17:多重スパイ


 神保皐月は、一度ビジネスホテルへと戻り、クローゼットの扉を開けた。

 荷物を取る仕草で、中の一番左側のハンガーの中に、電車に乗りながら書いたメモを隠した。命を失った時に備えて。

 結城と羽染の行動で、自身の命が狙われているのだという事を、ハッキリと理解したからだ。そして羽染の予測通り、彼はその事を察知していた。

 先日、情報が欲しいという内容で、羽染から連絡があったのは、公衆電話からだった。

 それでも、羽染が神保に連絡を取ったのだと分かっている相手――敵は、第二天空鎮守府の諜報部だろうと理解もしていた。そうでなければ、街の電話の発着信まで監視できない。

 羽染が諜報部の存在に気づいているのか神保は知らなかったが、彼自身は少なくともその存在を疑ったことはなかった。恐らく薩長土肥など関係無しに、日本の暗部に関わる組織だ。大日本帝国もまだまだ捨てた物じゃないな、なんて空元気で考える。

 それから宿を出て、近場のダイニングバーへと神保は向かった。
 この辺で異邦人が一人で入っても不思議ではない店は、ここ一カ所だけだと理解していた。それでもなお足を進めたのは、客全員が敵であり、監視カメラがあっても構わないと思ったからだ。寧ろどうせ死ぬのであれば、何も知らないふりをしたいし、見逃してもらえるのであれば、それはそれで愚行を犯す自分を相手に印象づけたかったのだ。

「お一人ですか?」

 神保が声をかけられたのは、一人でジントニックを飲み始めて、二杯目の途中のことだった。本当は強い酒が好きだったが、飲み過ぎて酔わないように、気をつけたのである。自宅以外では、基本的に、ジントニック以外を飲まないようにしているのだ。

「……え?」

 だがほろ酔い気分であるふりをして、神保は視線を向けた。
 そして声をかけてきた相手を見て、内心舌を巻く。
 そこに立っていたのは、久阪歩だったからだ。

 ――まさかこちらが疑っている相手が出向いてくるとは。

 彼の不在を知れば、羽染が怪しみ疑念を更に募らせる事くらい、向こうも分かっているだろうにと考える。

「見ない顔だなぁ。もしかして初めて?」
「はぁ」
「へぇ、名前なんて言うの? 俺は、久阪。下の名前は歩。歩で良いからな。隣、良い?」
「別に……どうも。俺は神保です。神保”睦月”です。ムツキで良いです」

 兄の名前を出し、神保は腕を組んだ。

「睦月君て言うのか」

 何でもない素振りで、隣に腰を下ろしながら、久阪が笑う。
 作り笑いを、神保皐月もまた浮かべた。
 その表情を見ながら、久阪は内心面倒だなと思っていた。

 ――男である以上、自身が命じられているのは、暗殺だ。
 別に、直接的に殺せと言われたわけではないのだから、女同様体の関係を持って情報源として報告しても、山縣は何も言わないだろうとは推測できた。

 しかし山縣が指令を直接下してきたのだから、相手は各藩お抱えの、この場合会津藩お抱えの諜報員である可能性が高い。そうでなければ、わざわざ偽名など使うだろうか。

「出会った記念に、一杯奢るよ。何飲みたい?」

 久阪の言葉に、神保がメニューを一瞥する。

「俺、あんまり酒のことよく分からなくて……何が美味しいですか?」
「テキーラとか。ストレートが良いね」

 それを聴いて、神保は内心舌打ちした。本来は決して酒に弱いわけではなく、テキーラもそれなりに好きなのだ。だが、仕事中に強い酒を飲まされるというのは、苛立つ。
「ええと、それってこの、テキーラサンライズって奴ですか? ストレートって何ですか?」
「飲んでみれば分かるよ」
「俺、あんまりお酒強くないんですけど、これ弱い?」
「弱い弱い、俺が保証するから!」

 よく言うなと神保は笑みが引きつってしまいそうになった。

「じゃあそれで」

 しかし一度知らんぷりをしてしまった以上、押し通すしかない。

「マスター、テキーラ二つ!」

 久阪の言葉に、小さな容器を、バーテンダーが二つカウンターに置く。
 それを見て、久阪は内心安堵していた。久阪に差し出された容器には水が、神保に渡す分には度数の強いテキーラが入っているのである。

「乾杯イッキしようぜ」

 久阪がそう言うと、信じ切っている表情を浮かべた神保が頷いた。
 勿論フリである。
 神保からしてみれば、イッキなど冗談では無かったが、少量のストレートであるからこそ、舌の上でアルコールを飛ばせることを理解していたのだ。

 二人で静かに硝子を会わせ、互いに飲み込む。

 その時点でもう、腹の探り合いは、始まっていた。

「歩さんは、お仕事何されてるんですか?」
「俺は軍人。睦月くんは?」
「料理人です。なんて、未だ新人なんですけどね」
「へぇ、すごいじゃん。何処で働いてるの?」
「お城です」
「どこの?」
「会津」
「へぇ、じゃあ東北?」
「そうです。歩さんは?」
「あ、敬語じゃなくて良いよ。って俺? 俺が何?」
「まじか。俺敬語苦手で。ええと、所属? なんて言えば良いんだろ、陸・海・空とか?」
「ああ。俺は、陸」
「陸軍て、どんな仕事してるんですか?」
「あんまり言いたくない。酒の席でまで、仕事の話しはちょっとなぁ」
「ごめん。それもそっかぁ」
「睦月くんて、素直だね。俺、好みかも」
「うまいなぁ」

 にこやかに会話をしながら、神保は思案した。
 ――久阪歩が、これまでに近寄った男を消しているのは、ほぼ間違いがない。

 迂闊なことを言えばその場で殺されるだろうし、そうでなくとも消される。それを回避するための方策は何か。情報源として使えると思わせれば、姿を消す程度の猶予はもらえるかも知れない。では、彼にとって有効な情報とは何か?

「そうだ、俺聞きたいことがあって……お仕事の話しに被っちゃったら、流して下さいね」

 小さな声で、神保が言う。

「何?」

 探りに来たのだろうかと身構えながら、久阪が小首を傾げる。

「実は俺には先輩が居るんですけど、その人が……山縣って人の暗殺を依頼されたらしくって。山縣って人知ってます? どんな人ですか?」

 神保の嘘発言を聞き、しかしながら、少なからず久阪は動揺した。
 ――そんな話は、知らない。

「先輩って会津藩の人って事? それなら、例えば羽染大尉とか? え、山縣さんて言ったら、多分……山縣大佐のことだろうけど、あんまりそう言う事言わない方が良いよ。俺仙台の出だから、心配だわ普通に。羽染大尉のことが」
「羽染先輩の事、知ってんの? てか、先輩の事じゃないし。んなわげねぇべした」

 酔ったフリで方言が出た風を装いながら、神保は続ける。

「軍の人じゃねぇんだげんじょ。軍人なのは、山縣って人で……そうか、大佐か。みんじゃでごきあらいしてたら、そんな話、聞こえてなぁ、本当おんつぁげす」
「悪いけど、標準語で頼む」
「あ、すいません」
「いいんだけど」

 みんじゃは、かろうじて久阪にも分かった。みずや、即ち台所のことだ。ゴキアライとオンツァゲスは、久阪にも不明だった。おんつぁだけなら、オジサンであるし、ゲスだけなら下卑という意味だ。

 ちなみに神保が口にしたのは、食器洗いと、馬鹿という意味である。

「その先輩って、どんな人?」
「言えねぇ」
「会津の人が、軍人を暗殺したら、会津全体に迷惑がかかる」
「けんど、先輩が処罰されちまう、話したら」
「悪いようにはしない」
「本当に?」

 神保はそう口にしながら、どうしたものかと思案した。それは一秒にも満たない時間だった。

「山縣って人が、諜報部だって知っとるんは、話聞いてた俺と、話してた二人だけなんだげんちょ、俺、大丈夫かな」
「誰と誰が話してたんだ?」
「んー……偉い人と、今、こっちで商売してる先輩」
「第二天空鎮守府に諜報部は無いし、山縣大佐は総務部だけどなぁ」

 そう口にしながら、久阪は考える。
 ――コイツ酔ったフリをして、デマを吹き込もうとしてないか?だとすれば、公にされていない”諜報部”の存在を知っている段階で、会津の諜報機関の人間であることは、間違いない。事前に久阪が手に入れたプロフィールには、そんな情報は無かったが、何より
も山縣から直接話しが降りてきた時点で、そう考えるのが妥当なのだ。

「そうなの? じゃあ、人違いか。心配して損した、阿部さんのこと」

 続いた朗らかな声に、小さく久阪は息を飲んだ。
 会津出身の阿部という人間で、商売をしている人間を、少なくとも八人は把握していたからだ。会津の人間の中で阿部は、決して珍しい名字ではない。

「山口の海老名さんと協力してるって聞いたけど、デマか」

 更に響いた神保の声に、久阪は思わず目を伏せた。
 実際、山口県に海老名性は、それなりにいる。
 だが――信憑性がありすぎるからこそ、久阪は疑念を抱いた。

「腹を割って話そう。店をかえない?」
「それなら、俺の部屋に来る?」
「行って良いの?」

 笑顔で告げた久阪の首に、その時神保が腕を絡めた。そして久阪にだけ聞こえる声量で囁く。


「どうせ、ホテルにも監視カメラついてんだろ」



 二人で、神保が取っていたビジネスホテルへと移動した。
 途中未開封の日本酒と焼酎の瓶を一つずつコンビニで調達した。

「あーだりぃ。音声もとってるの?」

 神保の言葉に、作り笑いを浮かべたまま、久阪が腕を組む。

「とってねぇよ、つか、怠いのは俺だから。ありえねぇ。何お前」
「久阪だっけ、馬鹿じゃねぇの」
「は?」
「俺は、最初から山縣さんに声かけられて、会津に居るんだよ」
「な」
「その方が羽染先輩のためになるって判断したから、俺は従った。ただな、山縣さんに飼われてるだけで、諜報部の総意に従うわけじゃねぇから、一応命を落とすの覚悟したんだよ。あくまでも利害の一致だ。羽染先輩の力になるってのは、ひいては保科様、会津のためになるって事なんだよ」
「――でもお前、俺が卒アル手に入れたことも、俺や山縣大佐が諜報部だって事も、羽染に漏らしただろ」


「はーい、確定来ました。本当馬鹿。俺が山縣大佐の側の人間だってのが、嘘だ、ボケ」


「っ」
「ふぅん。なるほどね」

 頷いて神保は、二つのグラスを卓上で、ひっくり返す。

「日本酒と焼酎どっちが良い? 音声取られてないんなら、あの位置からじゃ俺達の唇読めっこないんだから、気にすんな」
「……日本酒」
「常温で悪いな。お前ちなみに、熱燗と冷酒どっちが好き?」
「俺は常温が好きだ。神保は?」
「あれぇ、睦月君呼びやめんの?」
「本名は皐月だろ。くだらねぇ」
「はは。俺も常温が好き」

 とくとくと日本酒を注ぎ、神保は微笑んだ。

「で、俺のこと殺すのか?」
「……そうして欲しいか?」
「まさか」

 その言葉を聞きながら、久阪が猪口を持ち上げる。

「乾杯」
「ん」

 自身の猪口を持ち上げながら、神保が頷く。
 それから日本酒の味を楽しみ、久阪が視線を下ろした。

「――おい、神保、お前どこまで知ってんだよ?」
「なにそれ」

 尋ねてから、神保が猪口を煽る。
 すぐに片手で酒を注ぎ足した。

「俺の正体」
「徳川と、第二の諜報部との二重スパイなんだろ」
「……」
「勿論本命は、徳川」

 やっかいなことになったなと思いながら、久阪はそれとなく睡眠薬を包んである紙を片手に握った。いつも、後ろのポケットに忍ばせてあるのだ。

「本命、と言うか、先に雇われたのが徳川ってだけだけどな」

 久阪が認めたのを聞きながら、神保が立ち上がる。

「日本酒足してくる、徳利が空になった」
「――俺も察しが付いたわ、お前の正体」
「何?」

 振り返らずに、簡易な流しの前で、神保が日本酒の瓶を傾ける。
 瓶から直接つげばいいのに、わざわざ徳利と猪口を用意する辺り、変わっているなと久阪は思った。とはいえ、こちらに視線が向いていないのは都合が良い。素早く、薬を相手の猪口に混入させる。

「お前、鷹司家のスパイだろ。会津から寝返ったのか――その上、第二の諜報部と何か取引したんだろう? わざと羽染に漏らしたな」

 戻ってきた神保に向かい、そう言って久阪が手を伸ばした。

「悪いな、やらせて。注がせてくれ」
「良いのに別に。慣れてるし」
「まぁそういうな」

 徳利をそれとなく奪い、薬を入れた方の猪口に、日本酒を入れる。

「有難う。で、だ。仮にそうだとしたら、今俺が此処にいる意味分かるよな?」

 何も気づいた様子はなく、神保が目を伏せ一気に日本酒を煽る。

「俺に三重スパイやれって言ってんのか……うちの諜報部は」
「嫌なら死ねば」
「神保。お前に聞かせたとおり、此処には監視カメラはあっても、盗聴システムは無い」
「さぁて、どうでしょう」
「俺が今此処でお前を殺しても、山縣大佐は、何も言わない」
「だろうな。あの人は、そう言う人だ」
「……」

 口ぶりからして、神保と山縣は面識があるのだろうと、久阪は判断した。
 神保は笑顔で頷きながら、徳利を手に取り、久阪の猪口に酒を足す。

「失敗した方の力量不足だと判断する。だろ?」
「そうだな」
「山縣さんに引き抜きかけられてんだから、乗ればいいのに。俺も直接山縣さんに、こういうの仕掛けられたら、乗るかも」
「――山縣大佐はいつからご存じだったんだ? 俺が徳川の側の人間だって」
「さぁ。俺は、死ねって言う命令も飲む方だからなぁ。あんまり自分の命が狙われるとか、興味ないな。命令じゃない限りは、何とかして生き延びるだけだし。それが密偵の仕事だろ」
「……」

 それとなく腕時計を見て、薬が効き出す時間を計る。
 訓練している者でも、あの薬ならば、十五分弱で意識を失うはずだ。

「鷹司家のためなら死ねる……優先順位、これでも結構ハッキリしてんだよね」

 恍惚とした神保の声が響く。
 その声に、久阪が顔を上げた。

「単なる仕事に命を賭けるなんて馬鹿げてる」

 本音だった。
 これから殺す相手だから、構わないと何処かで久阪は思っていたのだ。

「俺は徳川のためにも、第二の諜報部のためにも死ねない。お前、馬鹿だろ」
「かもな。で、どうすんだ?」
「俺は自分が一番大切だ。飲むに決まってんだろ、やってやんよ。三重スパイか。山縣さんにはお前から伝えておいてくれ。山縣さんに直接聞かれたら、何でも答えてやる。ただ残念ながら、俺の顔と名前を、家時様はご存じないけどな」
「了解。ちなみにこれからどうする?」
「は?」
「ヤる? ヤらない?」
「……ヤるわけねぇだろ、男相手に起つか。殺して欲しいんなら、望み叶えてやるけどな」
「死にたくないんで。じゃ、とことん飲みますか。で、潰れて、それでおしまい。保科様と会う約束なんてしてねぇから、朝まで付き合うよ」

 朗らかに笑ってから、神保が徳利を持つ。

「さぁさぁ、どうぞ」
「ああ。お前も飲んだら?」

 後は時が過ぎ神保の意識がなくなるのを待つだけだと思いながら、久阪が微笑む。
 しかしそれを見た神保が、不意に無表情になった。

「――……ちなみにそっちの猪口さぁ、最初から毒入れといたんだよね」
「っ、げほ」

 猪口を差し出しながら、久阪は咽せた。

「冗談」
「な」
「ただの睡眠薬。多分、同じ薬使ってるね、俺達。ちなみに俺は、自宅以外じゃ基本的にジントニックしか飲まないから、さっきから全部飲んだフリなんだわ。完全に飲んでるように見えただろ? 俺って演技派だからさ。悪いね。最後だから教えてやるけど、俺と鷹司家とか、何の関係もないから。残念だけど、それは俺じゃないんだ」


 その言葉を聞いたのを最後に、久阪は意識を手放した。