9:恋人宣言


「はぁ……」

 今日は曇り空。
 白い雲が、都市を低く低く圧迫している。
 そこに鴉が一筋の黒い線を描いていく。
 窓枠の外のそんな景色を眺めながら、気がつくと羽染は溜息を漏らしていた。

「なにかあったのかい、羽染」

 珍しい羽染の姿に、朝倉が声をかける。

「っ、いえ」

 完全に無意識だった羽染は、慌てて振り返り首を振った。
 溜息の理由は――明らかだった。
 有馬が唐突に、『好きだ』なんて言ってきたことだ。

 あの日以来顔を合わせてはいないが、きっとまだ酒が残っていたから、有馬はあんな事を言ったのだろうと羽染は考えている。

「僕で良ければいつでも相談に乗るからね」

 朝倉の言葉に、羽染は曖昧に笑った。

「恐縮です」
「書類仕事も切りが良いし、そろそろ昼食にでも行こうか?」
「ぜひご一緒させて下さい」

 羽染は答えながら、思考を切り替えることにした。
 朝倉の副官になってから、見事に陰湿なイジメは消えた。
 その上、日々優しく接してもらっている――寧ろ、反対に、非常に穏やかな性格をしている朝倉が、どこか刹那的というか、あまり自分の体を大事にしていない点などが、心配になるほどだった。

 どんな人間にも欠点があると羽染は思っている。しかしながらそれを踏まえても、朝倉は本当に理想の上司であり、憧憬を抱いてしまう。

「今日は、早いな」

 二人で食堂へとやってきた朝倉と羽染に、山縣が声をかけた。
 トレーを持っている山縣の隣には、有馬が立っている。
 その姿を視界に入れた瞬間、羽染は硬直した。
 有馬はカツ丼をトレーにのせて、何事もなかったかのような顔で笑っている。

「朝倉さん、一緒に食べましょう」
「そうだね、久しぶりだな。有馬と食べるのは」
「お前らが忙しすぎるのが悪いんだろ。朝倉も羽染も、ワーカーホリックって奴だろ」

 揶揄するように山縣が言う。

「それに報告したいこともあるし。あ、山縣さんにも言わないと」

 有馬がそう言うと、朝倉と山縣が顔を見合わせた。
 有馬は、山縣が諜報部に所属していることを知らない。だが、その諜報部からも、有馬から何か報告があるだろうなどと、山縣は聞いていなかった。何も知らないと瞳で応えた山縣に対し、朝倉が僅かに目を細める。ほんの微かな変化で、周囲にはただ笑みを浮かべているだけに見えただろう。

 羽染はと言えば、有馬の顔を直視するのが気恥ずかしすぎて、一歩遠い位置に移動していた。食券の券売機の前で、一人グリーンカレーにするか鯖の味噌煮定食にするか悩んでいたのだ。だから有馬の声など聴いてはいなかった。

「羽染、僕は今日はハンバーグ定食にするから、頼んでおいてもらえる? 先に席確保してくるから」

 良く透る朝倉の声に、我に返り羽染は頷いた。
 こうして、羽染だけを残して、三人が、四人がけのテーブル席へと向かう。

 注文を終え、トレーを持って、羽染は席へと戻った。
 空いているのは、山縣の正面、有馬の隣の席だ。
 此処は空気を読んで、席を外そう。
 そう考えていた羽染に向かい、有馬がその時顔を向けた。

「俺たち付き合うことになったんだよな」
「っ」

 その言葉に、羽染は、トレーを落としそうになった。
 慌てたように、隣で有馬がそれを支える。
 一応食事は無事に、テーブルの上に載った。

「――……ハンバーグ定食です」

 そう言いながら羽染が、朝倉にトレーを渡す。
 すると朝倉が受け取りながら、笑顔を浮かべた。しかし目が笑っていなかった。

「否定しないんだね」
「っ」

 自分の分の鯖の味噌煮を眼前に置きながら、羽染は呼吸困難になった気がした。

「何々、一体どういう経緯で、何がどうなったんだよ?」

 山縣が、笑みを浮かべつつも半眼で有馬を見ている。

「街でばったり会って、二人で飲みに行って、その後、俺が告りました」

 有馬が笑顔でそう言いながら、カツ丼を食べはじめる。
 いたたまれない気持ちで、羽染は俯いた。
 ――本気で言っているのだろうか?

 それが一番の疑問だった。

「それで羽染は、OKしたのかい?」

 朝倉が、指を組んで肘をテーブルについた。
 その上に顎をのせながら、笑顔で羽染を見る。

「……え、あ、の、その……」

 思い返してみれば、有馬に惹かれていなかったと言えば嘘になると羽染は再び考えた。
 だが、有馬が勝手に話を進めただけであり、OKした覚えはない。
 その上、有馬が本気なのかどうかも、羽染には分からなかった。

「……」
「あ?」

 すると隣から有馬に睨まれ、足を踏まれた。
 ――そもそもこんな話を、上官に報告する必要ってあるのだろうか?

「どーせ、有馬が強引に話を進めたんだろ」

 察した様子で、山縣が腹を抱えて笑い始めた。

「何もう最後までヤったの?」

 山縣が続けた言葉に、羽染は思わず赤面した。

「まだですけど」

 有馬が不機嫌そうな顔で目を細めると、朝倉と山縣が顔を見合わせた。

「じゃあまだ、俺らにもチャンスあるよな」
「そうだね、山縣。有馬に羽染はもったいないよ」
「ちょ、二人とも何言ってるんすか」
「有馬。羽染は僕の副官だし、僕のだからね」
「な」
「有馬、羽染は俺が、朝倉の副官のポジから引き抜くつもりでいるから、俺のだから」
「山縣さんまで……」

 にこやかに言う先輩二人を見ながら、有馬は思った。
 ――この二人、本気だ。


「……からかわないで下さい」


 ただ一人、この流れに、嗚呼かつがれているんだなと判断した羽染は俯いて嘆息した。
 そもそもこの軍部で人望ある三人が、自分に好意を抱くなどという事実が、あり得るとは羽染には思えなかったのだ。

「午後には演習がありますし、早急に食事を済ませて、打ち合わせを」

 羽染が冷静に言う。
 すると三人が虚を突かれたような顔をしてから、羽染を見た。

「羽染……って、好きな人いる?」

 朝倉が無理矢理声を絞り出すようにして問う。

「おりません」

 きっぱりと答えた羽染は、有馬のことを一瞥してから、割り切ろうと考えた。
 有馬のことが気になっていないと言えば嘘だが、からかわれて嘲笑されるよりは、割り切った方が幸せだと思ったのだ。

「おい待てふざけんな、お前は俺のことが好きだろ」

 しかし隣に座っている有馬が、眉間に皺を刻み、そう言い放った。

「……」
「好きだよな?」
「……」
「俺たちは恋人だろ?」
「……」

 実際――……そうなれたら、それは楽しいかも知れないと羽染は思った。
 だが冷静に考える限り、朝倉を今後暗殺しなければならない自分と、有馬とでは、何もかもが釣り合わない。むしろ少しでもそう言う関係にあったことが露見すれば、有馬に迷惑をかけることは目に見えていた。

「羽染」

 短く有馬が言った。その声で、羽染は我に返り、顔を上げる。

「!」

 そのままキスをされ、羽染は驚いて目を見開いた。
 酸素を求めて唇を僅かに空けると、舌が入り込んでくる。
 公衆の面前で口づけしているなどという事態が、羽染にとっては羞恥をあおりすぎて、頭が真っ白になった。ただ、絡み合う舌が心地良くて、吸われる度にゾクリとおかしな感覚が背筋を這い登る。

「っ、ん……」

 性的な事柄に疎い羽染には、有馬の熱烈なキスが、強烈な刺激過ぎて苦しくなってくる。

「……ぁ……」

 漸く有馬の唇が離れたとき、羽染の双眸には生理的な涙が浮かんでいた。
 少しだけ唇の感触が名残惜しい。
 朦朧とした思考のまま、羽染は有馬を見る。

「そんな顔すんなよ……俺、ヤバイ」
「……?」

 とろんとした瞳で首を傾げた羽染を見て、有馬が、右の掌で顔を覆った。
 訳が分からずぼんやりとしていた羽染は、その直後我に返って、有馬を睨め付けた。

「! な、何を考えて……!」
「お前のことしか考えてねぇよ」
「っ」

 当然のことだというように有馬に言われ、羽染は言葉に詰まった。
 怒りも羞恥も、何処にもやり場がない。
 有馬の瞳が純粋すぎて、羽染は思わず赤面して、唇を震わせた。

「……山縣、どうしよう惚気られてるのかな、僕達」
「……有馬が素直すぎて若いとしか思えないわ、俺」

 そこへ朝倉と山縣が、声を挟んだ。

「だけどまだ羽染の気持ちは分からないわけだし、僕たちにもチャンスはあるよね」
「それはそうだろ。朝倉」
「は? 二人とも煩いっす。わかりきってるじゃないっすか、そんなの」

 不機嫌そうに有馬が、目を細めた。
 羽染はと言えば事態が飲み込めず、何も言わないまま固まっていた。



 それを食堂中の皆がひっそりと注視していたことを、幸か不幸か羽染は気がつかなかった。