<3>安倍柊の瓦解(★※?)



「お初にお目にかかります、柊様。桜です」
「柊です。よろしくお願い致します」
「お気を遣わないで下さい。僕は、若輩者で何も分かりませんので、色々とお導き下さい」

 そう言って花が舞うような笑みで、安倍桜(あべのさくら) を襲名した少年が頬を持ち上げた。まだ前代の桜様もご存命なのだが、ご高齢と言うこともあり、そして何をしたわけでもなく自然と”晴明様のお渡り”があったとの事で、この少年が桜を襲名したのだと柊は聞いていた。

 自然に”お渡り”が合った場合、運が悪ければ、前代が存命中ならば確実に暗殺される。存命時に、遺言状に名前が載っているとでも漏れれば、それもまた危ない。

 次の指名が無かった”柊”の方が珍しいのだ。

 絹のような細い髪をしていて、色素が薄い。柊自身も髪の色は明るい方だったが、それよりは暗いのに、なのにどことなく暖かく見える。子犬のような大きな目をしていて、愛くるしい。白磁の頬が、笑う度に桜色に染まる。

 見ていて柊は思った。このくらい綺麗で可愛かったら、”晴明様のお渡り”もあるのだろう。毎夜のように”晴明様のお渡り”があるとの事で、桜は基本的に夜伽はしないと事前に決められているそうだ。また、大変残念なことに将来病弱だそうで、無理も出来ないのだという。

 年は一つ下だと聞いていたが、まだどこからどう見ても中学生ではなく小学生にしか見えない少年を見て、柊は、確かに無理をさせるわけにはいかないと感じた。

 ただ、体調を考慮して、どうしても外せない物以外の、生け花や書道の代行を柊がし、それを視覚的に桜に見せて覚えさせるという方針を聞いた時には、目眩がした。幸いだったのは、習わせることが目的だから、今回は、一回だけ堪えればいいという事実だった。

 そうした儀式と、桜の体調を気遣い、突発的な際の各当主への”力”の提供は、相変わらず柊が請け負う事にして、新たな体勢での三役がスタートした。

 何かと桜は話しかけてくれ、柊は少しだけ前よりも笑う機会が増えた。

 作り笑いではなく、ごく普通に会話が出来る相手が、久しぶりに現れたのだ。
 無理はさせたくなかったし、嘗て自分が辛いと思ったような経験も、なるべくさせたくはなかった。

「柊様は、どんなお花が好きですか?」
「白い百合かな」
「百合?」
「うん」

 穏やかに頷きながら、自分の葬儀には是非飾って欲しいなと思い、柊は微笑した。

「じゃあ好きな動物は?」
「蝉かな。虫だけど」

 直ぐに死ねて羨ましい限りだった。その上、死ぬ間際には、人々を感動させるのだ。
 蝉時雨を聞く度に、蝉だったら良かったなと、柊は思う。

「お好きな食べ物は?」
「豆腐かな」

 最近固形物を食べると吐きそうになるから、なるべく胃に優しい食べ物が好きだった。

「じゃあじゃあ、好きな本は何ですか?」

 その言葉に、静かに視線を下ろした。池で泳いでいる鯉が見えた。
 結局まだ一度も、『人間失格』というあの本を読んではいないのだ。

 時折捨てられていないことを確認し、その度にタイトルだけを目に焼き付ける、そんな日々だった。そもそもここへ来て以来、読書は愚か、勉強すらしていない。定期的に、茶道と華道と書道と舞は習わせられるようになった、本物を。だが、それだけだ。娯楽も何もない。だからこうして会話をするのすら、本当に久方ぶりの、楽しみだった。

「――……桜様は、何が好きですか?」
「桜で良いです。敬語も使わないで下さい。うーん、そうだなぁ」
「うん」
「僕は、乱歩の『盲獣』かな――だけど、嬉しいです」

 猛獣(?)だろうか、聞いたことがないなぁと思いながら、それから、何が嬉しいのだろうかと思い、柊が顔を上げた。

「柊様から質問されたの、初めてです」

 そうだったかなと思いながらも、そんな風に言ってもらえるなんて嬉しいなと、柊は微笑した。

 そんな風にして、毎日は過ぎていった。それからも、桜は話しかけてくれた。
 そして、ある日、いつもの通り、何気なく問われた。

「柊様は、どのくらい晴明様からのお渡りがあるんですか?」

 答える言葉を失った。正確には一つしか持ち合わせていなかった。

 そんなもの、最初の一度きりしか無いし、あれが小さい頃の夢では無かったのだという自身すらない。寧ろ夢だったと言われて、お役目を解かれた方が、どんなに良いことなのだろう。

「全く無いよ」
「え」
「本当に、全く無いんだ」

 柊の言葉に、驚いたような顔で、桜が息を飲んだ。
 それから恐る恐るという風に聞かれた。

「じゃあ……嫌なことがあった時、誰に慰めてもらっているんですか?」
「慰める?」

 嫌なこと以外がある日は、ここ最近までほとんど無かった。
 だが、慰められた記憶など無い。
 強いて言えば空野がいつか昔一度来てくれたことだろうか。あれくらいだ。

 それにしても、晴明様というのは、慰めてくれるのかと、一つ勉強になった気がした。
 けれど、慰められたら何かが変わるのか、それが柊には分からなかった。
 何も変わらないのだから、無意味だ。
 首を捻っていると、狼狽えたような顔で桜が、じっと柊を見た。

「柊様」
「どうかしたの?」
「いえ、その――……そ、そうだ。今度から、何か嫌なことだとか、悲しいことがあったら、僕に言って下さい。僕が慰めます!」

 今度は笑顔になった桜を見ていたら、ほんのりと柊の心は温かくなった。

「分かった、有難う。じゃあ代わりに僕も……晴明様がお忙しくて、桜を慰められない時には、慰められるよう努力するよ」

 柊は、そう告げ笑い返した。多分それは、作り笑いだった。

「柊様」

 その時声をかけられ、使用人に呼び止められた。
 手招きされたので、桜と別れて自室へと戻る。そこでいつもよりも豪華な着物に着せ替えられたため、首を傾げていると、父が姿を現した。

「ご無沙汰いたしております、柊様」
「……お久しぶりです」
「桜様がいらして、実際は兎も角表向き、正式には、もう”お褥滑り”と相成りましたので、この不詳の父が、新たなお役目を先んじてご用意させていただきました。前々から準備は進めてあったのです。お喜び下さい」
「新たなお役目……?」

 袴姿の父に促され、連れて行かれたのは、宴会の会場だった。
 そこには様々な来客者がいた。

 聞かされたのは、彼等の相手をし、”九尾の力”で”浄化”する、という役目の話だった。お払いを求める一般人のようなものだから、狐栓は閉めて、ただ抱かれていればそれで良い――そう言って父が卑しく嗤っていた。

 あの時ビデオや写真を撮っておいて良かったと、そう言って笑っていた。

 ダビングや焼き回ししたそれらにも高値が付いたこと、そしてこうして体を重ねることには、一人につき数千万の収益になることを聞かされた。

 その日の夜から、”狐提灯”に”力”を渡さなければならない緊急時以外の日は全て、どこかの誰かに買われるようになった。何度も達してしまっていては数をこなせないからなのか、本当に決まっているのかは知らないが、前に付けられた輪で、最後が終わるまで、達することは出来なかった。また媚薬漬けの日々の始まりだった。

 ≪百鬼夜行≫の時に力を提供し、次に役目を果たすことが出来る者が現れるまでの間の繋ぎとして、柊はそれまで、”力”を渡す役目を続けてきていた。

 本来であれば、≪百鬼夜行≫等という、大きな”力”を必要とし”力”が吸収されるような大災害を堪えた柊は、とっくにお役目を辞退していても十分なほど消耗していたはずだった。

 だが、誰もそれには触れなかった。やっと桜の出現でそれが変わるかとも思えたが、あまり変化はなかった。そしてその現実の不条理さを、誰も柊には教えてはくれなかった。

『ビデオを拝見してから、是非一度”浄化”して頂きたいと思っていたのです』
『酷くされるのがお好きなようですね、ビデオでは意見した限りですと』
『写真で見るよりも、本物のお体の方がやはりお綺麗だ』
『こうして見ているとただの子供にしか見えない。それが好きなんだ』
『しっかりと咥えて下さいよ』

 もうそれは、ただ、体を売買されているだけに等しかった。ビデオや写真が出回っているという現実を聞いた頃から、胃の痛みが止まらなくなった。

 その上、夜ごと抱きに来る客は、これまでよりも更に悪化し、もう、単純に肉欲まみれの瞳で柊を見るだけなのだ。

 媚薬を盛られ、その上散々嫌と言うほど焦らされ、慣れきって敏感な内部を突かれ、様々な言葉を口にさせられた。ある日、柊を抱きながら客が言った。

『最高の男娼だな』
『子供を抱いても犯罪にならないしな』
『まぁ露見しても”安倍”ならもみ消してくれるだろう』
『もう少し小さい内に手を出せれば良かったんだけどな』

 後ろを貫かれながら、そんな言葉を耳にして、けれどそれよりも体の熱をどうにかして欲しかった。男娼、そんな事は、もうずっとずっとずっと何度も誰かに聴かされて、覚えきってしまっていた単語だった。

 そうして日中は、習い事の他に、客を楽しませるための教養の授業が増えた。語学も習わせられ始めた。夜は、相変わらず客の相手だ。

 休みなど無かった。強いて言うならば、安倍九尾のいずれかの当主の相手をする日だけは、他の何もかもをしなくて良くなった。既に≪百鬼夜行≫での死者もいたから、何軒かの家では、当主の代替わりが始まりつつあった。

 そんなある日のことだった。

「このままですと、桜様が、器としてのお役目の方法を、お忘れになってしまうかもしれません。柊様、御指南願います」
「はい」

 やってきた当時の、前代安倍桜の代理人に請われ、頷いたものの、どう指南すればいいのかいまいち柊には分からなかった。最近では、習い事の時に顔を合わせるだけで、会話をする機会もほとんど無くなっていた。それでも桜に会えるのは少しだけ楽しみだった。習い事の時だけも、本当に僅かにほっとできるからだ。

 それから概要を聞けば――柊に、桜の狐栓を開けと言うのだった。
 要するに、今度は抱かれるのではなく、抱けと言うことだ。

 正直柊は、困った。ここ最近、媚薬を飲んでいない状態で、それも自分の意志でなど、勃った記憶がないのだ。

 恐らく無理矢理起てたのが、あのビデオを撮られた時、アレが最後だ。
 しかし最低限イかずとも起てなければ、狐栓を開いて桜を果てさせ、力を引き出すという行為が出来ない。念のため、薬を用意した方が良い。

 第一桜だって、自分に抱かれたいなどとは思っていないだろうから、あちらを楽にしてやる薬も必要だろう。柊は思案する。普段己に盛られているような強いものではなく、苦痛と痛みのみを消して、僅かに快楽を煽るくらいのものが良いのかもしれない。

 そんな事を考えて、使用人を呼び、媚薬の一覧表と効能を見せてもらった。そして数種類頼み、受け取ってから、”指南の日”を迎えた。

 布団の上に、桜は座っていた。

 何が起こるのか、きちんと分かっているのかと聞きたくなるような、満面の笑みを浮かべていた。

「最近、柊様とちゃんとお話できなくて寂しかったんです」
「僕もだよ」

 それは柊の本音だった。

「座って、座って」

 腕を引かれ、正面に座る。すると目を伏せて、唇を重ねられた。
 驚いていると、体を離した桜が微笑んだ。

「柊様は、こういうキス、したことありますか?」
「……うん」

 もう随分と前のことだというのに、空野の姿が頭を過ぎった。

「――誰とですか?」
「空野……」

 小さな声で呟いてから、慌てて我に返り、柊は首を振った。

「え?」
「ううん、なんでもない、ごめん。無いよ、こんなキスをしたことは」
「……そうですか」

 桜は何か言いたそうな顔をして柊を見た後、それからはにかんだ。

「今日は僕、頑張ります」

 そう言って彼は、柊の前をはだけて、陰茎を口に含んだ。

 咄嗟のことに、柊は驚いたものの、確かに未経験ではないし、何をするかを聞いているのだろうから、当然かと考え直した。

 そして暫し様子を見てみるが、やはり自分自身に反応がないことをはっきりと自覚してしまった。必死で桜が口を動かしてくれて、それが気持ちよくないというわけでは無かった。だが、勃たないのだ。

 快感と感情と体の全てが、乖離してバラバラになっているような、不思議で歪な気分だった。

「僕なんかじゃ駄目でしょうか……?」

 悲しそうな声で桜に言われ、慌てて柊は首を振る。

「そんな事無いよ。気持ちいい」

 気持ちいい、その台詞を口にすることには慣れていた。

「もう少し続けて」

 慌てて促し余裕の素振りを見せてから、桜の視線が下を向いている内に、素早く勃起を促す媚薬の錠剤を水無しで飲み込んだ。

 やはりさして感覚は先ほどとは変わらないのだが、そこはさすがに二葉の媚薬だけあって、柊の体は反応を見せた。薬の効果が切れないうちに急がなければと、柊は決意した。

「もう良いよ桜」

 そう告げ、傍らの盆に入れておいた、効果の薄い滑る媚薬を指に取る。
 そうしながら、桜の体を押し倒し、太股を持ち上げた。

「入れるよ」
「っ」

 指をゆっくりと入れると、桜の体が震えた。
 なるべく酷くしないように、傷つけないようにと、必死に考える。
 強すぎる快楽も、弱すぎる快楽も、苦しいだけなのだ。

「ふぁッ、あ」

 声を上げる場所を見つけて、そこを何度か刺激しながら、もう一方の手にも媚薬を絡めて、桜の前を撫で上げた。

「ああっ、うあ、ん、柊様っ、体が熱い、いやぁぁあ」

 声を震わせ、泣くように桜が言う。
 もしかすると、自分的には弱かったが、媚薬が強かったのだろうかと、柊は不安になった。

「大丈夫だから、桜」

 慌ててそう口にし、手を止めると、震える喉で桜が言った。

「入れてぇっ、指じゃ嫌ぁッ」

 もう少し慣らした方が良いようにも思ったが、自分が飲んだ薬の効果が持続する時間を考えると、有難い話しだった。その為、柊は頷いた。

「無理だと思ったら言って」

 そう告げ、ゆっくりと腰を進める。桜の内部は、媚薬の効果なのか、すんなりと柊のものを受け入れた。狐栓の場所は、感覚で直ぐに分かった。”力”の出所に無理矢理己の陰茎を宛がい、いつもは無理に引き出されてばかりの力を、必死で放出する。

「うわああああああ!!」

 瞬間、桜が目を見開いて叫んだ。
 明らかに今までとは反応が違う。狐栓のせいだろうと思い、本当に指南が必要なほど開いていなかったのだろうなと柊は考えた。

「いや、いやぁ、いやだ、強いっ、強い、強っ、うあ、あ、嫌、嫌ぁッ、お、お願い、柊様、お願いだから、もっと弱く……ッ」

 本気で懇願を始めた桜の様子に、とりあえず柊は、自分でも精一杯放った”力”をかなり弱めた。”力”の放出など滅多にしないので、正直弱めて良いのは楽だったが、それで指南になるのか、少し不安だった。

「す、すごっ……これで、弱いの……? っい、うあああっ、ん――ッ」

 その言葉に柊は思案した。最初に出した力と比較すると、先ほどが水でいうとバケツ一杯分なら現在は、一滴程度だ。まぁどうせ自分には、バケツ一杯を満たすほどの力もないのだろうと思いながら、柊は苦笑した。

 三役であっても、戦う力を発現させれば、すぐにでもお役目の大半を降りられると聞いている。その戦うための力にも満たないほどの力量しか己にはないのだと柊は思っている。

 これまで散々強い力を浴びせられ、大量に力を抜かれ続けてきたせいで、感覚がおかしくなっていることになど、本人は気づいてはいなかった。その一滴だと本人が思っている”力”だけであっても、既に九尾各家の当主の力に匹敵しつつあった。

「ぼ、僕も、もう、あああっ」

 柊はそんな事などつゆほども知らないから、純粋に、本当に桜が久しぶりなのだろうと判断して、辛そうだから今日は止めることにした。大きく突き上げてから、自分は達せられないままで、自身を引き抜く。引き出す力の量は、一滴分の自覚よりも、更に半分くらいにした。

「うあああ――!!」

 ぐったりと果てた桜を一瞥し、何とかなったと思って柊は、安堵の息を漏らした。

「……っ、うう」

 まだ惚けたような顔で涙を零しながら、桜が柊へと視線を向ける。

「大丈夫?」
「ッ、こんなに力を一回で一人に抜かれたの、初めてで、僕……」
「そう……もしかすると、皆様が、桜の体調を気遣ってくれていたのかもしれないね。酷くしてしまったかな、ごめんね」

 純粋にそう考えて柊が頭を下げると、呆気にとられたように桜が目を丸くした。

「え?」
「ごめん」
「いえ、あの……気遣って?」
「うん。それに、指南が必要なほど、久しぶりだったんでしょう? 悪かったね、酷いことをして。本当に少ししか”力”は込めてもいないし、抜いてもいないんだけど……どうしようかな」
「……少しって、それはあの……イヤミですか?」
「え?」

 真剣に悩んでいた柊は、桜の口から『イヤミ』なんて言葉が出てきたことに驚いて、顔を上げた。暫くお互いにぼんやりと視線を交わす。

「僕はただ柊様にお会いしたくて、ご指南していただきたいって言っただけで、これでもちゃんと、皆様のお相手をしていますっ」
「え、あ」
「もう良いです。柊様がそう言うおつもりなら、僕にも考えがあります!!」

 泣きそうな怒ったような、そんな顔をして桜が立ち上がった。
 そうした表情を見るのも初めてのことだった。

 そのまま出て行ってしまった桜をぼんやりと見送りながら、柊はとりあえず今宵の仕事が無事に終わったことにまず安堵し、沈める薬を飲んだ。そして少しだけ、折角出来た話の出来る相手を怒らせてしまったことに胸が痛んだ。

 指南の予定は毎週火曜日だったが、二度とその日は来なかった。

 かわりに更に戦況が落ち着いたこともあるのか、”狐提灯”関連で”力”を提供する日も激減し、ひたすら客の相手をする日が増えていった。

 自分で考えて媚薬を使わなくて良い分、勝手に盛られるこちらはまだ気が楽だった。寝っ転がっていれば基本良いのだし。


 その日は、朝どころか昼間で客の相手をさせられた。
 疲れ切った体で廊下を歩いていると、庭に桜の姿が見えた。

 穏やかに笑っていたからほっとして、それから隣に立っている少年と青年の狭間にいる人物を見て、柊は思わず立ち止まった。目を見開き何度か瞬きをしてみる。

 ――空野だ。

「ああ、九重家の時期御当主ですね。お父様がお亡くなりになられてからはお祖父様がご当主代行をなされていて、今回は、桜様の指南役も九重家から。一度柊様の狐栓の指導をなさったことがあるのを買われて」

 ああ、やはり空野だなと柊は頷いた。
 きっと自分では、満足できないというか、合わなかったのだろう桜は。空野ならば、きっと桜に優しくしてくれるだろう。そう思えば、気が楽になった。

 自然と笑顔が浮かんできて、小さく頷いた。

「そうですか。それは良かった。行きましょう」

 傍らの使用人に頷いて、柊は歩みを再開した。

 そんな柊の微笑の意味を、庭で一瞥していた桜が、受け取り方に迷っていることなど何も知らずに。

 それは翌週の茶道の習い事が丁度終わった時のことだった。
 丁度部屋には一人になっていた。

「お待ち下さい、九重様」
「離せ」
「お止めください、こちらは、畏れ多くも柊様の――」

 外で控えている複数の使用人の声と、聞き覚えのあるような無いような、そんな声がした。

 何事だろうかと視線を向けていると、勢いよく襖が開いた。

「――柊様」

 入ってきたのは、先日見かけた空野だった。
 そうか、声変わりしたのかと、納得しながら柊は立ち上がった。

「なにか御用ですか?」
「安倍桜さまの指南役を拝命している九重家次期当主として、お話しがあります」

 その言葉に、確か次は教養の授業だったなぁと柊は思い出していた。

「お話でしたら、改めてきちんと手順を踏み、お約束をお取り付け願います!」

 きっぱりと使用人が言うと、冷たい顔で空野が睨め付けた。

「……火急の用みたいだし、三役に関わりのある話のようだから、次の先生には帰っていただいて」
「ですが、柊様」
「九重家に連絡して帰らせるよりも、話を聞いた方が早い」
「……承知しました」

 見守っていた使用人達が、襖を閉めて廊下へと戻っていく。
 それから、険しい顔で空野が言った。

「お気遣い感謝いたします」
「別に……どうぞ、お座り下さい」

 そう言って座ろうとした柊の肩に、空野が手をかけ、それを阻んだ。

「お前、桜に酷いことをしたんだってな」
「酷いこと?」

 そんな風に乱暴に扱われたことは、さすがになかったため、少しビクリとした。
 勿論性交渉自体は酷いが、仮にも柊様だ。皆が丁寧に扱っていたのだ、意識的にしろ、無意識的にしろ。

「媚薬を盛って、大してならしもせずに突っ込んで、無理矢理大きな”力”をたたきつけたんだってな。――嘘だよな? お前がそんな事するわけがない」

 空野の声に、柊は息を飲んだ。
 嘘ではない。
 間違ってはいない、恐らく桜の体感的に。

「本当だよ」
「っ」

 息を飲んだ空野の前で、困惑しながら柊が首を傾げる。

「それがどうかしたの? 大体あのくらい――」
「お前最低だな!! 酷いイヤミで屈辱を与えたなんて所まで、本当だとは思わなかった」

 唐突に糾弾され、訳が分からず、柊が顔を上げた。
 意味が分からなかった。

「そんなに桜が邪魔なのか? 三役の権力を独り占めしたいのか? 外部にも権力と金のために散々体を売ってるそうじゃないか!!」

 その言葉に、スッと全身が冷えきった。

 ――……桜が邪魔なはずがなかった。桜が来るまで、誰と話すことも無かったのだから。そもそも、権力? そんなものいらないから、すぐにでも三役なんてものから降りたかった。柊でなんていたくない。好きで”柊様”になったわけじゃない。お金もいらない。だから、もうしなくて良いなら、客の相手なんかしたくない。それは本心だった。

 だが同時に――……『金のため』あるいは『権力のため』に、外部へと体を撲っているのだと、男娼だと、内部でも噂されているのを、柊は知っていた。

 本来は寵愛する対象を見つけ出すべき三役の立場にいながら、新しく現れた桜に皆の寵愛を奪われ、独りぼっちになった柊様、と、笑って雑談している使用人達の姿を見て、慌てて踵を返したこともある。

 柊の本心など、誰も聞いてはくれないのだ。
 そして柊の行動は、周囲にはきっとそう映るのだろう。

 そうである以上、本心からイヤミなど言ったつもりなど無くても、周囲にそう取られることもあるのかもしれない、と。冷静に柊は考えた。

 そうでなければ、空野がこんな事を言うとは思わなかったからだ。

 まさか、桜があることないこと誇張して、空野に吹き込み、信じなかった空野が柊に直接聞きに来ただなんて、知るよしもなく。そして帰ってきたまさかの言葉に、激高して空野が思わず、耳にしたことがある嫌な噂を、悪口に変えて叫んでいるだけだなんて、柊は思わなかったのだ。

 それ以前に。

 空野の声を聴いた瞬間に、いつか形作られ少しずつ罅が入っていった心が、パリンと音を立てたのだ。空野との思い出で、なんとか保っていたようなものだった心は、それがこんな、最も聞きたくない人からの最も聞きたくないことを言われた記憶で塗り替えられてしまったら、もう瓦解し崩れてしまわないはずが無かった。気づくと柊は笑っていた。

「そうだよ」
「なッ」
「そうだよ。それの何が悪いの? 僕、気持ち良い事、大好きだし。それに僕だってやってきたんだから、桜にもちゃんと教えてあげないとね。その内気持ち良くなるよ」

 笑いながらそう告げ、言い終わった後も、哄笑した。ひとしきり笑った。
 もう何もかもがどうでも良くなった。
 全てが馬鹿馬鹿しく思えて、ただただ笑うことに専念した。

 呆然としたような顔をした後、眉を顰めて、怒りで瞳を揺らしている空野が視界に入る。
 それが分かっていたから、さらに柊は笑った。
 ただ良かったなと、小さく思った。
 桜にはきちんと心配し、身を案じてこんな風に怒ってくれる人がいることを。

「本当に最低だな。何でそんな風になったんだよッ」

 頬を平手で殴られ、乾いた音を聞いたのとほぼ同時に、そんな声を聴いた。
 そのまま出て行く空野を一瞥する。

「――九重様。今後は、お気をつけ下さい。三役にかような振る舞いをすれば、処罰を受けるのは貴方だ。今回は見逃して差し上げますが」

 廊下で聞いていたのだろう使用人達皆に聞こえるように、柊はそう告げた。
 振り返り忌々しそうに舌打ちして、空野は帰って行く。
 しかし柊のその言葉がなければ、確実に処罰はあった。回避された瞬間だった。

「柊様……」

 恐る恐ると言ったように、使用人が顔を出す。

「――迷惑をかけたね。本来なら、教養の授業の時間のはずだから、皆は下がって下さい。その時間が終わるまで、僕は少し休むので」

 そう告げ、柊は廊下へと出た。
 皆が困惑したような顔をしつつも、下がっていく。

 一人きりになった廊下で、手すりに手を添え、階下を見おろした。
 二階だから、池がよく見える。鯉が泳いでいた。

 もう――疲れてしまった。

 苦笑しながらそんな事を考えて、飛び降りたら死ねるだろうと思い、手すりを乗り越えた。

 誰も、二階から落ちたくらいでは死ねないとは教えてくれなかったのだ。

 だから柊は、もうこれで楽になれるのだろうと、静かに考えていたのだ。
 嗚呼、やっと死ねるのか、と。
 ――どうせ、僕は人間失格なんだから。



 目を覚ますと、足と肋骨が折れていると言われ、こめかみを少し切っていると言われた。

「転落事故だなんて、本当に、お気をつけ下さいよ」

 溜息混じりにそう言われ、痛む体で、柊は目を細めた。額の当たりに巻かれている包帯と、着物の中に見える胸元の包帯、それから固定されている足を見る。

 医師らしき人物が去っていくと、入れ替わりに、父が入ってきた。

「この馬鹿者!! 体に傷でも付いて、買い手が付かなくなったらどうするつもりだったんだ!! 気をつけて歩け!!」

 首を絞めるようにしながら、怒鳴られた。

「今夜からは、こちらにお客様には来ていただくからな」

 その後完治するまで、安倍家の邸宅に用意された病室で、客の相手をすることになった。

「包帯と和服というのも良い趣向ですね」

 そんな事を言われながら、痛みと媚薬と快楽で訳が分からなくなっていく。

 いつも以上に動けないことも手伝い、客もまたこのような状態の柊を抱きに来るのだから残忍だった。漸く怪我が治るまでの間、その後その部屋を訪れたのは、医師を除けば、客だけだった。見舞いには誰一人訪れなかった。客を斡旋している父親さえも来なかった。

 そして――怪我は治ろうとも、もう心は元に何て戻らなかった。治らなかった。



 次に安倍桜や九重空野と顔を合わせたのは、柊の父親の葬儀の時のことだった。
 怪我が治って、二ヶ月ほどした頃のことだ。
 空野の当主襲名よりも、丁度一月ほど早い時期だった。

 母親はとうの昔に亡くなっていたが、お役目ばかりの日々で、いつ亡くなったのかすら柊は知らなかったし、葬儀にも出席しなかった。大分経ってから、法事だと言って呼ばれて初めて知った。

 淡々と喪主をし、挨拶していると、一段落し、火葬場へと移動する頃合いに、目の前で砂利を踏む足音がした。顔を上げると、そこには久しぶりに見る桜の顔があった。

「柊様……」
「ご無沙汰いたしております、桜様。この度は、父のためにご参列いただき、誠に恐縮です」
「いえ、あの……っ、お悔やみ申し上げます」

 淡々と言った柊に、何故なのか辛そうな顔を慌てて背けるようにして桜が言った。

「率直に聞きますけど――自殺じゃ……」
「いえ、父はスキルス性の胃癌です」
「そうじゃなくて……柊様が、落ちたのは、あれは、だからその、自殺しようと……」

 震えているその声に、柊は会釈していた顔を上げて、笑った。
 作り笑いには慣れていた。

「――まさか。鯉を見ていたら、落ちてしまったんだよ。気にかけてさせて悪かったね」
「!」

 すると呆然としたように桜が目を見開いた。

「僕の方こそ謝ろうと思っていたんだ。君に酷いことをしてしまったようだったから。ごめんね」

 そう告げて柊が苦笑すると、桜が目を細めて唇を噛んだ。

「許してもらえると嬉しいんだけどな」

 やっと心からの笑顔が浮かんで柊は頬を持ち上げた。
 まぁ無理なら無理で仕方がないだろうとは思った。
 表情を戻し、車の方へと視線を向ける。

「申し訳ないんだけど、予定が詰まって居るんだ。そろそろ行かないとならないんだよ。来てくれて本当に有難う」

 柊はそれだけ言うと、待たせていた車に乗り込んだ。


 なお、父が亡くなっても、相変わらず”浄化”のお役目は無くならなかった。