<3>笑顔


 俺が起き上がれるようになったのは、その日の午後だった。
 本来は別室で食事をとるはずだと思いだして、頑張って廊下を歩く。

 その時だった。

「っ」

 正面から、時雨さんが歩いてきた。退職願を出していたと聞いている。

 なんで?
 どうして?
 俺が気持ち悪かったから?

 グルグルと足を止め考えていた俺には一度も目を合わせずに、会釈
 だけして冷たい無表情で彼は歩き去った。あんな表情、最初に講義の場に来た時ですら見たことがない。彼は大抵いつも笑っていたし表情が豊かだった気がする。例えば、作ってくれた食事を美味しいと言った時、彼は照れくさそうに笑っていたのだ。

 ――ああ、もう俺は笑みすら向けられないのか。

 その事実に俺は落胆し、けれど、それが当然であるような気がしてもいた。
 なにせ彼が俺の側にいたのは、俺が無理を言ったからであり、彼にとっては仕事にすぎなかったのだから。

 分かっていたのに、なのに、何で俺は泣きそうになっているんだろう。
 誰にもそんな姿を見られたくなくて、踵を返して角を曲がろうとした。

 すると――パシンと音がして俺は、誰かとぶつかり、倒れ込みそうになる。
 だがその人物が腕で抱き留めるようにして、床との激突を回避してくれた。

「一宮……宗信さん」

 驚いて声を上げた俺の体を支え、しっかりと立たせながら、彼は溜息をついた。

「廊下を走るな、というのは、小学校で習っただろう?」
「あ、はい……」
「まったく」

 そう告げてから、宗信さんが、角の向こうの廊下――時雨さんが歩いていった方を見据え、眼を細めた。

「そういえば、執事役を辞退したらしいな、アイツ。俺がお前に、辞めさせろと言ったからか?」
「違、違います……ッ」

 それなんだったら、どんなに良かったらと思ったら、もう俺は涙が止まらなくなった。

「お、おい?」
「っあ、ふ……ごめんなさい、大丈夫です、大丈夫ですから」
「この状況でそう見えるなら、頭がおかしいだろ」

 険しい顔をしたまま宗信さんが、俺の手首を掴んだ。
 そして角を曲がってすぐの所にある、人気のない部屋の襖を開ける。
 適当に座布団を用意し、俺のことを宗信さんが座らせてくれた。
 自分の分の座布団を用意した後、視線で箱ティッシュを探し、それを渡してくれる。

「何があったんだ?」

 淡々とした宗信さんの声に、とうとう俺は泣き崩れた。ただ必死に笑おうと思って、唇だけには弧を浮かべる。

「――どうせ俺は淫乱なんだよ」
「なんだって?」
「時雨さんの事だって、執事だって無理に連れてったんだし、人がきっと恋しいんだ」

 俺は笑った。そのはずなのに、上手くできなくて、こぼれてきた涙で唇がしょっぱくなる。するとそんな俺を暫し眺めた後、宗信さんが溜息をついた。

「あのな……体は淫乱だと思うが、中身までそうかどうか俺は知らない」
「は?」

 何を言われているのか分からなくて、涙を拭いながら俺は首を傾げた。
 いつからこんなに涙もろくなってしまったのだろう。

「それに執事業は、いくらでも断れた。アイツは仮にも安倍九尾家に仕える中で、一番の家柄なんだ。九家であっても、力がなければ、アイツより格段に下扱いだ。悪いが、アイツの力量には、九尾一の実力を誇る俺の一宮も気を遣う。要するにだ、断れる自由があるんだよ。だから――何を考えてお前の所にいたのかは知らないけどな」

 両手の指を机の上で組み、そこに宗信さんが顎を乗せた。
 俺は信じられないという思いでそれを見守る。

「……本当に?」
「ああ……それに、その、あれだな」
「何?」
「俺は口が悪い、冷たい人間だと良く言われる、だから、その……傷つけたんなら悪かった」

 そういうと、プイッと宗信さんが顔を背けた。
 そこには困惑が浮かんでいるようだった。
 その表情に、思わず俺は、涙を消し去ることに成功した。
 何度か瞬きをする内に、涙は消えた。
 だから、改めて、宗信さんを見据える。

「実は優しいんだね……なんて言うと思ったか! いやいやいや、本当最低だから!」

 本心からそう言って笑った。

「……なんだって? 今度は、執事の前で泣かせてやろうか? 視姦されるのがお好みみたいだからな」

 すると宗信さんがいつもの通り険しい顔をした。眉間に皺が刻まれている。本当に、いつも通りだ。それが心地良かった。

「すいません、実は優しいんですね!」
「お前な……」

 呆れたように宗信さんが何か言いかけて、だが止めたように苦笑したのだった。



 そんな事があって、俺はまた日常に復帰した。
 今回入手した物――それは、豪華なマンションだった。

 まさかその下の階に、大学で一番仲の良いナナキの恋人や、”智徳法師”と呼ばれる”贄黒羊”が住んでいるなど、知らないまま。だが、それで良かった。

 確かに時雨さんがいない生活は寂しかったけど、元々一人だったのだからと思うと、すぐに慣れた。ただ、時折思うのだ。彼が、幸せそうな笑みを、またいつか自分へと向けてくれたら良いなと。

 ――今後俺が誰と恋をするのは分からないけれど。そう言う関係じゃなくても、笑顔を見たいと思うのは、悪い事じゃないはずだ。

 そんな事を考えながら、窓を開ける。

 鴉が一羽、線を引くように、横切っていったのだった。