<*>その後


 その後祀理は、少しの混乱を経て、京都での≪異形≫による騒動の後、ナナキ達と共に、東京へと戻ってきた。

 脱走したのである。
 その逃亡劇については、ここでは語らない。
現在は、嵯峨の手配したマンションに身を寄せている。


 時雨が共に結界付きのマンションで暮らすことになったのは、戻ってすぐのことだった。
 今日も時雨は、執事(?)として甲斐甲斐しく働いている。

 呼び鈴が鳴ったのは、その時のことだった。
 ――結界が切り裂かれる気配など微塵も無かった。

 だから、何のためらいもなく、普通の来訪者だと思い、インターホンで応対した後、時雨は扉を開けた。そして目を見開き硬直した。

 唐突にその場に広がった威圧感に、動けなくなる。万全の体調ならばまた別だっただろうが、その時の時雨には、強すぎるその気配に、指先までもが動かなくなった。

「久しぶりだな、時雨。中へ通せ」

 鼻で笑うようにそう言った時には、既に中へと一宮宗信は入っていた。
 ソファに座っていた祀理が、その声に驚いから見るのを怖がるように緩慢に視線を向ける。見おろすようにし、その隣に立って、宗信は笑った。

「時雨、茶を出せ」

 彼がそう告げた瞬間、緊迫感が瞬間的に消え、時雨は動けるようになった。
 だが反射的に武器を構えようとした時、視線だけで射られる。

「俺は茶を出せと言ったんだ。お前の中では、それが茶なのか?」
「――大変失礼いたしました」
「と、宗信さん、あの」

 だが宗信の威圧感など全く気にならない祀理は、ただの怖い人だという印象だけを持ったまま、意を決して立ち上がった。幸か不幸か、天草は本日出かけている。このマンションには、天草と灯が現在共に暮らしているのだ。

「あの、その、時雨さんは……」
「別に連れ戻しに来たわけでも、殺しに来たわけでもない。お前の事も、時雨の事もな――座っても構わないか、”榊様”」
「あ、はい」

 安堵混じりに、おずおずと祀理が頷く。
 その正面に座り、宗信が深々と溜息をついた。

「まぁ最初のアパートよりはセキュリティが良いな。許容の範囲内と言ったところか」

 呟きながら、周囲を見回している。

「あの、宗信さんは、どうして此処に?」

 純粋に祀理が尋ねた時、時雨がお茶を二つ用意して戻ってきた。
 そして双方に緑茶を差し出す。

「九尾が本気を出せば――少なくとも筆頭の一宮には、”榊様”の居場所なんて直ぐ分かるんだ。甘く見るな。だから追いかけなかった。まさか幸運で逃げ切れたとでも思っていた訳じゃないだろうな?」

 失笑するように笑った後、宗信が茶を手に取る。
 確かに各当主からの追っ手は無かったと聞いていたので、頷きながら祀理もまたお茶を手に取った。

「まぁ時雨に関しては、一時期本当に場所が分からなかったが……ここに来てからは、気配で分かった。直ぐに怒鳴り込もうとした七木家の弘を止めたのは俺だ。あの時なら確実に時雨はとどめを刺されていただろうな」

 細く宗信が息をつく。

「宗信さんが?」
「ああ」
「今更良いことしても、俺の中での株は上がりませんよ?」
「黙れ。別にお前の中の株など知らん」

 悪気のない祀理の前で、宗信がお茶を吹き出しそうになった。

「時雨には用があったんだ。それにお前にもな」
「用事ですか?」

 また嫌なことをさせられるのだろうかと、祀理は憂鬱な気分になる。

「――呪符書きだ」

 返ってきた言葉に、思わず祀理は首を傾げた。

「え?」
「呪符を至急、10000枚程書いて欲しいんだ。”榊様”の仕事として」
「そんなの書き方知りませんよ!?」
「その為に指南役として、時雨を一宮が此処へと派遣した。それで良いだろう?」

 疲れたように告げた宗信の言葉に、祀理と時雨が揃って息を飲んだ。

「安倍九尾の内部での諍いを治めるのも一宮の仕事だからな」
「宗信さん……」

 当然だという顔で言い、お茶を飲んでいる宗信を見て、祀理が目を瞠った。

「――有難うございます」

 隣では深々と時雨が頭を下げている。

「別に構わん。それよりも……本当に、七木家当主は激怒しているから、此処に乗り込まないように説得するのに苦労した。そちらに感謝して欲しいくらいだ」
「そんなに弘さん、怒っているんですか?」

 困惑したように祀理が尋ねる。

「アイツといい、八坂といい、ブラコンを拗らせると大変なことになる典型例だな」

 すると深々と宗信が溜息をついた。

「宗信さん……」
「なんだ?」

 茶器を置きながら、宗信が顔を上げる。

「宗信さんの口から、ブラコンなんて言葉が出たのにビックリしちゃって」

 そこには、心底驚いたというような顔をしている、祀理がいた。

「お前ふざけているのか? 俺を怒らせたいのか?」
「い、いえ、そう言う訳じゃ。大体、いつも怒ってるし」

 思わず片手で顔を覆い、宗信は眉間に皺を刻んだ。
「……おい、時雨。ついでに祀理に、口の利き方も指南してやってくれ」

 時雨は何も応えず、ただ微笑している。
 なんだか疲れたなぁと思いつつ、宗信は立ち上がった。

「とりあえず用件はそれだけだ。ああ、八坂もこちらに来ているから気をつけろよ」
「え、舞理がですか?」
「ああ」
「嘘、何処に居るんですか?」
「家は、前、お前に俺が斡旋したところだ」

 その声に、祀理は息を飲んだ。
 大至急、ナナキに伝えなければと思ったのだ。

「別に、下の階の七木亮に、少なくとも俺達が手を出すことはない。安心しろ」
「良かった」

 だが宗信の続いた声に、心底安堵して肩の荷を下ろす。

「しばらくは別件で俺もこちらにいる。何かあれば言え。俺は帰る」

 そう言って歩き始めた宗信の横をすぎて、扉を開けてから、時雨が深々と腰を折った。

「今回のご配慮、本当に有難うございます」
「感謝するなら、誠心誠意祀理に仕えろ。一宮はこれで恩を売った気になるほど、余裕がない訳じゃない」

 宗信はそれだけ言うと、祀理へと振り返る。

「邪魔をした」

 そして家を後にし――……ようとした時、不意に思い出したように宗信が、入り口脇に置いていたケージを見た。

「――そうだった。やる」

 時雨に押し付け、祀理へと視線を向けて宗信が言った。

「宗信様、これは……」
「秘書に調べさせたが、此処はペットを飼うのが可能だそうだな」
「え?」

 祀理が歩み寄ってくると、宗信がケージを一瞥する。

「猫だ」

 それだけ言うと、今度こそ宗信は帰っていったのだった。