<14>いらなくなった俺


 それは突然の事だった。
 俺が安倍榊となってから、初めて安倍柊さんに呼び出されたのだ。
 向かった座敷には、安倍桜さんの姿もある。

「何か御用ですか?」

 鉛がついたような体を叱咤して、俺はそう尋ねた。
 それでも吐息するのも苦しくて、右手で顔を覆う。
 ここへ来てから、どれほどの日々が立ったのか、最早分からない。

 何もかもが、夢うつつに思えるのだ。甘い香の匂いが俺の身体を絡め取っている感覚だ。まるで蜘蛛の巣に捕らわれた蝶々のような、そんな気分だった。

 そんな俺を見て、柊さんはいつもと変わらぬ微笑で言った。

「もう九尾の各家には力が満ちたから――帰って良いよ」
「……え?」
「榊君のお役目は、終わったんだ。元の生活に戻ると良い」

 それ、は。俺が待ち焦がれていた声のはずだった。
 だが何故なのか俺は目を見開いていて、短く息を飲んでいた。

「勿論、今後も強い≪鬼≫――≪異形≫が出現したら、”力”を貸して貰うこともあるかも知れないけど、ひとまずは、終わり。もう安倍の家には、”晴明様の力”が満ちたからね」

 柊さんの声に硬直していると、傍らで桜さんが微笑んだ。

「良かったですね。これで無理に……誰かに抱かれる必要はないのだから」
「……はい」

 答えた俺の声は、微かに震えそうになっていた。
 しかしこれこそが、この非現実から解放されたい思いこそが、俺の全てだったはずだと思い直す。

「東京まで送るよ――時雨」

 柊さんの声に、静かに襖が開いた。
 見れば黒いスーツ姿で、そこには時雨さんが正座していた。久しぶりに会う。俺を非日常に招待した象徴だと、今でも俺は感じている。

 その後俺は、舞理も含めて、安倍九尾家の誰に挨拶をするでもなく、時雨さんが運転する車で出立した。いつの間にか、見慣れた光景となっていたのだろうなと、京都の道を走りながら感じる。大半は屋敷にいた俺だけど、何となく思い出深かった。

 コレで全部終わるのか――。

 苦笑が漏れそうだったから双眸を伏せると、代わりに涙が滲みそうになった。
 もう俺は、ここにはイラナイ人間なのに。
 用済みだという事だ。

 たまたま代わりがいなかった、傀儡の人形。それが俺なのだろう。
 きっと本心では、誰も俺のことなど求めてはいなかった。

 優しい言葉をかけてくれることもあったが、それが真意だったのか、本心だったのかだなんて、火を見るよりも明らかだ。

 ――淫乱。
 幾人にも告げられたあの言葉だけは、本音だったのかも知れないな。



「それでは、榊様」

 アパートの前に駐車して、時雨さんが深々と腰を折った。

「有難うございました」
「いえ、仕事ですので」
「それでもです。これまで、お世話になりました」

 そう告げて会釈を返すと、息を飲まれた。

「あなた様は、そんな事をしなくて良いのです。今後一生涯、貴方は、”安倍榊”様なのですから。あなたが頭を垂れるのは、晴明様ただお一人で良いのです」
「一生?」

 俺の事なんて、もうイラナイのだろうと思ったら、嘲笑が浮かぶのが止められなかった。

「だったら、さ。俺の命令聞いてよ」
「なんなりと」

 無理を言って断らせようとしたのに、淀みなく流暢に時雨さんが答えた。

「……え、あ」
「榊様の仰せであれば、何なりと」
「じゃあ――さ。急で悪いんだけど、俺の大学の友達の、ナナキ……七木亮の事を、喚びだしてもらえるかな? 場所はいつもの居酒屋、って言って」
「承知しました」

 頷いた時雨さんが、携帯電話を弄り始めた。
 俺はぼんやりとそれを見ていた。


「――というわけでな、俺には執事(?)が出来たんだ」


 午後五時半。

 居酒屋が開店するなり入店した俺は、久方ぶりに会うナナキにそう告げた。

「へぇ……ああ、何て言うの? 言葉が見つからない」

 俺の言葉に、俺の隣席に座っている時雨さんを、ナナキが見た。
 京都での大概のことを、性的なことも含めて俺は語った。
 ナナキは、俺の性的嗜好に何て興味を持たないタイプだ。だから、話しやすかった。

「けどそれ、多分僕とお前も親戚だって事だ」
「え?」
「京都の安倍九尾の七木だろ? それって。横にいるのは……茶丘の時雨さんか」

 呟きながら、ナナキが俺と時雨さんを交互に見る。

「ええ。亮様のお目にかかるのは、お久しぶりです」

 ポツリと時雨さんが言う。
 知り合いだったのかと驚いていると、難しい表情で、ナナキが腕を組んだ。

「なんか大変そうだなぁ。まぁ、僕で良ければ話は聞ける」

 その声に安堵しつつ頷いてから、俺はナナキの隣に座り黙々と麦酒を飲んでいる青年を見た。

「所でこちらは?」

 まだに挨拶を交わすわけでもなく、言葉も発していない人物だ。
 黒いスーツの上に、緑色の外套を着ている。

「ああ、嵯峨さん」
「嵯峨さん?」
「刑事さん」
「なんだそれ。まさか、俺の拉致事件の調査?」
「いや。何て言うか、どっちかと言えば、僕の送り狼」

 いつもと同じ笑顔で告げたナナキの横で、嵯峨さんが麦酒を吹き出した。
 慌てた様子で、ナナキが白いおしぼりを手渡している。

「――”夜月時計の世界”の”贄黒羊”ですか」

 するとまさかの事態で、時雨さんからそんな言葉が返ってきた。
 ヨルツキドケイのセカイのクロヒツジ?
 なんだそれはと眼を細めた。

「”狐”の縁者か。ま、どうでもいいけどな」

 口元を拭き、嵯峨さんが言った。



 まぁ、このようにして、俺は、俺の日常へと帰還した。
 別の世界があるだとか、何のために俺は晴明様の器となり、安倍九尾家の人間と体を重ねたのか、だんて言うのは、今でも分からないけれど。


 それでも、それは確かに一つの終わりだった。