25:果たせなかった約束



 羽染は、朝倉の暗殺を決意した。
 決行は、今日だ。

 今日の朝倉の日程では、正午手前の昼休み直前に、人気のない地下一階の体育館を視察する事になっている。明後日、師団の演習で使用するからだ。

 その時――つまり今、人気のない体育館で、羽染と朝倉は二人きりだ。

「明日丸一日あるから、掃除をすれば大丈夫そうだね」

 朝倉が、運動器具の上に積もったほこりを指でなぞりながら、言う。

「手配しておきます」

 淡々と務めていつも通りを装いながら応えた羽染は、刀の柄に手をかけた。
 ――チャンスは今、一瞬だ。
 抜刀に気づかれる前に、斬りかかる。

 唾液を嚥下しながら、羽染はコマ送りのように進む視界を、しっかりと見据えた。
 実際の身長よりも、ずっと大きく見える朝倉の背中。

 ――本当は、何処までも着いていきたかった相手だ。

 心底羽染は、朝倉を敬愛していた。有馬が朝倉に対して表現するような形とは異なるけれど、それでも確かに。

「羽染、それと――」

 朝倉が振り返った瞬間、鞘から抜くままに、羽染は刀で斬り付けた。
 天へと伸びる刃。
 それを今度は、右上から左下へと振り抜く。

 肉を切り裂いたような、嫌な感触がした。

 目を見開いている朝倉の体から、血が飛び散る。
 頽れようとする朝倉の体を左腕で引き寄せ、右手で刀の切っ先を、胸へと突きつける。
 後は刺して――絶命させるだけだった。それだけだった。



「よ、有馬」

 山縣に声をかけられ、書類を運んでいる最中だった有馬が顔を上げる。

「あれ、珍しいですね。こんな時間に会うなんて」

 いつもは昼からしか姿を見ない山縣の顔に、有馬が首を捻る。

「何かあるんですか?」
「ちょっとお前に話がある」
「はぁ」
「お前さ、羽染が朝倉の暗殺を命令されてるって、知ってたか?」
「は?」

 何でもないことであるように、いつも通りの口調で響いた山縣の声。
 それに対し、あからさまに有馬が声を上げた。

「恐らく決行は今日だ。さっき、朝倉と羽染、二人で人気のないB1の体育館へと向かったぞ」

 有馬の手から、バサバサと書類が落ちていく。

「なんで……」
「俺に止める権利はない、全ては羽染の選択だ」
「な、山縣さんは、朝倉さんの親友だろ!?」
「だからなんだ?」
「何で止めなかったんだよ。二人で、行かせたのか!?」
「――朝倉暗殺を、会津藩経由で実行させてるのは、俺だからな」
「!」
「親友なんかじゃねぇよ。本当は。いつかお前も言ってたよな? 『朝倉さんには山縣さんがいる』とかなんとか。そうだ、俺はあいつを愛してる。だから、手に入らないくらいなら――……俺の心をただ乱すだけの存在なら、いらねぇんだよ、もう」

 その言葉に、有馬は山縣を突き飛ばして、走り出そうとした。
 だが山縣が、彼の手首を取り、もう一方の手で、拳銃を突きつける。

「何処に行くつもりだ?」
「離せ、俺は、朝倉さんを――」
「行かせるか。久阪ぁ」

 山縣が名を呼ぶ。その時、今度は有馬が後頭部に冷たい感触を覚えた。
 恐る恐る振り返れば、いつの間にかそこには、久阪歩が立っていた。
 ピタリと頭部に銃口をあてがわれ、有馬は何度か瞬く。

「もう少し待って下さい、有馬大尉。すぐに終わります」

 その声を聴いた瞬間、有馬は眼窩が熱くなった気がした。
 ――終わらせるものか。

 それだけが、強い想いとなって、意識に上る。

 昨日泣いていた羽染の顔を、有馬は思い出していた。なんとしてでも、愛しい相手を救わなければならない。道を踏み外させてはならない。ギリギリときつく有馬が、奥歯を噛みしめる。

 有馬は気づくと、山縣に押さえられていた手首を動かし、逆にその手を掴み、投げ飛ばしていた。しかし、反動を上手く利用し、山縣は床へと着地する。

 その瞬間、久阪が銃を撃った。
 間一髪首を捻って交わした有馬は、頬から血が滴ることには構わず、久阪の腹部に膝を叩き込む。地に倒れた久阪の影から、山縣が足蹴をしかけた。それを両手を交差させ受け止めてから、有馬は抜刀する。振り下ろしたその刀と、山縣が構えていた拳銃が交差した。

「本当真っ直ぐなんだな、有馬は」
「羽染はそこが好きだって言ってくれました」
「まだ気づいてないのか? お前は利用されてたんだ」
「羽染は俺を利用したりしない。俺は山縣さんよりも、羽染を信じます」
「後で泣くなよ」
「泣きません。男は泣かない」

 そう言いきり、有馬が強く刀を押すと、山縣が後ろに飛んだ。
 その着地地点を見計らい、有馬が刀を横に薙ぐ。

「っ、これは……結構クるな」
「峰打ちです」
「……優しい奴は、最後には嫌われるぞ」
「兎に角俺は行きます」

 腹部に手を添えている山縣の、首筋に刀の背を叩き込み、沈黙させる。
 山縣が目を伏せたのを一瞥してから、無我夢中で有馬は走り始めた。




 有馬が体育館へと駆けつけた時、羽染は血に濡れた朝倉を片手で抱いていた。

「羽染」

 その光景に、思わず名を呼ぶ。
 有馬の声は、明らかに震えていた。
 緩慢な動作で視線を向けた羽染の白い頬は、返り血で濡れていた。

 ――誰の血だ? そんな事はあきらかっだ。

「朝倉さんを離せ!」

 強い口調で有馬が言うと、羽染が何の感情も浮かべていない目で、抱えている朝倉を眺めた。羽染はゆっくりと、目を伏せ青ざめていく朝倉の体を、床へと下ろす。

 朝倉の体が床に着いた時には、既に有馬は走り出していた。
 刀を抜き、両手で構える。
 片手で刀を持っていた羽染もまた、もう一方の手を静かに添えた。

 真っ直ぐ斬りかかった有馬の刀と、横にして受け止めた羽染の刀が、交わり高い音を立てる。

「なんでだよ、なんでこんな、こんな……ッ!」
「……始めからこれが目的で上京したんだ」

 怒りに燃える瞳で目を細める有馬と、嘲笑を宿した羽染の瞳が正面からかち合う。

「だからって――、楽しくなかったのかよ!? 朝倉さんといて!!」

 ギンと音を立てて、有馬が更に一歩踏み込むと、羽染が横に逸れた。
 姿勢を変え、お互い刀を縦に構えて距離を取る。
 何度か刀を交わし、それぞれが真剣な眼差しへと変わった。
 二人が本気で刀を交わすのは、出会ったあの時――剣道新人戦以来のことだった。

 有馬を突き動かすのは、やるせない怒りだった。朝倉を傷つけた、羽染のことが許せなかった。そして羽染にそんなことを強制した、この世界が何よりも許せない。

 一方の羽染を動かすものは、純粋な歓喜だった。

 最早自分に未来はないのだと、羽染は悟っていた。なのだから、最後に本気で有馬と刀を交わすことが出来る幸運を、喜ばずにはいられないのだ。

「俺のこと好きだっていったのも嘘だったのか!?」
「本気だと思うのか?」
「あたりまえだろうが!!」

 何度も角度を変え、刃を交え、互いに足運びに注意する。

「ふざけんな!!」
「有馬。これは、最初から決まっていたことだ。多分――運命みたいな名前をしているものなんだよ」
「運命は自分で切り開くもんだろ」
「それが出来ない人間もいる」
「そんなの立ち向かわずに逃げてる臆病者の言い訳だ」
「そうかもしれないな」

 羽染はそう言うと、有馬の肩を切り裂いた。

「っ」
「今度こそは、本気を出せる。ずっと有馬と、真剣勝負をしたいと思っていた」
「ああ、俺もなッ、馬鹿野郎、何もこんな時に――」
「手を抜くなよ」

 笑いながら羽染が、刀を前へ傾ける。少しだけ斜めに構えている有馬は、羽染を睨め付けた。どちらもそのまま動かない。

 有馬のこめかみから、汗が伝う。
 それが顎まで届き、首筋へと落ちようとした時、羽染が大きく踏み込んだ。

 ――隙だ。
 有馬はそれよりも一歩早く、斜めに斬り付けた。
 反射的な、本能的な行動だった――だが。


「……手を抜いたの、羽染じゃねぇかよ」


 新人戦の時と同じだった。わざと羽染が作った隙に、有馬は誘われたのだ。
 咄嗟に刀を捨て、駆け寄り羽染の体を抱き留める。
 斜めに切り裂かれた衣服、その中央に走る紅い一筋の線。

 噴水のように飛び出してくる血と、だらだらと服を汚していくどす黒い紅。

「……殺してくれるんだろ? 俺が、道を踏み外したら」
「なっ」
「有馬、ごめん。だけど……俺は、有馬の手にかかって死にたかったんだ、どうしても」
「なんでだよ……っ、自分勝手すぎんだろうが!!」
「不思議と痛みは感じない……だけど、体が寒い」

 冷や汗が浮かんでいる青白い顔で、羽染が無理をするように笑った。
 思わず有馬が抱きしめる。

「いくらでも暖めてやるから」
「俺のことは、忘れ……っ、ぁ……」
「羽染!!」
「……忘れ、ろ……じきにお前には、縁談が……ッ」
「何言ってんだよ!!」
「たまに、でいい……俺の妹の見舞いに……は」

 口から、ゴボっと羽染が血を吐き出した。

「救急車……」
「嗚呼、すぐに呼んでやる、だから、おい、しっかりしろ!! しっかりしろよ!! 頼むから、してくれよ!!」
「違……朝倉、大、佐の……っ」
「羽染!!」
「保科様に……謝って……――」

 そのまま、羽染は意識を失った。
 力が抜けていく愛しい人の体を、ただ呆然と有馬は見据えていたのだった。





 以後、訪れたのは、何も変わらない日常だった。
 ただ、そこに羽染がいないだけの、そんな日々。

「いやぁ、俺本気で有馬に殺されるかと思ったわ」

 山縣があっけらかんとした陽気な調子で、笑った。
 朝倉の執務室の応接席。
 いつか羽染が座っていた場所に腰を下ろし、山縣が肩を竦める。

「大体俺が、朝倉のことを好きだなんて言った時点で、おかしいと思えよ。俺はな、有馬をたきつけてやったんだよ。それが羽染の最後の願いだろうと思ったから」

 山縣のそんな言葉に、執務机の前に座ったまま、朝倉が嘆息した。

「なんで、羽染は俺に止めささなかったんやろうな。確かに斬られたけど、あんな浅い傷――……実際には、気絶させられて、その上、鳥の血まみれにされたわけか」
「まぁその惨状を見れば、勘違いするのは仕方ないよな。羽染が朝倉を殺したんだって」
「羽染も何を考えて、血糊なんか残したんやろ」

 親しい間柄の者ばかりが居るせいか、朝倉は気づけば、素の方言混じりの口調で呟いていた。

「それ程、有馬を本気にさせたかったんか……あの場に有馬が駆けつけるのを、まるで知っていたみたいやけど」

 二日ほど入院した朝倉は、今日から執務に復帰した。
 その見舞いに訪れた山縣と有馬は、珈琲を飲んでいる。
 朝倉の冷ややかな眼差しが自身に向いていることに気がつき、山縣が肩を竦めた。

「知ってたんだよ、羽染は。俺が有馬をたきつけることを」
「どうして?」
「久阪に盗聴器をつけてたんだ。お前にもだ、朝倉。その上俺にもだ。部屋や家じゃない。小物に忍ばせてたんだよ。てっきり神保が動いてたのかと思ったんだが、盗聴器を仕掛けてたのは、羽染だったんだ。当然やろうと思えば、傍受できたって事だ」
「なるほどな」
「羽染は、会津を大切に思っていた。妹が居る、ただ一人の家族がいる故郷が、アイツにとっては本当にふるさとだったんだろうな。だからこそ保科様と会津藩の重鎮達の間で揺れたんだろう。どんなに好ましくないことであっても、羽染は裏切れなかったんだろうな。裏切るくらいなら、命を賭けて償うほどに――そして結局お前にとどめを刺せないと理解していたから、死を選んだんだろう。それも、愛する有馬の手による最後を」

 山縣が語ると、正面に座っていた有馬が俯いた。

「ま、そんなに気にすんなよ有馬。お前は悪くない。お前が救急車を呼んだおかげで、そこの朝倉はぴんぴんしてるんだからな。恋人候補なんて、それこそ、星の数ほど居る。まだ若いんだから」
「……俺は、約束を守れなかった」

 有馬が静かに呟く。
 道を踏み外したら、殺してやると約束したのに、有馬は結局羽染にとどめを刺すことは出来なかった。

 だからただ、後になって、搬送先で死亡したことだけを聞いたのだ。

 有馬のそんな様子に、朝倉と山縣が顔を見合わせた。

「有馬――今、妹の桜が婚約者を探して居るんだ。見合いしてくれないかな」

 話を変えるように朝倉がそう言うと、有馬が首を振った。

「俺には、羽染しかいない」

 断言した有馬に対し、山縣が、苦笑を滲ませ、片目を細めた。

「――……だったら、羽染の妹の見舞いに行ってやれ」
「え?」

 その声に、有馬が顔を上げる。

「亡くなったんじゃ……」
「生きてる。宮家や旧将軍家の齣にされないように、軍の目の届くところに引き取ったんだ。表向きは死んだことにして」

 有馬が立ち上がる。

「行ってきます。教えて下さい」





 有馬が病室の前に立つと、開け放たれている扉の奥に和装の少年の姿が見て取れた。
 保科秋嗣だった。彼の前には、ベッドの上で身を起こしている、ピンク色のパジャマを着た少女の姿が見える。

「そうなんだ、秋ちゃん。じゃあ、お兄ちゃんは元気なのね?」

 その言葉に、有馬の飲み込んだ酸素が、肺に張り付き、胸を痛めつけた。
 どうしようもないやるせなさと罪悪感がこみ上げてくる。

「うん。だから小夜は、何も心配しなくて大丈夫」
「早く会いたいなぁ、いつ帰ってくるの?」
「しばらくは無理かも知れない。でも、いつだって良親さんは、小夜のことを考えてるよ」

 柔和に笑った保科の顔を見て、有馬は動けなくなった。
 そのまま扉の脇にある壁に背を預け、天井を見上げる。
 ――恐らく羽染の妹は、兄の死を知らない。

 いたたまれなくなって、俯きながら、唇を噛む。
 羽染の妹は、どこか兄に似ていた。

「じゃあ、僕はもう行くね」
「うん。秋ちゃん――保科様、か。うん、頑張って。けど、あんまり無理しちゃ駄目だからね」
「……同じ事を、良親さんにも、よく言われたよ」

 そう告げ、手を振ってから、保科が病室から出てきた。
 保科と有馬は、扉が閉まった直後に顔を合わせた。

「有馬大尉、小夜の見舞いですか?」

 すぐに気を取り直したように、小首を傾げ、保科が笑う。何処か悲しげな笑みだった。

「……そのつもりだったんですが、俺にはとても合わせる顔がない」
「そんなこと無いですよ。きっと小夜は喜びます。羽染の親友だって言ったら、きっと。まぁ、恋人って言うのは、伏せておいた方が良いかもしれませんけどね、今はまだ」
「いえ、出直します」
「そうですか。じゃあ、少し一緒に歩きませんか?」

 保科の誘いに、有馬は頷いた。


 揃って病院の外まで出て、庭を暫し散策する。
 手頃なベンチを見つけた時、どちらとも無く腰を下ろした。


「――羽染の最後は、どんな風でした?」

 保科が、意を決したように切り出した。

「保科様に謝って欲しいと、言っていました。お伝えするのが遅くなって……」
「そうですか……謝らなきゃならないのは、僕の方なのにな。本当、良親さんて自分勝手なところありますよね。勝手に満足して納得して、死んじゃうんですもん」

 明るい声で、保科が言った。
 けれど彼が静かに涙をこらえていることに、有馬は気づいていた。



 嗚呼、羽染はもう居ない。
 有馬がそう理解した日のことだった。