<1>襲名放棄



 少人数の講義は怠い。

 それが率直な俺の感想だった。なにせ、いつ指されるか分からないから、寝ているわけにも行かない。普段着ている紺色のウィンドブレーカーの裾を弄りながら、溜息をついた。

 扉が不意に開け放たれたのは、その時のことだった。

 何事だろうかとそちらを見れば、先生もまた驚いたように扉を見ている。
 つかつかと革靴の音を立てて入ってきた青年は、高級そうな黒いスーツを纏い、同色のネクタイを几帳面に締めている。少しだけつり上がった目は切れ長で、何故なのか真っ直ぐに俺を見ていた。

「アベマツリ様ですね?」

 俺の隣までやってきた青年が、そう告げた。

 確かに――阿部祀理あべまつりは俺の名前だ。
 周囲の視線がこちらへと向く。『様』……『様』って……。
 否定も肯定もせずに、二十代後半だろう青年を見上げる。
 明らかに大学生である俺よりも年上なのに、青年と呼ぶのもおかしいかも知れないけどな。

「はい……同姓同名の人がいなければ」

 少なくとも、この少人数の講義の中には、いない。
 すると俺の答えに満足したのか静かに頷き――急に彼は膝を床についた。

 え、何事?
 困惑するしか無くて、焦りながら唾液を嚥下する。

安倍榊あべのさかき様がお亡くなりになりました」

 その言葉に、思わず腕を組む。それは確か、父方の親戚の名前だ。
 二度ほどしか会ったことはないが、優しいお婆ちゃんだったと思う。
 七歳の頃二度目に会った時は、若草色の和服を着ていたんだっけ。

「本日夜、遺言状が正式に公表されます。これは内々の話ですが、貴方に――安倍榊の名を継いで欲しいとの事……それが先の榊様の最後のお言葉でした」
「え……」

 亡くなったのか、あのお婆ちゃん。とはいえ、幼い頃に二回会っただけだし、正直実感が無くて、哀しいとも思わない。そりゃ人なみに、誰かが亡くなったと聞けば、悔やむ気持ちくらいはあるけど。

「貴方は八坂家の正式な御当主。遺言など無くとも、葬儀にはぜひお越し頂きたく、参りました」
「いや、俺相続放棄してますし……それに今、講義の最中なんですが……」

 俺が引きつった笑顔を浮かべると、青年が真剣な顔で俺を見た。

「一刻を争うのです」
「そう言われましても……」

 急に言われても困ると思い、先生をチラリと見た。

「身内に不幸があったのであれば、仕方がないでしょう。退席しなさい」

 嘆息した老先生の姿に、俺は脱力するしかなかった。



 そのまま俺は、京都まで(車で)連行された。新幹線の方が絶対に早いと思う。道すがら青年――茶丘時雨(さおかしぐれ) さんが、説明してくれた。

 なんでも、俺の母方の阿部家は、江戸時代に土御門家から分家した、由緒正しい安倍晴明の血を引く家柄とのことだった。確かに母方は、神道を尊んではいた。変な意味合いや新興宗教ではなく、禊ぎをしたり神棚に酒を捧げたりと言った、ごく自然に根付いたものである。

 そして父方の祖母の実家は、八坂家という。祖母が嫁入りしたため、一度は途絶えた家柄だ。一度八坂の家からは、相続しないかという話が来た。だが俺はそれを弟の、舞理(まいり) に譲って以後、東京の大学で悠々自適に暮らしている。

 だが、時雨さんが言うには、どちらも長子相続の家系だから、俺が正式な後継者らしい。それは財産分与などの意味合いではなく、血脈を保つためなのだとか。そんな事を言われても……それが正直な感想だった。

 なお俺が到着すると、既に葬儀は終わっていた。

 俺はここに来る意味があったのだろうか?
 それから弁護士の、土岐隆史さんのもと、畳の座敷に通された俺達(親戚らしい)は、遺言状の公開に立ち会う事となった。

 その場にいたのは、俺を含めた、安倍九尾と呼ばれているらしい、
 九人(俺の弟も含まれていた)と、安倍柊さん、安倍桜さんと、弁護士さん、そして時雨さんだった。弟以外は、誰が誰なのか俺には分からなかった。

「ここに遺言状を公開いたします」

 弁護士さんの宣言で、俺は周囲を見回していた視線を戻した。
 瞬間的に、皆が険しい顔をし、冷たい気配がその場に漂った気がする。

「次期安倍榊様は、阿部祀理様にとの事です」

 弁護士さんの言葉に、息を飲む人が多かった。
 そして俺も目を瞠った。
 概要は時雨さんから聞いてはいたが、何故二回しか会った事のない俺が――?

 そもそも、安倍榊って一体なんだろう。

「認められない」

 誰かが険しい声で言う。

「同感だ」

 俺は皆に睥睨されているようだった。寧ろ俺も訳が分からないので、
 自分を睨んでやりたい。普通に大学にいただけのはずなのに、どうしてこんな事になっているのだろう?

「決定は決定です」

 その時、淡々と安倍柊さんが口にした。

「安倍三役……今は二役ですが、こちらには異議はない」

 今度は桜さんの声がした。
 二人とも和服姿だ。

 そんな二人の言葉に、皆が黙り込んだのが分かった。

「あ、あの……」

 しかし混乱もあって、俺は黙り込むわけにはいかなかった。

「待って下さい。何がどうなっているのかは分かりませんが、俺には無理です。辞退させて下さい」

 俺の言葉に、当然だという顔で、きつね色の髪をしたやはり和服姿の青年が頷いた。

「当然だ。弁えていて良かった。一宮は、榊様に貴様を認める気はない」
「はぁ」
「金が欲しいのならばくれてやる。さっさと去れ」

 一宮さんが吐き捨てるように言った。確かに俺は貧乏学生ではあるが――それよりも、彼の言葉に嬉しくなった。

「もう帰って良いって事ですよね? 良かった」

 心底安堵したら、思わず笑顔が浮かんできた。

「じゃ、俺帰ります」
「な」

 すると一宮さんが驚いたように俺を見た。え、なに、まだ帰っちゃ駄目だった?
 正面から瞳が合いきつね色の目を見ていたら、不意に顔を背けられた。

「――ああ、帰れ」
「では、失礼します」

 俺はそんなに敬語が得意ではないが、とりあえずそう返して立ち上がった。
 ずっと正座をしていたせいか、若干足が痺れている。

「……大変残念です」

 部屋を出た俺を、黒塗りの車に乗せてくれた後、時雨さんが溜息を漏らした。
 強いて言うならば、久方ぶりに会った弟と少し話がしたかった。

 そんなこんなで、時折雑談をしながら、俺は東京へと戻った。

 時雨さんはその間、ずっと俺に低姿勢だったので、ちょっとだけ居心地が悪かったようにも思う。それから東京へと戻るなり、時雨さんにはお礼を言い、自宅で俺は熟睡した。


 そして、不思議な夢を見た。
 そこには、九尾の狐を連れた、青い和服姿の青年が一人立っていたのだ。
 一度だけ気になって調べたのだが、狩衣という名前らしい服を着ていて、頭には烏帽子があるようだ。

 ただ起きると曖昧になってしまうのだけれど。

 それでも俺は、彼に見覚えがある。
 この夢は、幼い頃から、繰り返し見るのだ。

 大抵は、赤紫に染まった月が見おろす場所に、青年が立っている。

 その手には、お札のようなものがあり、彼がそれを投げると、平安時代に建っていそうな建造物の前に沢山いる魑魅魍魎が消えていくのだ。

 消えながら、それらは耳を劈くような声を上げる。何度耳を覆ったかなど分からない。

 和風な平安風の場所だというのに、そこに現れる魑魅魍魎(?)は、どれも赤紫色の巨体と白い歯を持っている。他には巨大な蜘蛛や、蟻が出る場合もある。それらはどちらかと言えば洋風だ。何なのだろうアレは。時折夢に現れるそれらを、俺は今日もマジマジと見ていた。その時、緑色の体液に濡れた青年が、不意にこちらへと振り返った。

「私たちは、あれらを≪鬼≫と呼んでいるんだよ」

 一体誰と話しているんだろうと思い、周囲を見回す。
 空には、三日月の他、赤紫の満月がある。

「君だよ――榊」
「え」

 俺と視線を合わせ、青年が微笑した。
 これまでには話しかけられたことなど無かった。そして”榊”というのは、つい先ほど俺が襲名を断ってきた名だ。昼間の出来事が、無意識に出てきたのだろうか。

「榊の世界では、アレを――そしてこの”世界”を何て呼ぶのかな……どうやら≪異形≫と呼ぶようだ」
「≪異形≫――?」
「ねぇ、榊。襲名というのは、ただ財産や名称を引き継ぐことではないんだよ」
「はぁ……?」
「この陰陽寮の時代から悠久に渡り対峙し退治する、人ならざるモノの駆除。それが私たちに与えられた使命なんだ」

 そう言って笑うと、青年は、すり寄ってきた白い狐の頭を撫でた。

「≪鬼≫……いいや、≪異形≫を倒すためには、私達もその身に≪異形≫を宿さなければならない」

 青年はそう告げると、不意に、胸元の着物開いた。
 そこにはグロテスクな眼球が鎮座していた。
 そして何故なのか、俺の左手首にもソレがあった。

「≪異形≫が動く時間、そして私たちが飲み込まれるこの時刻は、赤紫色の月が昇る時。覚えて置いて――対抗するために」

 それだけ紡ぐと薄い唇を持ち上げて、青年の姿が消えた。
 嗚呼――夢だ、一人残された暗闇でそんな事を考えた俺は、近くで響くアラーム音で目をさましたのだった。

「朝か……大学行かないとな」

 今日の講義は何だっけなぁ、何て思い出しながら、俺は洗面台へと向かったのだった。