<5>安倍柊の覚悟(★※?)


 それから、柊がきちきちに管理し、襲名披露が執り行われることになった。
 一人でも来るのが遅れたら、その者は、安倍家から除名という厳しいくくりを付けて、全員の日取りを合わせたのだ。

 その上、直接迎えに行った。勿論時雨が帰ってきてしまうと言う予想外の事態もあったのだが、他の理由もあった。

 どうせ三日間は、貞操帯を外せない。
 ならば、薬で侵したりせず、そして移動などで少しでも体感時間を減らせるようにと配慮した。自分自身の時が、薬を盛られて放置され人気のないところに五日間も転がされていたことを思い出すと、せめて何とかしたかった。

 媚薬を飲んで、自身を起て、榊の後ろを暴く。それから桜が馬鹿げた名前の輪と矛を填めるのを見守り、自身の手では貞操帯を填め、車で移動しながら、時折体に触れた。作り笑いを崩さないまま、何とか堪えて欲しいと願った。桜が楽しそうにしていたから、桜にも榊にも不審に思われない程度に言葉を発した。まだ、こういうプレイだとでも思ってもらえたら気が楽になるだろうと思いながら、体に触れる。逆に、触れなければ、不安になるだろうとすら思っていた。それは己に刻まれた、忌々しい記憶故だったのかもしれない。

「柊様、ですけど、矛を動かすの、一人だけ数分って、コレ、良いんですか?」

 桜に問われ、余裕そうな表情を取り繕い、柊は頷いた。

「君の時だって体力を考慮して、簡略化されたよね。何の問題もない」
「っ、僕の時は体調がありましたけど……」
「代わりに、多くを楽しませれば良いだけだ。だから、ほら、企画書に書いてある通り、適当に言葉責めすれば良いんだよ。君も僕も、されすぎて、慣れてるよね?」
「あ、ああ、はい……」

 有無を言わせぬ柊に対し、桜は頷くしか無かった。

 三日が経過し、堪えきってくれた祀理の姿にほっとしながら、儀式を開始した。
 きっちり、72時間丁度に儀式を始めた。最短だった。

「みんな、君のことを見てるよ。あれだね、視姦てやつ。だけど安心して、此処にいるのは、親戚か、安倍家に仕える者だけだから」

 告げながら、柊は自分自身でも安心のしどころが分からなかった。
 ただ、『視姦』だのと口にした事で、最低限の言葉攻めを満たす事に注力した。
 それから暫し見守った後、時計と正面の光景を何度も交互に見た。


「そろそろ良いでしょう」
「しかし――」
「これは、”安倍柊”の、私の命令です」

 そしてきっぱりと、予定よりもずっと早くそう告げた。
 祀理が苦しそうにしているのが、見ていられなかったのだ。
 いつも通りの作り笑いすら消し去り、厳しく冷淡な声で言った柊には、桜でさえ何も声をかける事なんて出来はしなかった。

 このようにして、着々と儀式は済んだ。
 そしてまた、終わり次第、東京へと帰した。

 祀理の帰宅を知らされていなかった、当主達の幾人かが、柊へと詰め寄った。

「榊様を帰すなんて、そんなに権力が欲しいんですか?」

 嘲笑するような歳の近い甥、二葉佳織の声に、柊は表情を変えるでもなく、頷いた。

「……そうだよ」
「本音か?」

 すると、見守っていた九重空野が言った。
 静かに視線を向け、久しぶりに空野を柊は見た。
 最後にまじまじと見たのは、空野の当主襲名の儀の時だっただろうか。

 あの頃は色々と在りすぎたから、余りよく思い出せなかった。

「勿論」

 それだけ答えると、空野が眉を顰めた。

「――もういい。わかった。お前の思惑になんか絶対にのらない」

 淡々と柊はそれを聴いていた。もう、空野に何をどのように言われようが、何とも思わないのだ。あるいは心がもう、聞き取るほどの形をしていなかったのかもしれないし、拒絶していたのかもしれない。

 暫くして、廊下を歩いていた柊は、角を曲がった瞬間、真横に立っている空野に遭遇した。

「っ」

 驚いて息を飲むと、腕を組んでいた彼の片手から、そのまま写真を差し出された。

「これ、は……」
「東京に行ってきた」
「祀理君にこんな事を……なんてことを、まさかみんな――」
「それが本音か、柊様」
「ッ」

 狼狽えていた柊は、不意を突かれ、息を飲んでから我に返った。
 拘束されていた、木馬が映っている。
 写真を凝視していた顔を思わず上げると、そこには眉間に皺を刻んだ空野の顔があった。

「……わざわざ東京にまで出向くなんて、榊様にそんなに魅了されているんだね」

 慌てていつも通りの微笑を浮かべ、柊は告げた。

「本気で好きなら、大事にしてあげてね」

 頼むからそうであってくれ、そうでなければこんな所行を、と思いながら、そのまま柊は歩き去った。己を見送る空野の苦しそうな表情なんか、振り返らなかったから全く気づかないまま。

 その後、再度祀理を呼び寄せて、短期間の内に、生け花と書道と撮影を行うことに決めた。生け花と書道に関しては、桜は見ていただけで、それも一度きりで詳細を知らないから、今は今後に備えて簡略化し、早く全ての儀を執り行うべきだと主張し、三役のみで一度きり行うと主張した。

 生け花に関しては、見に来られる人間がなるべく少ない日を選び、書道に関しては、幸い誰も日程がつかない日があったのでそれを選んだ。一人で行わなかったのは、別に、柊が榊様を勢力下に置こうとしている、何て言う噂をこれ以上煽らないためではなく、『三役』でやっているという名目のもと、他の家の当主達を追い払うのが目的だった。

「――このように、生け花と書道の儀式は、三役のみ、あるいは適した三役が不在の場合は、任意の二家の手で行うものとする。こう書き換えて」

 弁護士の土岐隆史に指示を出してから、柊は溜息をついた。
 遺言状のみは、本当に絶対的に、三役の権限を行使できる。

 既に大方の権力を自分が遂行できるなどと言うことを、その時でもなお柊は自覚してはいなかった。

 そもそも本当は廃止してしまいたかったが、嘗て桜の指南役を一度きりした際に、全く狐栓が開発されていない状態では、逆にその後がキツイだろうと、判断したのだ。全員の家を回す必要がないのは明らかだが、堪える訓練は恐らく必要なのだ。特に四條の玩具と六月の式神に堪えるためには、合った方が良い儀式なのだろうと判断できる。

「承知いたしました」
「よろしくね――はぁ、後はこれで僕が死ねば、きっと祀理君は楽になれるんだろうけどね」
「その様なことを仰らないで下さい」
「ごめんごめん。別に、死なないで、だとか言って欲しい訳じゃないからね。死ぬ気もないし。所で、この前の話どうなった?」
「――確かにあの金銭の動きは不自然でした」
「そう、じゃあ、続けて。後――……そうだな、どうせ帰りに時雨の所に寄るんでしょう? 少し相談してみて」
「承知しました」
「じゃあ僕は先に出るよ。今日は、有難う」

 遺言状の書き換えを終え、柊が襖を開けた。
 そして閉めて顔を上げた瞬間だった。

「っ」
「……どういう事だ、柊様?」

 立っていたのは、空野だった。

「た、立ち聞きなんて、あまり宜しくないご趣味ですよ、九重様。僕は感心しないな」
「今から遺言状の書き換え何てしてどうするんだよ」
「いつ何があるか何て分からないからね」
「それもあの内容――……お前の時は、確か全部の家で持ち回りだったよな」
「だから? 不要だと、安倍柊が判断しただけだよ」

 失笑するような顔を取り繕いそう言うと、空野が険しい顔をした。

「お前……」
「そもそも、お前お前って、ねぇ。僕は、安倍柊なんだけど。弁えていただけませんか、九重様」
「……祀理君の事が好きなのか?」

 すると不意にそんな事を聞かれて、柊は首を傾げた。

「いや、それは君であって欲しいんだけど。あんな事したんだから、責任とってあげてよ」
「……」
「それに」

 気がつくと、柊は続けていた。何となく、久しぶりに心からの笑みが浮かんできた気がした。多分、多分だったのだけれど。自分は、九重空野の事が、好きだったんじゃないのかと、今では思っていたからだ。

 空野がいなかったら、きっともっと早く、潰れてしまっていただろうし、今だって、立っていることは出来なかった気がするから。今はもう、好きとか嫌いだとか、そんな気持ちは全く分からないのだったが。

「僕には好きな人がいた」

 響いた柊の声に、空野が息を飲んだ。

「それ、は」
「うん?」
「――四條の、創助さんか?」

 懐かしい名を聞いたなと思いつつ、苦笑して柊は首を振った。確かに大切な人だったが、恋とは違った名前をしていたように思う。それにまさか、空野本人にそんな事を告げるわけにも行かない、何せ今では冗談を言い合ったり、昔話を言い合ったりして、笑いあえるような仲では無いのだから。

「残念ながら違う。じゃあ、またその内儀式で。これでも僕は忙しいんだよねぇ」
「待てよ、じゃあ、土岐か?」

 もう苦笑するだけで何も答えず、柊は歩き出した。

 後ろで、唇を噛み俯いている空野の姿など全く知らないまま。
 彼の瞳が嫉妬と悲哀と憤怒で濡れていることなど、当然知らずに。


 ――あと一つだけ、一つだけ堪えてくれれば、今回の日程はとりあえず終わる。

 撮影だ。
 そして撮影に関しては、今後の有事の事態に、仮にまた売春行為をする必要が出てきた場合、三役が体を売るのは確実だから、念のために保存しておくことになったのだ。
こちらは己の時とは逆に、媚薬を盛った。

 媚薬を盛られたからやったと思う方が、絶対に精神的に楽だと確信していたからだ。

 だが、カメラの存在など自覚していたら、絶対に自慰など出来ないだろうと思い、目隠しをした。――まさかそれが、心を傷つけるなど、柊は考えていなかったのだ。

 撮影の名目は、自分達よりも上の位に来た新人を、下位の二人が隷属させるための証拠として撮った物、と言う形にし、しかし柊は、その映像を、決して他に漏らすつもりはなかった。カメラも一つだけにし、回収した記録映像は、自分だけが保管することに取り決めていた。榊様が位に落ち着き次第、本人に渡すつもりだった。

 それから勿論自慰してしまうほど強力な媚薬を盛っていたわけだから、責任を取るべく、己も強いものを飲んで、後ろを暴いて、柊は精を放った。精液に反応して収まる媚薬だったからだ。この媚薬を何度か祀理が使われているのは確認していたから、選んだのだ。本人にも媚薬だとわかり、やりやすいように。

 ――だが。

 ああ、駄目だったんだなと、浴室を見て柊は思った。榊の手首の傷から、血が流れでていく。キツくて辛くて悲しくて怖くなって――……これでも駄目だったか、出来ることは精一杯やったのになと思いながらも、柊は冷静になろうと決意した。全ての感情をシャットアウトすることには、慣れきっていた。

 だからただ、”眼球”の事だけに集中する。

 淡々と桜の言葉に応対しながら、必死に頭を回転させた。その時だった。

「それは、祀理くんの命よりも大切な事なんですか!?」

 桜の言葉に、柊は静かに瞬きをした。
 命はこの程度じゃ、死ぬわけがないのだから問題はないと分かる。
 そして――このような真似をさせられたら、死にたくならない方がおかしいのだという事を、よく柊は理解しているつもりだった。

 今更何を言っているのだろう? そんな心境だった。
 儀式の間中ずっと作り笑いで堪え、わざと頑張って言葉責めになるような意地の悪い声をひねり出すことに必死になっていた柊は、その時よりも余程、祀理の行為が、この程度の軽傷で済んで良かったと、そんな思いで気が楽だった。

 今ならば、己のように飛び降りでなくとも、あれは階数が低かったから兎も角、硫化水素やら、電車への飛び込みやら、他にもいくらでも死に方があるのだ。今この場で、このような形で――助けられる形であって本当に良かったとしか思えなかった。

 きっと死にたくなってしまう運命を、”器”は抱えているのだろうと柊は思っていた。逆に、桜が死にたいと思わないのかが不審なくらいだった。本当は彼もまた死のうとしたことがあるのかもしれないと、柊は時折考える。しかし、しかしだ。

「当然じゃないか。安倍三役は、ただの”器”なんだから」

 やはり結局は、コレが理由で、死にたくなるのだと思うのだ。それからじっくりと”眼球”を観察する。理性的に、思考に専念した。

「やっぱり、一時間後なんて言えませんでした。我慢したけど、二十分後には来てもらいます」

 怒ったような桜の声で、柊は我に返った。何を怒っているのかよく分からなかった。

「ああ、うん。ねぇ、所で、この”眼球”どう思う?」

 柊はそう言いながら、腕を組んだ。

「そんなこと、どうでもいいでしょう!?」
「……え?」

 その回答に驚いて、柊は目を丸くした。
 どうでもいい……? 果たしてそうなのだろうか。いや、そうとは思えなかった。死にたくなる気持ちは余程理解できるのだ。だが、このような特異な”瞳”まで持っているとなれば、さらなる困難が襲いかかってくるのは、免れられない。

「榊様――だからじゃなくて、ここにいるのは、祀理君でしょう? つい、ちょっと前まで、普通の大学生だった、ただの男の子なんですよ!?」

 何を当然のことを言っているのだろうと、柊は目を瞠った。

「え、あ」

 しかし上手く声にならない。
 初めて見る桜の怒りの瞳と剣幕に、柊は正直狼狽えた。

 これまで泣くように怒る姿は何度か見た事があるが、此処まで憤怒に駆られている顔を見るのは、初めてだった。

 だが、直ぐに立ち直り眼を細めた。
 ――きっと、以前の自分と重ね合わせているのだろう。

 なにせ、柊自身、桜が来たばかりの頃は、自分と桜を重ね合わせていた。

「君は、自分の過去と、祀理君を重ねているだけ何じゃないのかな」
「ッ」
「今の役目を忘れるな。今、此処にいるのは、まだ生きている祀理君を含めて――榊様を含めての三役なんだ」

 冷静にそう告げ、それから、わざと蔑むような視線を柊は向けた。
 少なくとも、自分が死んで以後、恐らく三役を指揮するのは桜だ。

 なのだから、どんな時にでも、冷静であるべきなのだ。特に、恐らくはこのように、三役の人間が死のうとする事態など、毎回毎回多々あるはずなのだから。そもそも桜はコレまで、楽しそうに榊に触っていたというのに、急にどうしたというのだ。こんな事態、覚悟の上では無かったのか。そんな思いが強かった。

 ――まさか桜が、いつか柊が飛び降りた時の事と、祀理の事を重ね合わせているだなんて、知る由もなかった。


 その後、すぐに救急隊が到着したのだった。

 別宅へと場所を移し、眠っている祀理を挟んで、柊と桜は視線を交わしていた。
 この場所へと来たのは、病院に着くまでの道には既に≪異形≫がひしめいているという報告があったからだ。確実に結界が破られていて、内部に侵入されている。

 その為、一つや二つという数ではなく、≪百鬼夜行≫にはほど遠いにしろ、かなりの数の≪異形≫が居るのは、まず間違いがなかった。今の当主勢になってからは、二度あったか位の規模だ。その上、桜が”お褥滑り”をしている以上、供給できる人間は、榊と柊しかいない。

 そしてもう皆、榊の力に慣れきっている。今更柊が”力”を明け渡したとしても、微々たる助力にしかならないだろう。それだけ、”榊様”の”力”は、名前の権力と地位相応に高いのだ。元来あくまでも柊は、榊の補佐のために存在するのだから。

「柊様、いくら何でもこのままの状態の祀理くんから、”力”を引き出すなんてそんなの――」
「無理だと確定し次第、勿論僕が変わるよ」

 寧ろ全員と一気に交わる必要がある以上、意識がない方が楽なのではないかと柊は考えていた。

「――僕が出来なくなって、そして、柊様ご自身が、なさりたくないからじゃありませんよね?」

 確かにシたいか、シたくないかと言われればシたくはない。

「強制されなくなった今でも毎日卑しい客の相手は出来るのに、本当に”力”を求めている人間の相手は出来ないとでも仰るおつもりですか?」

 吐き捨てるように桜が言った。
 その時だった。祀理が短く呻いた。
 祀理に呼びかけながら、桜が意識をそちらに向け、泣き出した。

 まずは祀理の目が醒めたことに、また柊も心から安堵しつつ嘆息した。
 同時に、桜の糾弾から逃れられたことにも安堵していた。だからつい本音が零れた。

「良かったよ、丁度≪異形≫が結界を喰い破ったところだったから。やっぱり”榊様”だけあって、そう言うのに敏感なのかも知れないね。まぁ意識が無くても、それはそれで、問題はなかったんだけど」

 寧ろ意識がない方が、本人は幸せだったかもしれないと、やはり思う。
 その瞬間だった。
 桜に平手で頬を打たれた。パシンと、乾いた音がした。

 ――いつか、桜のことを心配して、こんな風に空野に頬を打たれたことがある。嗚呼、きっと榊のことは、桜が心配してくれるのだろう。

 そう思えば、穏やかな気分にもなったが……同時に、どうせ回避できない未来が待ちかまえているというのに、今己を殴ったところでどうにもならないだろうと、桜に言い聞かせたくもなった。思わず冷たい瞳を向けてしまった。有事の際に、”力”を供給するのが、三役の仕事なのだから。

 その後何も覚えていない様子の祀理と、嘘を取り繕った桜を見ていて、柊は何も言葉が思い浮かばなかった。嫌なことは、確かに忘れてしまうに限る。ただ、己が今すべき仕事は分かっていた。別に二人の言葉が嘘だろうが本音だろうが、どうでも良いのだ。

「悪いんだけど、三役の仕事が出来たんだ。”榊様”行ってもらえるかな?」
「あ、は、はい!」

 息を飲んでいる桜の前で、いつか嘗て昔己が着付けられたことがあるように、柊は淡々と祀理に、榊に有事の場合の儀式用の着物を着付けた。

 桜と榊のやりとりは、意識的に外へと閉め出して、聞かないことにした。
 それから手を引いて、室外へと出た。
 あと少しばかり遅ければ、意識がないままの榊を連れて行くはずだった場所へと向かいながら。

「――祀理くんは、さ」

 しかし、何故なのか、不意に足に力が入らなくなった。倒れてしまいそうになったのだ。
 多分――本音を言えば、それこそ本音を言うならば、柊だって、連れて行きたくはなかったのだ。こんな状態の祀理を。だが、無理矢理歩きながら、誤魔化すように言う。

「はい?」

 すると明るい声が返ってきた。

「今から、辛い儀式させようとしてる身で何なんだけどね。本当に、体も力も関係無しに、大切な”榊様”なんだよ。もっと自分の事を考えて良いんだよ」

 漏れてきたのは本音だった。嘗ての自分には出来なかったが、今は全力で己が補佐するから、今の”榊様”にならば、どんなに自分勝手なことを言われようとも、力を貸せる自身がある。

「自分の事、ですか……」

 ポツリと祀理が言う。

「うん」

 正面を見据えて歩いたまま、いつの間にか真剣な表情で柊は頷いていた。
 だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。

「俺、自分の事しか、逆に考えてないですよ」

 狼狽えて視線を向けると、祀理が首を傾げていた。

「え?」

 改めて首を捻ると、照れるように祀理が笑った。

「泣いて欲しくないと思ったら慰めたり、花瓶に当たって記憶跳んで手首が痛かったら、なんで痛いんだよって思いの方が強くて、寧ろ花瓶の大切さより、自分の体が可愛いし。ニンジン嫌いだから食べないし。世界には百円とか二百円で救える命があるって聞いても募金しないし。飢餓で苦しんでる人がいるって知っててもご飯残しちゃうし」

 なんだそれはと、笑ってしまいそうになった。
 小さいのか大きいのか、狭いのか広いのかすら分からない話題に換言されていた。
 微笑を返そうとしたが、失敗して苦笑になってしまう。

「そっか」

 しかし、こんな風に心が温かくなったのは、久方ぶりのことだった。

「はい、そうなんですよ」

 何度も祀理が頷いた。
 嗚呼、これが己の補佐する”榊様”か。
 それが――祀理君で良かった。確かに、柊はそう感じた。

「じゃあ、代わりに、慰めたり、手当てしたり、花瓶を買い直したり、ニンジンを食べたり、募金したり、ご飯を残さないようにするよ」

 出来ることから補佐しようと決意した。コレが、果たして出来ることなのかは分からないけれど。まぁそもそも花瓶なんて壊れていないのだし。

「ええ? な、なんでですか?」

 すると榊様が狼狽えたような声を上げた。

「何でだと思う?」

 今度こそ本当に苦笑しながら、柊が問い返す。

「えっと……――俺が、”榊様”だから?」
「ハズレ」
「?」
「君が、”祀理君”だからだよ――きっと、これからも、辛い思いをさせる事になるだろうけど、ゴメンね」

 笑いながら言ったはずだったが、涙腺が緩んだのを柊は自覚した。
 天井が涙で歪んだから、気を引き締め直して、上を向いたまま足を速めた。

「――僕には、結局何も出来なかったんだ。本当に、ごめんね」

 目指す部屋が迫った時、歩いたまま静かに柊が言った。

「柊さん?」
「大丈夫。君にはさ、桜も、そら……九重様も、一宮からみーんな、ついてるんだ。何も心配しなくて大丈夫だからね」

 それからいつもの通りに柊は笑って見せた。

「榊様、貴方にしかできないお役目です。お辛いでしょうが、ご辛抱下さい」
「え、ああ、はい……え、柊さん?」
「はい」
「あの……」
「なにか?」
「具合悪いんですか?」
「――え?」
「俺は大丈夫ですけど、柊さんこそ、顔が真っ青ですよ……?」

 驚いているような祀理の声に、思わず柊は唾液を嚥下した。

 正直、これから起こるだろう事を想像しただけでも嫌な記憶で、体が震えそうだったし、そこに榊を送り込まなければならない以上、平然としていられるはずがなかったのだ。ただただ無意識に表情だけで、笑顔を取り繕っていたにすぎない。

「少し――風邪気味なんです。申し訳ありません」

 再度作り笑いをしてからそう告げ、静かに祀理の手をぎゅっと握った。
 そこから精一杯の”力”を送る。

「ご無事にお戻り下さいね」

 そう告げて、柊はその場を後にした。


 それから本宅へと向かい、土岐隆史と茶丘時雨と合流した。比嘉直哉もこちらへ来るとは言っていたが、まだ姿は見えない。それは都合が良かった。

「比嘉が来ると言ったのは、七木家の亮が移動した後なんだね?」

 咳き込みながら柊が確認すると、土岐が頷いた。

「――こちらで把握している限り、比嘉が新幹線の切符を買ったのは、亮が東京を発つ半日以上前だ。確定で良いだろうね」

 淡々と柊が言った時だった。

「「「ッ」」」

 その場にいた三人が揃って息を飲み、夜空へと視線を向けた。
 夏だというのに、雪が舞い散っていた。

「これは――」

 榊様の力だと、以前の≪百鬼夜行≫の際に見たことのある三人は、それぞれが確信していた。

「そうか……祀理君は、これで、基本的には御役目から解放されるね」

 安堵したような柊に向かい、土岐と時雨が向き直る。

「こちらで”殺戮人形”と”榊様”の”対の瞳”を確認しているんだ。だから恐らく、今のコレが一因で、亮は戻ってくるんだと思う。止まってくれると良いんだけれど、止まってくれるかは分からない。ただ、どちらにしろ、一度覚醒した能力は消えないし、暴発する可能性もあるから、”榊様”の身柄は、七木家が一時的に保護する形になる――暴発したら、その場で殺すために、だけど。時雨、君は七木の家で待機して貰っても良いかな?」
「承知いたしました」
「土岐、比嘉は泳がせる。事態が落ち着くまで監視を頼むよ。恐らく、”遮断機”に潜ませていた間諜からの報告と照らし合わせても、今回の襲撃も含めて敵は”バビロン”という相手だ」
「畏まりました」


 このようにして、≪雪消気≫の日は終わりを迎えた。




 その数日後だった。柊が、脱走計画を『知った』のは。”リスナー”が集めている交通網や、抑えている場所の状況から、判断した。

 こちら側の身元を偽っているから、直接的な接触すら合った。
 情報に携わり始めたのは、柊の方が、”リスナー”よりも少しだけ早かったのだ。その上、向こう側には、こちらがある種『親しく』している”芦屋”の気配があった。

 柊は、躊躇無く情報を流した。

 このまま京都においておけば、いくら力が発現したとはいえ、現状ではまだ、榊様は”力”を吸い取られ続けると、簡単に判断できたからだ。つまり陵辱され続ける運命にあるのだ。そんなものを、見過ごせるはずがなかった。

 ”リスナー”には間接的に、そして”芦屋”には、『直接』連絡を取った。

「もしもし」
『――お久しぶりです』
「逃がしてあげて」
『……良かった。これで、こっちとそっちの仲が切れたらどうしようかと、ちょっとビクビクしてました。ま、俺は今、完全にこっち側ですけどね。愛の力です』
「結界を破る位置だけ、相談がしたいんだ」
『こちら側で、破った後、閉じる予定で居ます』
「閉じることが可能なの?」
『ええ、日中なら十分な、いえ、夜でも八割方大丈夫なくらいには。出た後直ぐに、張り直しに向かわせれば、問題はないはずです』
「有難う」
『問題は追っ手なんですけど』
「それはこちらで、どうにかするよ。”リスナー”に、よろしくね」

 そんな話をした暫く後、四條の三男の来訪を、自分の客だと言って柊は素通りさせた。
 それから逃亡を手助けして怪我を負ったらしい時雨に、車を手配するよう土岐に命じた。
 そして後を追いかけようと――子細を知らず榊を守ろうと本家へとまずは集まってきた各家の当主、七木家当主以外の前で柊はいつもの通りの微笑を浮かべた。

「何処にいようが貴方達なら余裕で分かるはずでしょう? 何も、ご自分で出て行かれた今、追いかける必要など無いと思うんだけどなぁ」

 わざとらしくそれから嘲笑すると、誰も何も声を上げなかった。
 柊本人に自覚はなかったが、各々は、『追うな』という命令だと受け取ったのだ。柊自身が意図せず放っていた冷気から。

「時雨に渡した車は見つけたのですが、時雨の姿はありませんでした」

 後日姿を現した土岐に言われ、静かに柊は頷いた。

 時雨が榊の専属だとすると、土岐は柊の専属だった。桜の専属は比嘉だが、あちらの関係は、流石の柊にもよく分からない。

 だが、比嘉が裏切っている可能性が高い以上、今後桜を相手にも気は抜けなくなった。信じたくはないが。何せあの心優しい桜なのだから。しかし今後桜が利用されることがないよう、しっかりと気を配らなければならないだろう。

「有難う、土岐。君は、自分の身の安全を最優先して。比嘉の見張りよりもね」
「承知しました。ですが――」
「君が居なくなったら、誰が僕の遺言状を公開してくれるんだい? それとね」

 今回の逃亡劇の大部分を知り、柊は一つ決めていた。

「恐らく――”バビロン”が、あの日此処を狙ってきたのは、”対の眼球”の影響力の確認だと思うんだよ。わざと引き離した場所での、亮と榊様の共鳴を確認したんだ。だとすると、東京に戻っている以上、あの二人の側の方が狙われやすい。もしも、僕が今後指示できない状況下で何かあったら、この封書を……そうだな、気づかれないように普通の郵便で出してもらっても良いかな。職場宛に、”嵯峨旭警視”に」

 土岐はその何の変哲もない封筒を受け取りながら、目を細めた。

「お気をつけ下さい。今貴方を失えば――」
「大丈夫。僕の代わりなんて、沢山沢山いるからね。なんなら、後継には君の名前でも書いておこうか?」
「冗談はお止めください。最新の遺言状を破り捨てますよ?」
「嘘だよ、悪かったね」

 智徳が来たのは、その数日後のことだった。
 そしてその日、安倍柊は意識を失ったのだった。