<5>手首から滴る紅い血と眼球(※?)



「祀理くん? そろそろ、帰るよ」

 いつもの通りの柊の声がした。

「祀理くん……?」

 桜が、こちらをのぞき込んでいる事を祀理は理解していた。

 しかし気怠い体以上に、胸の痛みすら何時しか消え去り、祀理は何も考えられなくなっていた。恐らく、先ほどまで痛く疼いていた心みたいなものをしたどこかに、罅が入り、割れて壊れてしまったのだろう。

「ヤり過ぎちゃったんでしょうか?」
「気持ち良すぎたのかもね」

 二人は、ぼんやりとしている祀理を眺めながら、そんな声を交わす。それを聴きながら、だけど全く頭に入ってこない中で、祀理は体を起こした。

「あ、起き上がれた?」
「じゃあ帰りましょうか」

 二人の声には何も応えず、祀理は部屋を出て、浴室らしき場所へと向かった。
 すぐ脇の洗面所にあった、白い袋に入ったカミソリを手に取ってから。

 何をしようとしているのかを、本人すら自覚してはいなかった。

 どうせトイレにでも行ったのだろうと、柊も桜も気がつかない。
 ――幸運だったのは、祀理の知る自殺方法が、縊死と窓からの転落し、そして手首を切る事という、メディアでよく見る三つだけだった事、及び、このフロアには窓が無かった事と、紐を祀理が見つけられなかった事(ベルトなどでも死ねるとは知らなかったのだ)、そして手首を切っても死ぬのだと思いこんでいた事だろう。

 また――……ナナキの右手首にあるような眼球が、丁度、祀理の左手首に填っていた事だろう。普段は瞼を伏せて、その線すら消えて見えないのだけれど。祀理はそれを夢だと思っているのだが。

 右手でカミソリを持ち、手首にあてがい、横と縦のどちらに切ればいいのか、暫し祀理は思案した。ミステリィ系のTVで見たのは、横だった気がする。それから、シャワーを出すんだっけ。

 そう思い出して、横に一筋切ってみたが、まるでネコに引っかかれたみたいだった。これじゃあ何の意味もないと言う事は良く分かった。何故自分がそんな事をしているのかを祀理自身は知らなかったが、もっと深く深く深く切らなければならない事は何となく理解していたのだ。それからもっと力を込めて深く引くと、今度はもっと血が出てきた。

 だが――この程度の血液になど、何の意味もない。夢の中で、晴明『様』が浴びていた体液や血液を思い出した。だから痛みすら感じずに切り裂き、白い脂肪を突き破って、肉を見た。血がボタボタと流れていったから、もう良いかなと思い、シャワーを捻る。

 何故なのかその血の線の直ぐ側で、眼球が瞬きしている気がしたが、ああ、これは夢なんだとどこかで思っていた。だって、痛くないのだから。傷も、心も、もう何もかも。


「あれ……シャワー入ってるのかな?」

 トイレにしては長いと思っていたら、水音が聞こえてきたため、柊が扉へと視線を向ける。

「……――柊さん。なんだか、血の匂いがしませんか?」

 その時、桜が眼を細めた。
 血の匂い――それに敏感なのは、桜が”お褥滑り”をした理由の一つだ。
 桜がそれを感じた以上、それは確実だ。

 だが、此処は、結界が張り巡らせた、安倍九尾家の管轄するマンションの一つだ。異形に誰かが襲われたとは考えがたい。だとすれば――……?

「……ごく近い場所からなんだね?」
「……はい」

 聞くまでもない問を柊がして、答えるまでもない回答を桜がした。
 視線を交わした二人は、柊が先を走る形で、浴室の扉を開け放っていた。

 そこには、深い溝を築いた手首から流れる血液にシャワーを晒して虚ろな瞳をしている祀理がいた。正確には、榊様こと祀理と――……グロテスクな、黒金色の巨大な眼球と、腕に絡みついた視神経が『いた』。傷口を蹂躙するように絡みついている。

「すぐに病院に連絡しないと――!!」

 勿論安倍九尾家の息がかかった病院がいくつかあるから、眼球の事など問題にはならない。手首の傷で死ぬとは桜も考えていなかったが、その行為自体が問題なのだ。

「うん、そうだね。ただ、一時間後に来るように伝えて」

 淡々と柊がそう告げた。

「ここから一番近い病院なら、救急車に見えない黒いワゴン車で、十五分以内に来てくれますよ!?」
「その前に安倍三役として、まぁ意識がある二役として、確認事項がある」
「それは、祀理くんの命よりも大切な事なんですか!?」
「当然じゃないか。安倍三役は、ただの”器”なんだから」
「ッ、と、兎に角電話します。一時間後で良いんですよね!? その間に、こちらで止血させてもらっても良いですよね? そのくらい、安倍桜の権限を通しますから」
「うん」

 頷いて電話を始めた桜を一瞥もせずに、眼を細めて、柊は静かに、祀理の左手首に絡みついている眼球を見据えていた。

 まず、絶対的に見逃せない事が二つある。

 一つはその瞳の色だ。黒金色をしてるのだ。
 それの持ち主は、柊が知る限り現状で、五人しかいない。
 一人目は、安倍晴明だ。これは、安倍九尾しかしらない秘匿された事実だ。
 二人目は、聖使徒Valentine。ヴァレンタイン・ディのヴァレンタインだ。

 三人目は、Aleister Crowleyだ。クロウリー、誰もが名を聞いた事があるだろう、有名な魔術師である。

 そして四人目が、今や無能となったと言われる”殺戮人(キリングドール) 形”。瞳を生まれながらに持っていた事も不思議ではあったが、人体から瞳が消え去った事例もまた聞いた事が無かったから、ずっと後を追わせていた。

 そして――なんと、新しい”瞳”を手に入れたのだという。

 右手の手首に。それこそ馬鹿げた話しだった。二つも瞳を宿せるものなのか? だが三役のように、ただの”器”としてではなく、”現在”だから”何かが起こりえる現在”だから脈々と受け継がれてきた親族に生を受けたのだとすれば、それだけの力があっても不思議ではない。無論その殺傷能力も知っているが、柊からすれば、そちらよりも余程”眼球”の方が気にすべき事態だった。

 最後の一人、五人目は今、この今見つけてしまった。左手の手首に、”榊様”――本当に実は、先ほど無理に言わせた通り、”柊”と”桜”よりも上位にいて、統べる存在であり、それこそ安倍九尾家の支配者とされてもおかしくない青年の左手首に、黒金色の眼球を見つけてしまったのだ。

 黒金色の”眼球”が特別視される理由は二つだ。
 安倍九尾家に限っては二つと言われているというのが正しい。

 一つ目は、基本的には離れた色合いを持たない”眼球”(紫闇は近いに分類される)を持つ、黒と金という色合いが、力を生み出すのか、他の、現在では”贄黒羊”と呼ばれる者達よりも、圧倒的な力を持つ事だ。それは、殺傷能力や、対≪異形≫の能力に関するものだけではない。常人には理解できない”ナニカ”がそこにあるのだ。だからこそ、聖人も魔術師も陰陽師も何も関係なく、それこそ”(げん) 米茶(まいちゃ) ”の様にごちゃ混ぜに”黒金色の眼球”は出現する。無論、柊が知らない事例としても存在しているだろうから、出現理由は、判断すら出来ない。

 ただしこちらは一つだけ、分かっている事がある。

 噂、あくまでも噂だが、ヴァレンタインにもクロウリーにも、秘匿していた眼球の持ち主が居たらしいのだ。それは、己と同じ色の眼球を”逆の手首に眼球を持つ者”だったと言われている。真偽は不明だが、それが事実だとすれば?

 晴明様ですら、手首に”眼球”を持っていたという記述はないが、”眼球”を一つしか持っていなかったという記述があり、別の色だとされてはいるが”仲の良かった人間”は、手首に眼球があったと言われている。もしかすれば、晴明様も二つ”眼球”を持っていた可能性もあるし、あえて友人の”眼球”の色を秘匿した可能性もある。

 だとすれば、だとすれば、だ。

 七木家の次男である亮――”殺戮人形(キリングドール) ”と阿部祀理――”榊様”は、対で黒金色の瞳の持ち主である可能性がある。それぞれ、右手首と左手首に。

 そして黒金色の瞳が持つ二つ目の特質、特別視される理由のもう一つは、視神経じみた、触手のような何かが、腕に絡みつき、その者の力を他の眼球よりも最大限に引き出す事なのだ。

 今――……この瞬間、柊は、榊の側の”視神経”――九尾家では、”狐の尾”と言われる代物を確認した。それに、”刀に絡みつく触手のような……視神経のようなものを見た”と語っていたと聞いている。

 ”殺戮人形”に関しては、自分自身の目で見たわけではないから、ただの”遮断機”側の錯覚かも知れないが、可能性はあり得る。何せ、”殺戮人形”は二つの”眼球”を宿しているようなのだから。

「やっぱり、一時間後なんて言えませんでした。我慢したけど、二十分後には来てもらいます」

 怒ったような桜の声で、柊は我に返った。

「ああ、うん。ねぇ、所で、この”眼球”どう思う?」

 柊はそう言いながら、腕を組んだ。

 ――仮に対で生まれるのだとして、その意味は何だ? 何故強い力を持つ?

「そんなこと、どうでもいいでしょう!?」
「……え?」

 その回答に驚いて、柊は目を丸くした。

「榊様――だからじゃなくて、ここにいるのは、祀理君でしょう? つい、ちょっと前まで、普通の大学生だった、ただの男の子なんですよ!?」
「え、あ」

 初めて見る桜の怒りの瞳と剣幕に、柊は正直狼狽えた。
 だが、すぐに立ち直り眼を細めた。

「君は、自分の過去と、祀理君を重ねているだけ何じゃないのかな」
「ッ」
「今の役目を忘れるな。今、ここにいるのは、まだ生きている祀理君を含めて――榊様を含めての三役なんだ」

 冷静にそう告げ、それから、わざと蔑むような視線を柊は向けた。
 その時、三役からの電話のため早く来た救急隊が、到着したのだった。