<7>夏なのに降る白い雪(※)



 祀理は気がついた時、一人でぼんやりと、畳の上に横たわっていた。

 乱れた着物を、普段ならば誰かが直してくれたり、布団まで運んだりしてくれるのだが、その余裕も無かったらしい。ぼんやりと起き上がり、静かに座る。

 小さく開いた襖の向こうにも右往左往し、薙刀を持って走りながら、外へと向かう、使用人の人々の姿が見える。恐らくは、祀理以外の『視える』人々が、全て駆り出されているのだろう。屋敷の中にいる限りは、強い結界が張ってあるのだとかで、祀理は、未だに何も視た事が無いけれど……ぼんやりとそんな事を考えた。

 ガクガクと震える足で立ち上がり、祀理はやっと覚えた着付けで、自分の服を整えた。

 今は――夏の終わり。

 夏の終わりには、どんな着物が合うんだったっけ……?
 散々覚えさせられたのに、それすら思い出せなくて、ただ紫に似た色の生地と、水色や黄色、白い花が舞っている和服が、脱ぎ捨てられるように傍らにあったのを確認した。けれど、『交わった』時に着せられた、黄緑色の着物のままで、祀理はそれを着付けたのだ。

 曖昧模糊としているような思考の中では、何もかもが、どうでも良く感じられた。

 最近、誰かと体を重ねると、いつもこうだった。

 当初こそ、体が悦楽と快楽に絡み取られ、ただ祀理は泣いていた。
 だが最近は何故なのか、行為が終わると、身体の中からナニカが欠けて吸収されていくような虚無感が募り、ただつらさばかりが記憶に残るのだ。気持ち良いと理解しているはずなの、逆にそのせいで、体がつらい。

 ――今日は、もう出せない。

 そんな事をぼんやりと思いながら、祀理は障子を開けて周囲を見渡した。
 使用人の人々は、皆もう、この屋敷から出て行ったようだった。

 ただ理性が、『ここには、”力”を得るために連れてこられた』事と、『本来この場所は危険だ』と言う事と、『本宅へ戻らなければ』ならないと、どこかで言う。

 道が分からないなど、冷静に考えれば分かったはずなのに、蒙昧とした思考では、兎に角『帰らなければ』としか、思いつかなかった。意識が朦朧としていたのだ。

 フラフラと下駄を履き、祀理は庭に出て、隅にある木造の扉から外へと出た。

 夏特有の熱さと、残暑払いでもしなきゃならないなと感じさせる、静かでひんやりとした気配を感じる。

 気怠い体で空を見上げれば、そこには紫色の月があった。赤紫色の、月だ。
 いつも、晴明様が眺めているような。

 ――嗚呼、嗚呼、ここは夢の世界なのだろうか?

 そんな事を考えていたら、呻くような咆哮がした。
 目の前には、黄ばんだ歯をした巨大な口があった。口だと分かるのに、歯茎しか無くて、開いた歯と歯の間には、唾液で出来た線が引いている。緩慢にその≪ナニカ≫から目を逸らし、右手を見れば、そこには、腐った肉を撒き散らしながら歩いてくる、皮膚のない巨人がいた。そぎ落とされたような鼻をしていて、目は緑色だ。

 晴明様は、確かこれらを≪鬼≫だと呼んでいた気がする。
 あれ、≪魑魅魍魎≫だったかな?

 祀理は、水色の狩衣を着た青年を、『晴明様』と呼ぶように教え込まれていたが、その晴明様が、夢の中で何を語ったのか、最近は昔以上に、思い出せなくなっていた。

「榊様!!」

 その時、誰かが名を呼んだ。確かそれは……襲名した、名前だ。自分には、その価値しかないから、皆が祀理をそう呼んでいて、優しくしてくれるのだ。自分の体にとっては辛い事であっても、それだけが、己が役に立てるたった一つの事柄なのだ。朦朧とした意識でそれだけを考えていた時、巨大な歯茎が迫ってきた。

「祀理!! 逃げろ、馬鹿!! なんで、ここに――」

 祀理、祀理?
 それは、なんだっけ?
 ただ、一宮が呼んでいるのは、分かった。

 そして――……祀理は、嗚呼、力を渡さなければと思って。

 右手に迫る歯茎を見た。嗚呼、力を渡すためには、こちらに向かってくるそれは”邪魔”だ。それだけは、よく分かっていたし、どうすれば良いのかも、何故なのか分かっていた。

 瞬間、夢の中で、晴明様が『雪より桜の方が好きなんだけどね』と呟いた事を思い出す――思い出しながら、祀理は両手を合わせて一度叩いた。パン、と音がした。

 何故なのか、両手を叩いていたのだ。

 祀理の両手から響いたのは一瞬だけの乾いた音だった。
 それから勝手に動いた唇が、何かを呟いた。

「≪雪消気≫」

 その時、夏の夜だというのに深々と、白い物が舞い始めた。
 ……――嗚呼、雪だ。これは、皆を、安倍九尾の皆を守れる雪なのだ。キラキラと時折輝きながら、雪が舞う。嗚呼、これで助けられる。それはあるいは祀理の思考であり、あるいは他の誰かの慈愛に満ちた感情だった。混ざり合っていく、温かい気持ち。

 雪に当たる度に≪鬼≫――……ああ、今は、≪異形≫と呼ばれているのだっけ?
 それらは、溶けるように、あるいは消失するように、消えていく。

 嗚呼、何かがまた、祀理の中から欠けていった。

「……――理、祀理!!」

 気づけば、誰かが祀理を腕で抱き起こしていた。
 朦朧とした意識の中で、自分は倒れたのだろうと理解した。

 視界に映っているのは一宮で、祀理は一宮の腕に体を預けていた。
 そんな祀理を、二葉と九重がのぞき込んでいる。
 何故なのか、そこには驚愕に似た目があった気が祀理にはした。

 祀理は、彼等の顔を見ながら、思わず泣いていた。もう、祀理の体力は限界だった。
 苦しさが体を絡め取る。

「……もう無理だ、体が辛いんだ。俺は、俺もう、イけな……」

 必死にそれだけ呟いて、涙が祀理の頬を濡らした時、ついに祀理は重い瞼を持ち上げる事が出来なくなった。ただ時折響いてくる声だけを認識していた。




 二葉の声が安堵したように言う。

「これで、ほとんどの≪異形≫は、消滅したね」
「練習も何もせず、本能、あるいは晴明様のお導きで使ったのだとしても――≪雪消気≫を使えるなんてな……それも、初回であの威力だ。今なら、前代の”榊様”が”祀理”を選んだ事にも、一宮本家も納得せざるを得ない」

 嘆息するように、一宮が呟いた。

「後は、結界を再構築して、≪異形≫が入らないようにすれば――……なッ!!」

 その時、九重の驚いたような声が響き渡った。

「嘘だろ、修復してない結界だとしても、次が来るまで時間があるはずなのに」

 続いて焦るように、三輪が息を飲んだ。破れたままの結界から、またも≪異形≫が入り込んでくるのが分かったからだった。

「これ以上入られる前に、結界の修復をしないとヤバイ」

 叫ぶように言って、五瀬が走り出した。三輪と九重が、その後を追う。
 何故なのかその時の祀理には、聴覚ともまた違った、何なのだろう、存在感とでも言うのか、気配とでも言うような、彼等が結界を張り直す為に姿を消して失われ訪れた力の大きさが分かり、それからその場の力の在りようが判断できるようだった。

「すでに入ってきている≪異形≫の討伐に出る」

 そう告げて、今度は七木が走り出した。頷くようにしてから、四條と六月……そして、舞理が走り出したのが、何故なのか祀理には分かった。危ないから、もう行かないで欲しいとどこかで思っていたら、気づけば涙が祀理の頬を伝っていた。

「大丈夫?」

 慌てたような二葉の声がする。
 その時祀理は、直ぐ側に――≪異形≫の存在を感じて、重い瞼を漸く開く事に成功した。

「ギの、うら……ッ柳の裏……」

 何故なのか掠れている声で、祀理は告げた。
 どうして掠れてるのかは、最早自分自身でも分からなかった。
 すると驚いたように目を見開き、一宮と二葉が視線を交わし合った。
 一宮がゆっくりと祀理の体を二葉へ預け、立ち上がる。そして今度は祀理の体を二葉が抱く。

 二葉は右手の中指と人差し指を立て、何事かを呟き始める。
 祀理達の正面に立った一宮は、数珠が所々に巻かれた不思議な刀を持っていた。

 祀理が見た事がないほど太くて、反り返っている刀だった。それが刀と呼べる代物なのかすら分からない。一宮は険しい顔をしていて、圧倒的な威圧感を放っている。

 そこへ――顔らしき巨大な表皮に巨大な眼球と口があるだけの、巨大な半身半馬の≪異形≫が姿を現した。

「「っ」」

 一宮と二葉が息を飲んだ。
 直感的にこの二人では勝てないと、祀理にも何故なのか分かった。
 ――だが。

 その時の祀理は、不思議な安心感を感じていた。
 馬のような巨大な物の歯で、一宮が刀を振る前に、腕を喰いちぎられたのが、うっすらと開いた瞼の下の瞳で祀理にも見えた。血の臭いがして、肉が跳び、骨に罅が入っているのが分かる。一宮はいつも綺麗な色合いの着物を着ているのに、その腕と袖は、血に染まってた。

「堪えろ、もうちょっとで、戻れるから!!」

 叫ぶような九重達の声が聞こえる。恐らく結界を張り終わったのだろう。
 七木達は一体一体の≪異形≫を切り捨てながら、それでもこちらを目指して走っているようだった。だが、彼等には、祀理達に声をかける余裕なんて、無いようだった。

 その時馬のような≪異形≫が、大きく息を飲んでいるのが分かった。
 咆哮が始まるのだと、祀理は何故か理解していた。そんな知識など無いはずなのに。
 緊張感が走った皆の空気に――それでも祀理は、やはり安心感を覚えていた。

 瞬間だった。

 【人馬ウツロ】が咆哮しようとした直前、その首が切り離され、宙へと跳んだ。

 呆気にとられたように、皆が目を見開いている。

 だが祀理は、安心感の正体を知って、今度は嬉しくなって苦笑しながら、涙を零した。

「ナナキっッ!!」

 そこには、白い装束を、合わせ目を逆に纏った、ナナキの姿があった。

 祀理の大切な友達で、きっと助けてくれると、どこかで信じていた、大切な友達の姿が確かにあったのだ。苦しくなって胸が熱くなって、祀理は泣きながら笑っていた。


 そのまま、祀理は意識を失った。