がするのに、不思議と体は楽だった。

 ――安倍柊の寵愛が、九重家に向いたため、九重家当主が、榊様からの寵愛を受ける機会や力を得る儀式全てから辞退するというお触れが出たのは、その数日後のことだった。

 元々、意識の戻ったという知らせを聞き柊の見舞いに来ようとしていた面々は、慌てて、安倍本宅へと戻ったものである。


 九重の当主を除く全ての当主が揃った後、病床から初めて、柊は姿を現した。
 空野に支えられていた。
 皆がポカンとその姿を眺めていた。

 尋常ではない色香が漂っていて、強い”力”の気配がしたからだ。

 それこそ榊に匹敵するほどの、強さだった。見ているだけで自然と頬が、体が熱くなるような、そんな姿だった。通常同様口元には微笑が浮かんでいるのに、その瞳は、今までには見たことがないほど気怠く潤んで見えた。

「あーあー、失恋や」

 五瀬が呟いた。

「本当になぁ」

 三輪もまた悲しそうに俯いた。
 二人とも冗談めかしていたが、実際、この場にいる人間の大多数が、
 初恋は柊だった。

 幼い頃、各当主の相手をしている柊を見たり、その後優しく当主になって不安ばかりの頃、仕事のやり方を教わったりしていて、恋したことのある人間は多いのだ。

 その時、一歩前へと一宮が歩み出た。

「柊様。ご快癒何よりだ」
「ッ、有難う」
「――まさか、昼にあれだけ、本家とその他のお仕事をなさっているのに、まさか毎夜、月に二十日間も別にお仕事をされていたとは知りませんでした。その分くらいいつでも一宮で出しますので、今後は廃止で願います」
「一宮に言われなくても九重で止めさせた」
「結構なことだな」
「ああ」

 柊の腰を抱いている空野と、何かと仕事で関わりのあった一宮が、一見にらみ合っている。

 しかし宗信の方は、空野の気持ちをずっと前から知っていて、榊から力をとらないことにも何も言わないで来たのだし、空野の方もそれは良く分かっていた。

「兎に角、柊様が熟睡していらっしゃる間に”狐提灯”は大変なことになっている。しっちゃかめっちゃかと言う奴だ。俺一人でこいつらを止めるのは無理だ。早く元気になって”狐提灯”と”安倍九尾家”をどうにかしてくれ。『今まで通り』一宮は勿論手伝うが」
「これからは九重も手伝う」
「お前に何かできるのか?」

 空野の声に、宗信が問う。

「さぁ、わからないけど。ただ、”俺”が手伝いたいんだよ、『恋人』の手伝いをしたいんだ」

 その声に短く息を飲み、宗信が微笑した。

「――ああ、そうか。ならば、必死に覚えろ」

 そんなやりとりを見守っていた柊は、やはり尋常ではなく艶っぽくて色っぽくて、皆が目を惹かれてしまったのだった。