日新館回顧録――昌平坂学問所――


 これは――羽染と有馬が、まだ付き合う前、互いの存在を意識し合うようになっていた頃の記憶だ。羽染が大尉になってすぐの、まだ冬の吐息を感じることが出来る季節の思い出で、羽染が朝倉の副官に内定した頃の話である。

 有馬は羽染のことをよく知っていたが、羽染はまだそれほど有馬のことを知らなかった。

 江戸という名が廃れて猶、帝都東京には、江戸時代より連綿と続く昌平坂学問所があった。元々は官学である。その頃のご時世では、義務教育としての小学校があり、中学もまた、一般校と士官学校付属に分かれるとはいえ、義務とされていた。しかし大抵の藩では、藩校が復活していて、武士の家系の士族を中心として土曜日に、道徳や朱子学、武芸などを教える藩学校が存在していた。

 会津であれば、日新館である。幕末に倣い、関東へと進んだ者は、地元で勉学を終えても、昌平坂学問所へと遊学し、自己研鑽する事が多かった。流石に高校に当たる士官学校まで出れば、遊学というよりかは、己の藩から学びに来ている、帝都在住の政治家や武家の子息、各藩からの留学生などを相手に、講師役をする場合の方が、圧倒的に多かった。

 ――寧ろ、第二天空鎮守府に所属する仕官となれば、ほぼ義務的に、持ち回りで講師をする役を引き受けることになるのだったりもした。勿論、先達に教えを請う時間も新人には多かったわけだが、その日は、これから来る春からの時期の講義について話し合うため、4人の人間が召集されたのである。各藩持ち回りの、新人から一歩だけ抜き出た者達の、当番のようなものだった。

「胃が痛い……」

 佐賀藩出身の、楠木為助(くすのきためすけ) は、深々と溜息をついた。

 階級は、士官学校を卒業して得た、中尉である。
 勉強自体は好きな楠木だったが、今日顔を合わせるメンバーを考えると、キリキリと胃が痛んだ。なにせ、(先輩軍人に内密で教えてもらった限りだと)全国統一試験一位の羽染と、二位の有馬、それから金髪碧眼と言うことで何かと目立っている久阪と四人で、講師役としての話し合いをすることになっていたからである。その上羽染と有馬は、剣道新人戦でも二位と一位だったし、階級も大尉になっている。

 ――俺なんて、良くて平均点しか取れなかったのに、なんて言う場違い感だろう……。

「何々、具合悪いの?」
「!」

 その時急に肩を叩かれ、楠木は飛び上がりそうになった。
 反射的に振り返ると、そこには久阪が立っていた。

「あ、いきなり失礼いたしました! 楠木中尉殿! 私は久阪歩陸曹であります」

 ビシッと敬礼し、久阪が表情を改めた。

「いやあの……大丈夫です」

 敬礼を返しながら、楠木が言う。

「じゃあ、中はいりますか?」

 フレンドリーな久阪を見て、少しだけ楠木は安堵した。久阪は外見以外は、普通に明るくて話しやすい相手だ。それでもあまり帝都でも、異国情緒溢れる風貌の人が歩いているわけでもないから、久阪の外見を見ただけで、少なからず楠木は緊張してしまう。

「俺、トイレ行ってたから、先に羽染行ってるんですよね。此処までは一緒に来たんだけど」

 大尉である羽染を何でもないように呼び捨てにしている久阪に対し、楠木はまた胃が痛んだ気がした。楠木は、相手に呼び捨てにされる分には構わないが、徹底的に階級が上の者には礼を尽くすという考えの持ち主だった。佐賀藩がそう言う風潮と言うよりは、楠木自身の性格の問題である。

 その上、羽染大尉が先に来ていると聞いて、一時間も早くやってきたのにどういう事だろうかと焦った。通常、階級が下の者から先に来て、茶などの準備をしておくことが礼儀だろうに。

 久阪は、一切それに気を配った様子も無しに、ガラガラと障子を開けた。

「羽染、楠木中尉が来たぞ」

 その言葉に、何かを読んでいたらしい羽染が顔を上げた。
 ipadに入っているらしく、何を読んでいたのかまでは分からない。
 それからすぐに羽染が立ち上がった。
 反射的に、楠木が敬礼する。

「お初にお目にかかります、楠木中尉であります」
「羽染大尉です」

 敬礼を返した羽染を見て、楠木が安堵した。
 ――やはりこれが普通だ。

「珈琲で良いですか? ミルクと砂糖は?」
「え、いや、大尉殿、私が――」
「いえ、来られたばかりなのですし、ごゆるりと」

 羽染がそう言って、側にあったコーヒーサーバーへと手を伸ばした。

「ほらほら楠木中尉殿、羽染に任せて座って下さい!」

 その上、久阪に肩を両手で押され、強制的に楠木は座らされた。

 ――なんだろうこれは、東北軍閥に引き込む策略か?
 内心、戦々恐々としながら、楠木が震える手をカップに伸ばした。
 無性に喉が渇いていた。

「いただきます」

 羽染が差し出した砂糖とクリームは片手で遠慮し、楠木がカップを傾けた。
 有馬が入ってきたのは、丁度その時だった。

「邪魔するぞ」
「ぶ」

 飲みかけていた珈琲を楠木が拭いた。

「うわ、ちょ、大丈夫すか?」

 久阪が慌てたように、布を渡す。
 畳に飛び散ったコーヒーは、久阪が拭いてくれた。

「あ、有馬大尉、大変失礼いたしました。私は――」
「知ってる、楠木中尉だろう? かたっくるしいのは無し無し。俺は有馬、大尉だ。けどな、先生役やるって言うのに上も下もない。気を遣ってくれなくて良いからな」

 有馬はそう言うと、羽染が差し出したコーヒーカップをごく自然な仕草で受け取った。

「は、はい……有難いお言葉です」
「固い、固すぎるよ楠木中尉!」

 久阪がそう言って苦笑する。

「何だ、全員揃っていたのか」

 そこに声がかかった。
 振り向いた一同が、頭を垂れる。
 立っていたのは、次の春に退官予定の元帥である、小柳丹後こやなぎたんごだった。
 白い髭を生やした好々爺は、微笑すると手を軽く振った。

「無礼講、無礼講。よくいらっしゃった。若き志士が勉学熱心だと、この爺も嬉しくなる」

 小柳元帥はそう言うと、静かに座った。

「それにしても、今宵は奇遇な巡り合わせじゃ。お主らは、幕末の昌平坂学問所の記録を知っておるか?」

 その言葉に、コーヒーを渡しながら羽染が首を傾げた。
 有馬が率直にその疑問を口にする。

「記録って何ですか?」
「うむ。藩校終了後に、江戸へ遊学した人数の記録があってのう。佐賀藩が一位、二位が薩摩藩と仙台藩、そして三位が会津藩じゃ。藩校の開設時期と、藩の規模的に、会津が東西の双璧の東を担ったことも記録されておる――丁度主らの出身藩と同じだな」

 そんな記録があったのかと、一同は驚いた。

「所でわしから一つ提案がある。今宵は、皆で親睦を深めたい。勿論今後の打ち合わせもするがな――さて、”ニモン”とは、どういう意味だと思う?」

 元帥からの問いかけに、有馬が手を挙げた。

「縫い物」
「私もそう思います」

 楠木が追従する。

「え、煮物じゃないんですか?」

 久阪が首を傾げると、羽染も頷いた。

「私も煮物だと思いました」

 それを聴くと、好々爺が喉で笑う。

「勿論どちらも正解じゃ。さて、薩摩の方言は、第二次世界大戦時には暗号に使われるほどであったことを知っているかな――……」

 このようにして、その日の話は進んでいった。
 小柳元帥の話が終わる頃には、すっかり皆がリラックスしていた。



 帰り道、四人は共に歩いていた。

「腹減ったな、ラーメンでも食べに行くか?」

 有馬のその声に、他の三人は視線を向けた。

「豚骨だな」

 後頭部で手を組んだ有馬を見据え、羽染は喜多方ラーメンのことを思い出していた。

「俺は醤油が良い」

 すると久阪が、思案するように宙を見据える。

「俺は塩。楠木中尉は?」
「え……みそ?」
「よし、中間を取って、つけ麺を食べに行こう」

 有馬の提案に、そう言うこととなった。
 そんな、一日だった。