<1>下弦の月


 嗚呼――あれは、下弦の月だ。理科の授業で、昔習った。

 祀理はぼんやりとそんな事を考えながら、まどろむ内に、久方ぶりに瞼の裏に移り混む懐かしい夢を見ていた。

 懐かしいと分かるのは、そこに黄色い月と、赤紫色の月があるからだった。

 血飛沫と体液が舞い、そこでは無表情の少年が、刀を振り血を払っていた。
 白い着物を着た少年は、橋の上にいて、ぼんやりしている。
 それから緩慢に祀理を見た。

 虚ろな瞳は蒼闇色で、特に片方が、より蒼い。青とも紺とも付かない瞳をしていた。
 全てを凍てつかせるようなその瞳――……。

 けれど祀理は、それを見ていたら、悲しくなってきて、気づけば世界が涙で滲んでいた。
 夢の中で泣くなんて、初めての経験だった。

 多分凍り付いているのは彼の心で、切り裂かれ、割れて崩れていく氷も、彼自身なのだとよく分かる。温かい雪を識っている祀理は苦しくなって嗚咽した。

 ――もう、許して。
 ――もう、助けて。
 ――もう、いやだ。
 ――もう、こわい。
 ――もう、体が、動かない。痛み、痛み痛み痛み。

 彼の心の氷を真っ赤な鎖が束縛していき、結局少年は、無表情のまま、何も口から訴える事は出来ない。彼の辛さが染みいってくるようで、気づけば、抱きしめてあげたいと祀理は思っていた。感じていた。自分に出来る事があるならば、助けてあげたい、力になりたいと、確かに、そう確かに。

「あるよ」

 その時、聞き慣れた声がした。
 夢の中で、そして――多分、現実でも聴いてしまった声だった。

「晴明様」
「榊――私は、酷い間違いを犯したのかも知れない。だってもう、祀理君と呼ぶ資格が無くなってしまったんだからね」
「晴明様のお好きなようにお呼び下さい」

 安倍晴明……晴明様。晴明様に対する対応は、もう何度も夢も現も関わらず、安倍九尾本家にいる限りは、囁かれ続けて、体に躾けられた義務だった。

「残念で仕方がないよ。もっと私は、『本当の君』と話がしたかったんだからね」
「……本当の俺?」

 その言葉の理解が出来なくて首を捻った。だと言うのに、『晴明様』の前にいるというのに、祀理の頬には相変わらず涙が線を作っていて、胸を悲愴が突き裂いていた。

「私はね、君が、榊だから、榊の器だから、抱いたから大切な訳じゃないんだよ。私の中では、勿論”榊”は”榊”だから、矛盾しているのは自覚しているのだけれど。だけどね、それはあくまでも私の中の話なんだ。あるいは、安倍九尾家のお話だ。お伽噺なんだよ。君はその主人公にも脇役にもなれるけれど――君自身のままでいる事だって出来るんだよ。今、君は何がしたい?」

 晴明は苦笑するようにそう言った。
 だけど祀理の回答なんて一つだけだった。

「あの子を助けたい。守りたい。俺にそれが出来るんなら」

 目を伏せると、更にぼろぼろ涙が零れてきた。俯いていたから、足へとそれが垂れていく。苦しくなって、何度も首を振った。祀理のそんな様子に、苦笑して晴明が歩み寄る。

 静かに髪を撫でられて、涙に濡れた瞳で、祀理が顔を上げる。

「そっか」
「うん」

 無我夢中で祀理は泣きながら、敬語なんて、覚えた古い言い方なんて全部捨てて晴明の胸元の着物を掴んでいた。

「だけど、だけど、俺にはそれが出来ない。そんな力、無い、無いんだよ。だから、助けてあげて……ッ」

 鼻を啜り、苦しくなって、大きく吐息した。

「そんな事無いよ。君にはそれが出来る。逆に言えば、君にしか、それは出来ないんだ」
「え?」
「残念な事に私の肉体は眠っているし、精神は夢しか渡る事が出来ない」
「っ、うあ、で、でもッ」
「だから、君が助けてあげるんだ。あれは、ただの夢なんかじゃない。苦しんでいる子がいるんだよ。それは、分かる?」
「う、うん」

 震えながら祀理は頷いた。

「本当に、本当に俺に助けられるの? なら、なら、なら!! 助けたいよッ」
「冷たい事を言うようだけど――何故、初めて見たばかりの一人の子供を助けたいと思うんだい? それは、君の優しさ?」
「違う、違うんだ、あれは、俺の大切な――……」

 その時、祀理は目を見開いた。靄がかかるように思考に靄がかかっていく。
 崩れ落ちそうになったところを晴明が抱き留めた。
 そして視線を流し、呟いた。

「胡蝶蘭」

 すると、いつも見る平安風の邸宅に、昼間のその家の軒先に、晴明に肩を抱かれたまま、祀理は座っていた。思考が朦朧とし、涙が消えていく。それは無理に、赤いさかずきを唇に宛がわれ、甘い甘い酒を飲まされるのと、ほぼ同時だった。

 背後を一瞥すれば、女御が一人立っている。
 彼女がどんどん酒を用意してくる。

「苦しい思いをさせたね」
「え、あ」

 ぼんやりとした思考で祀理は晴明を見上げた。

「ただね、私もまたいつも苦しい思いをしているんだよ。あの子と同じように。君と同じようにね。最初は助けてあげる事も力になる事も出来ない己を呪った。けれどね、けれど、それでも生を繋いでいるのは、またこれからも素敵な人に会えると思っているからなんだよ。例えば君のように大切な子、そしてあの子のように大切な子。私にとっては、どちらも大切なんだよ。感じる苦しみは、三者三様なのだろうけれど。せめて君達二人には、幸せになって欲しいと心から祈っているんだ。だから言ってご覧。あの子は、君にとって大切な――……なんだい?」

 祀理は朦朧としていて、もう涙も乾いていたけれど、はっきりとそれだけは分かった。理解していた。それ以外の回答なんて無かった。

「友達、なんだ、本当に大切な友達。親友なんだよっ、ああ、なのに、俺は何も出来なかった」

 気づけばまた泣いていて、馬鹿みたいだと自分自身の事を思った。

 けれどあの凍り付いたような表情を、罅の入ったような脆い心を見ている事が、どうしようもなく辛いんだ。どんなに酒で落ち着かせられようが、朦朧としようが、それだけは、確実に言えたし、その友達のためなら、何度でも泣くと思う。

 気づけば晴明の腕に縋り付くようにして、また祀理は泣いていた。

「本当に、俺に、なにかできる事なんてあるのかな?」
「大丈夫。ちゃんとある。だって君には、守りたいモノがちゃんとあるんだから。一つあるって事はね、沢山あるって事なんだよ」

 そう言って静かに晴明は、祀理の髪を撫でた。

「榊……君には、強い≪想い≫が、もうあるから、だから、名前だけ教えてあげるよ。≪雪消気≫……≪雪景色≫じゃないからね。ちゃんと頭の中で覚えるんだよ」
「ん……」
「それとね、大切な友達で、あの子は親友なんでしょう?」
「うん」
「だったら、助けてあげるんだよ、ちゃんと。君はね、一緒にいるだけで、それだけで、あの子を助けてあげられるんだ。友達って言うのはそう言うモノなんだよ。側にいるだけで良いんだよ。ああ、私にもいつか、遙かな昔、そんな友がいたね」
「うん、うん」
「私は、その友が側にいてくれるだけで、救われたよ」
「……っ、きっと」
「ん?」
「その人も、晴明様が隣にいて救われたよ。だって今、俺、俺、救われてる」

 祀理のその言葉に虚を突かれたように息を飲んだ後、ソレまでの大人びた笑みとは違う、心からの笑顔を晴明は浮かべた。

「そうかな?」
「そうだよッ」
「じゃあ、私と君も、良い友達になれるかな? 今からでも」
「とっくに俺はそう思ってるよ。初めて夢を見た頃から。だから、だからこの前の事は、逆にショックだった!! 友達なら、あんな事するな!!」

 泣きながら鼻水を啜り、何を思いだしたのか、真っ赤な顔で祀理が声を荒げた。
 その剣幕に、晴明は喉で笑いながら苦笑した。

「そっか。ごめんね。じゃあ――……また、祀理くんって、呼んでも良い? 私にはその権利があるかな? 榊様」
「あるに決まってんだろ、馬鹿!!」

 そう叫んだ直後、酔いが回ったのか、他の力に絡め取られたのか、祀理の意識は暗い闇に囚われていて、気がつけば、瞼を開け、泣いていた。

 そのまま誰もいない寝室で、気づけばおぼろげな夢を思い出しながら、静かに一人祀理は涙を零していたのだった。そうして――朝まで眠れないままだった。

「――ああ、折角改めて多分友人になれたのだけれど、次の客人だ。私にとっては、祀理くんと同じくらい大切な子だからね」



 ――夢現でナナキは寝入り瞼を伏せた。

 直後、舞い散る桜の木の下に立っていた。
 いつもはこんな時間に夢は見ないし、季節なんて現実通りなのに。
 昼間なのはいつも通り変わらないのだけれど。

「ようこそ。久しぶりだね、座って」

 水色の衣の青年にそう言われ、夢だと自覚しながらも、ナナキは歩み寄った。
 すると、彼の隣には、空になりかけた一つのさかづきがあって、後ろにいた初めて見る着物を着た女の人が、ナナキの分を渡してくれた。

「あの、えっと」

 座りながら、ナナキは不審に思って半眼になった。
 確か”ネコ缶”や”灯”のように、何らかのクスリを飲んでいないと、世界が混ざると”リスナー”から聞いていたからだ。だが、だがだ。これは、”夜月時計の世界”に出会うよりもずっとずっと前から繰り返し見てきた夢なのだ。

 昼間に会うようになったのはごく最近だけれど、それまでの間自分は、ただひたすら――今なら≪異形≫と言う名だと分かるナニカを夢の中で切り裂いていたのだ。全て少年の姿だったが、明らかにそれは自分自身だった。何故そんな夢を見たのかは分からないが、きっと巻き込まれるのを察知してみていたのではないかとナナキは思う。

 昔から、カンだけは良かったのだ。

 とりあえず座りながら、持ったさかずきに日本酒らしき透明な酒を注いで貰う。
 久しぶりというか――一体この人は、誰だろう?

 確か前の夢の中で、『逃げろ』だとか『助けてくれる』だとか『友達』だとか、云々かんぬん言っていた人のような気がする。だが、名前も知らないし、何故此処で、夢の中とはいえ酒を飲んでいるのかも分からない。

「お名前は?」

 ナナキは率直に聞いてみる事にした。

「安倍晴明」
「またまたぁ。言いたくないなら、別に良いですけど」

 思わずナナキは、笑ってしまった。子孫なら兎も角、平安時代(?)の頃の人が生きていたら、奇跡だ。

「幸せそうだね。楽しそうだ」
「え、あ、まぁ」

 嵯峨の事を思い出して、ナナキは思わず赤くなりそうになって、酒をあおった。

「その”居場所”を大切にするんだよ。血縁なんかより、よっぽど貴重なんだからね」
「え? は、はい」
「それと、君を助けたいと言っている『友達』の事もね」
「友達……」

 その言葉に、真っ先にナナキは祀理の事を思い出していた。
 最近出来た場所はと言えば、”リスナー”の店だし。その前は、大学だったし。

 ――あ、嫌、最近は、嵯峨さんの隣だと思って良いのかな?

 そんな事を考えながら、いつの間にか満たされた酒の二杯目を煽る。

「押し殺して、押し隠して、生きる事は楽だと思うよ。だけど――≪敵≫に友達と一緒の時に出会っても、君には友達を見捨てて逃げる事が出来るの、君にはそれが出来る? 恋人と一緒の時には?」

 酒が回ってきたのか、少しだけ曖昧になってきた意識の中で、ナナキは首を振った。

「無理です」
「無理って?」
「良く分からないけど、僕、本当は人殺しなんだろ? あるいは≪異形≫を殺してる。それなのに生ぬるい空間で生きてる。どこかで僕はソレを知ってるのに、今の”居場所”ではソレを知られたくなくて、ソレこそ押し殺して、押し隠して生きてる。呼吸してる」

 酒のせいなのか、饒舌に喋ってしまっている事をナナキは自覚していた。
 なのに、三杯目の不思議に満ちた酒を飲む事が止められない。

「本当は僕に用意されてるのなんて青緑みたいな体液や、人間の赤い血液に塗れた、グチャグチャな道のはずなのに、な。馬鹿げてる」

 気づけばナナキは哄笑していた。

「そんな僕には、本当は恋人を作る価値もなければ、友達を作る価値だって無いんだ」

 気づけば言いながら、四杯目を手にしていた。

「夢って良いよな。起きたら全て無くなるんだから。例え覚えていたとしても、夢だと思って、直ぐに忘れられる」
「――……そうかもしれないね。だけどね、ナナキ君。七木亮君」
「その名前、久しぶりに呼ばれた気がする」
「君を確かに大切に思っている恋人がいて、君を確かに大切に思ってる友達がいる事は、忘れちゃダメだよ。恋人に止められたら、止めるんだ。友達の事は守るんだ。君は、殺すために生きてるんじゃないよ、守るために、大切なモノを守るために生まれたんだからね。その恋人や、友達を傷つつけちゃダメだよ、特に物理的な意味で。君の歩く道は、ぐちゃぐちゃなんかじゃないんだから」
「じゃあ、じゃあさ」
「なんだい?」
「僕の事は誰が守ってくれるの?」

 気づけば泣きながらナナキは笑っていた。

「すぐに分かるよ。君を大切だと思って、友人だと思ってる人は沢山いるんだって事が。恋人は一人だけだろうけどね。そして、その人は、きっとね、何もかも捨てても、君を抱きしめてくれる相手だ。もう、怖がらなくても、逃げなくても大丈夫なんだよ、君は。友達が沢山出来て、そして、それでね、榊――私にはそう伝えるのが精一杯だけど、大切な親友が居るんだからね。きっと、大親友だ」

 その言葉を聞いて、ナナキは心から安堵して、そうして――スマホの音を聞いた。

 何も覚えては居なかったけれど、何故なのか、泣いていた。
 涙を拭い、気怠く手を伸ばし、手に取ると、それは祀理からの電話だった。

『起きてた?』
「今起きた」
『ごめん。あのさ、ちょっと、京都に行く事になったんだ。さっき電話が来て、”榊襲名”のための作法を学ぶんだって。柊さんと桜さんから呼び出されたんだ』
「そっか……って、え? やばくないのか、それ」
『けど……その、会いたい人がいるからさ』

 その言葉に、ナナキは嵯峨の事を思い出していた。
 自分だって、例え友人であろうが恋人であろうが兄弟であろうが親子であろうが、嵯峨に会えるのならば、何処へでも行くだろう。それくらい好きだから。

「分かったよ、行ってきなって。ちゃんと戻って来いよ。来なかったら、迎えに行くからな」
『はは、うん。有難う。大好きだ、ってんな事言ったら、嵯峨さんに嫉妬されちゃうな』
「一生黙ってる」

 そんなやりとりをしてから、二人の通話は途切れた。


 ――けれど、彼等二人が去ってもまだ、夢の世界が消えたわけではなかった。


「ああ――珍しいなぁ。今日はもう一人客人が来るようだね」

 そう、どこかの夢の中で呟き、縁側に座りながら、晴明は両手を合わせるように、ポンと叩いた。すると女御が消えていき、美しい胡蝶蘭が花瓶に飾られる。それから指を鳴らすと二匹の大きな狐が、両側にやってきた。その頭を撫でながら、晴明が微笑した。


「ああ、あの子達は、幸せになれるかな?」