男子厨房に入らず?


「腹が減った」

 ネクタイを緩めながら有馬が言うと、羽染が読んでいた本を閉じた。
 二人が居るのは有馬の部屋だ。
 午後から非番になる有馬の帰りを、羽染が待っていたのである。

「それもそうだな」

 時計を見れば、午後二時。
 昼食時はとっくに過ぎていた。

「何か食べるか?」

 立ち上がった羽染が、冷蔵庫の方へと向かう。
 その正面で、麦茶の浸る硝子瓶を手にしていた有馬が、首だけで振り返った。
 有馬がコップを傾けるのを一瞥してから、羽染が冷蔵庫の中をのぞき込む。
 ――見事に、麦酒の缶しかない。

「……」

 まぁそんなものかと、羽染は思う。寮暮らしなのだし、有馬が今日のような休暇日は圧倒的に外出することが多いのだと、羽染も知っていた。

 最近では、羽染と過ごすことが多いが、それでも時折、有馬は誘われて出かけていく。そんな日は、羽染も久阪と食事に出かけたり、他にも朝倉と山縣が飲んでいるところに誘われたりもする(まるで羽染がその日は一人だと知っているかのようなタイミングでだが、そこまで羽染は気にしていなかった)。

「――何か、食材はないのか?」

 何とはなしに羽染は聞いてみた。

 単純に、酒ばかりというのが不健康に思えて、せめてつまみの一つや二つあれば良いと思ったからだ。

「そう言えばこの前、山縣さんからトマトの缶詰を貰ったな」

 思い出すように呟いた有馬が、麦茶を冷蔵庫にしまいながら羽染を見た。

「朝倉さんから土産に貰ったパスタもあった気がする」
「そうか」
「――……言っておくけどな、羽染。俺の冷蔵庫に酒しか入っていない事には、ちゃんと理由が二つあるんだぞ」

 近年では、料理が出来る男の魅力が高まっていると、有馬は聞いたことがあった。
 だから羽染の前で、何となく有馬は言い訳じみたことを口にする。
 とはいえそれは、決して言い訳ではなく、事実でもあった。

「一つ、単純に俺が、朝倉さんをリスペクトしているからだ」

 有馬のそんな言葉に、羽染が顔を上げる。
 冷蔵庫の扉が閉まった。

「朝倉さんの家の冷蔵庫は、基本酒しか入っていない。まぁワインが多いけどな。麦酒づくしなのは、山縣さんの家の冷蔵庫だけど、山縣さんの家のは、あれで俺が知らない洒落た奴が色々入ってるし。キャビアとか」
「確かに朝倉大佐の冷蔵庫は頭痛がするな」
「って、おい、見たことあるのかよ?」
「何度か、な。酒宴後に送っていって、飲み物、と言われたから冷蔵庫を空けて絶句した」

 羽染はその時のことを思い出しながら、目を細めて引きつった笑みを浮かべる。

「ああ、なるほどなぁ」
「だけど別にそこを尊敬する必要ないんじゃ……」
「形から入ったんだよ、未だ酒が飲めなかった頃に。酒って、本当慣れもあるよな。これが二つ目の理由だ。やってたら、飲めるようになって、今じゃ大好きだ」

 照れるようにそう言って顔を背けた有馬が、何となく可愛く見えて、
 羽染が苦笑する。有馬のこういう正直なところが、羽染は好きなのだ。

「羽染の所は、久阪陸曹と共同だよな?」
「ああ。久阪が基本的に昼は弁当を持参しているから、色々入ってるぞ」
「へぇ、珍しいな」
「偏食らしい。ただ尋常じゃなく、料理が下手なんだ」
「……それは、なにか? 作ってもらったことがあるとか、そう言う?」
「たまにな。青いケーキが出てきた時、文化の差かと思ったが、味までキていて、ちょっと退いた」

 手作り料理を食べたり食べさせられたり――……という関係を羨ましく思った有馬だったが、思い出すように唇を手で覆った羽染を見ていたら、全くそんな気は無くなった。

「オリープオイルはあるか?」

 気を取り直したように羽染が言う。

「おぅ。塩と胡椒とスイートチリソースもあるぞ……って、なんでもない」
「?」

 実はひっそりと、デキる男を目指している有馬は、パスタ料理を練習中だったりする(だから山縣や朝倉が、気を回して土産と称して材料をくれるのだ)。

 しかしながら薩摩隼人は基本的に、男子厨房に入らずをよしとしているため、恋人の前ではそんなことを、口が裂けても言いたくない。そんな反面、羽染に披露してやりたい気持ちもあって、心中は複雑だ。

 有馬の苦悩など全く気づかず、羽染は首を傾げながら腕を組む。

「パスタでも作るか?」

 他に選択肢はない。
 羽染がそう言うと、有馬は静かに頷いた。

「たまには良いよな。でもお前、料理できるのか?」

 有馬の言葉に、袖をまくり袂から止めておく用の紐を取り出した羽染が、和装を縛る。
 白い布で着物が落ちてこないようにしながら、側にあった両手鍋を手に取り、蛇口から水を入れた。それを火にかけながら、顔を上げる。

「少しはな。得意じゃない――有馬、塩は?」
「ほれ」

 羽染の隣に立ちながら、有馬が塩の瓶を差し出す。
 水がお湯へと変わり沸騰するのを待ちながら、有馬は戸棚から材料を取り出した。
 二人、隣に立って鍋を眺める。
 何となくそれが気恥ずかしくて、居心地が悪くて、有馬はすぐに、カウンター越しにあるダイニングテーブルの椅子へと移動した。

「会津じゃ、男子厨房に入らずとは言わないのか?」
「ああ、言うな。今では蕎麦を打つような力仕事は男子もやるけど、それでも名人は女性の方が多い」
「その割に結構手慣れてるよな、羽染」
「……別に」

 羽染は鍋の中を見たまま、静かに目を伏せた。

 元々体の弱かった母と、外国に仕事で出かけるか国内においても前君主の側にいることが多い父との間に生まれ、両方の家系の祖父母は既に亡くなっていたから、幼少時より、少しでも助けになればと炊事洗濯の手伝いをして過ごしてきたのである。両親が没してからは、病弱な妹と二人暮らしだったから、必然的に羽染は料理を覚えた。ただそれだけだった。そんな話しをしても、有馬にとってはつまらないだろうと思う。

「俺の家なんて、男の子なんだからキッチンに入るな! って母さんが煩くてなぁ。だけど父さんは、このご時世、炒飯の一つや二つ! って言って、下手くそな料理作って、母さんにボコられてた」
「楽しそうだな」
「今度羽染のことを紹介したいから、一緒に来てくれないか?」
「っ」

 不意な言葉に思わず照れて、羽染は塩を思ったよりも多く鍋に入れてしまった。

「ちょ、入れすぎじゃないか?」
「悪い……ああ、と、その……機会があったらな……」
「所で羽染、茹でる前にソースを作っておいた方が良いんじゃないか?」

 有馬がそう言うと、羽染が顔を上げた。
 どちらかというと羽染は、茹でている間に手早くソースを作る方だった。
 そして有馬は、美味しいパスタソース作りに、日夜励んでいるため、ソースを作ってから茹でる方だったりする。

「ニンニクもあるから、オリーブオイルと赤唐辛子で――」
「詳しいな有馬」
「え、いや……」
「作ってくれないか? 良かったら、一緒に」

 羽染がそう言って、はにかむように笑った。

「う、あ」

 その表情に、有馬は照れた。
 二人で料理――……照れるなと言う方が無理だった。

「嫌なら別に……」

 男ながらに料理をすると言うことで、羽染はそれなりにからかわれた経験もある。
 だから慌ててそう付け足したのだが、その時には既に、有馬が隣に立っていた。
 棚にかけてあったフライパンを手に取り、有馬がIHの上に置く。

 少しだけ息を飲んでから、静かに再び笑って頷いて、羽染が火を強めた。
 それを見計らうように、片手でオリーブオイルの瓶を空け、有馬が注ぐ。
 羽染は少し脇に逸れて、パスタの袋を手に取った。

「まだ茹でない方が良いか?」
「いや、二人いるんだし、それ程時間がかかるソースでもない。大丈夫だろ」
「どのくらい食べる?」
「普通」
「それじゃ分からない――このくらいか?」

 羽染が手に輪を作りパスタを取ったので、有馬が少し思案する。

「もう少し。今のと、今の量の三分の一くらい」
「分かった」

 二人分、片手でギリギリ掴めるくらいの量を羽染が手に取り、湯に入れる。パラパラと弧を描くように、パスタが散らばった。トングでそれを湯に沈めていく。

 その間に有馬は、まな板の上で、ニンニクを切った。
 手早くみじん切りにしてから、十分熱した油の中にそれを入れる。
 良い香りが周囲に漂った。
 それから有馬がトマトソースを作り、羽染はパスタを見ていた。

 そんな時間が、幸せだった。



「だけど、有馬が料理をするとは思わなかった。それに美味しいな」

 二人で食卓につき、フォークを手に取り、それぞれが食べた時。羽染がそう言ったので、有馬は赤面しそうになった。

「別に、これくらい普通だろ」
「そうなのか。会津じゃ、そうはいかない」
「いや薩摩でも長州でも、基本男は料理しないんだぞ」
「やっぱりそうなのか。九州男児と言えば、今でも、それこそ男子厨房に入らずのイメージがあるしな。会津でもそれは変わらない」
「けどな、好きな奴のためには、料理だってするんだよ」

 有馬はそう告げて、多く巻き取ったパスタを、口へと頬張る。

「っ」

 不意打ちな有馬の言葉に、フォークを口へと運ぼうとした体勢のまま、羽染が硬直した。
 その頬は朱い。

「ま、基本的には俺も、好きな奴に作ってもらいたい派だけどな」
「……そ、そうか」
「俺、言っとくけど、パスタしか作れねぇんだよ。だから、他は任せた。俺は基本的に、和食が好きだし」
「あ、ああ……」

 狼狽えた羽染は、思わず食べる時に、唇の端をソースで汚してしまった。

「ん、ついたぞ」

 それを有馬が手でぬぐい、その指先を、ぺろりとなめた。

「!」

 なんて恥ずかしいことをするのだろうかと、真っ赤になったまま羽染は声を失う。

「どうかしたのか?」

 有馬が何でもないことのように首を傾げたため、目を伏せ羽染は顔を背けた。

「いや――そうだな、今度は和食を作ろうか」
「おぅ。計画して、食材調達から始めるか」

 その様にして、二人の休日は、過ぎていったのだった。



 ――それは二人が過ごした穏やかな恋人同士だった時の、一つの記憶だった。