2:山縣寛晃



「ん、靴紐が解けた」


 山縣寛晃やまがたひろあき大佐が飴色のブーツを見下ろし屈んだ時、正面には朝倉と有馬が立っていた。

 長州藩出身の二人と、土佐藩出身の山縣が親しくなったのは、なにも旧薩長土肥軍閥の人間だからではない。同期の朝倉と山縣は、正反対の性格だったが、何かと意見が合致したのだ。出世こそ山縣の方が早かったが、大佐になって以後山縣の出世は止まっている。

 一方の朝倉は着実に出世し、今では中佐だ。階級だけ見れば山縣の方がまだ上だが、異例の出世を遂げた山縣は若くして大佐になったまま動きがないのに対し、朝倉の方は着実に出世している。二人は好敵手ではなかった。そう言う意味では有馬が羽染に抱いているようなライバル心は無い。”親友”そう呼ぶのがふさわしいだろう。

「何をやってるんですか、山縣さん」

 その流れの中では、朝倉に懐いている有馬が、山縣と親しくなるのも道理だった。

「山縣、先に行くよ」
「ああ、そうしてくれ。俺、Bランチな」
「席とって買っておきますね」

 朝倉と有馬を見送りながら、山縣は静かに靴紐を結び直した。
 二人が行ってしまうと、廊下は静かなものである。
 こんな一人の空間が、山縣は好きだった。

 ――若くして大佐になった。それ以上昇進しないのに。

 ふと思い出して山縣は唇の片端を持ち上げた。
 昇進しないのには理由がある。大佐昇進と引き替えに、山縣は二重軍籍を得たのである。史上最年少の大佐昇格は、”諜報部所属”となる条件だったのだ。

 大日本帝国は、まだまだ情報戦に弱い。
 だからこそ有能な人材を、諜報部に集めている最中だ。

 それを理性では分かってはいても、母国土佐に、錦を飾らぬうちに、軍の表から姿を消すわけにはいかなかった。大佐まで昇格すれば、どうにか許容してもらえる。例えその後一切昇格せず、窓際に追いやられたと名指しされようとも。

 これは国のためにも土佐のためにもなる。
 ただ時々、真っ直ぐに歩く朝倉や有馬を羨ましいと思うこともあった。

 名乗れぬ諜報部将校――少将となった現在でも、第二天空鎮守府においては大佐の顔をしているのは、そんな事実があるからなのかも知れなかった。

 靴紐を結び追えた時、遠くから聞こえてくる失笑に、山縣は顔を上げた。





「本当は陥落してないのに城が落ちたと思って、自殺した白虎隊って馬鹿だよな」

 その時羽染は、眼窩の奥がちかちかと赤色に染まっているのを自覚していた。

 殴られるのはいつものことだった。
 馬鹿にされるのもいつものことだった。
 嘲笑されたって良い。

 会津が馬鹿だった、それは聞き慣れた言葉だった。
 ただ。

『本当は陥落してないのに城が落ちたと思って、自殺した白虎隊って馬鹿だよな』

 その言葉を聞いた時、噛みしめていた唇から血が滴った。

 ――君主を思うことは悪しきことなのか? 馬鹿げているのか?
 ――忠義を尽くして自決したことを笑われるのは、許せるのか?
 ――なぜ、なぜ、笑われなければならない? 笑わせておいて良いのか? 決して、断じて違う。そこにあった想いの何が分かるというのだ。

「僕は良い。好きに笑え。だけどな、だけど――」

 これ程までに怒りに駆られたのが何時ぶりなのか、羽染自身分からなかった。

「侮辱するな。先人を侮辱するな、何も知らないくせに」

 羽染は、周囲にいた四人のそれぞれに、膝を叩き込み、床へと伏せさせた。
 その軽やかな動き、目で追うだけで精一杯の速度に、羽染を暴行していた者達は皆倒れる。端から血を流す者や歯が折れた者こそいなかったのは、激情に駆られてもなお、羽染が手加減を加えたからだろう。


「やるねぇ」


 そこへ歩み寄り、山縣が笑みをのせた声を放った。
 羽染が我に返ったのはその時のことだった。

「噂とはだいぶ違うな。やられっぱなしの会津志士って聞いてたけど」
「……」

 青ざめた羽染は、己のしたことにきつく目を伏せた。
 これでは保科の足を引っ張ってしまうと言うのが、一番の思いだった。
 一番辛いのは、幼いあの君主であるはずだったから。

「全部見てた」

 愉悦を含んだ山縣の言葉に、羽染は顔を向ける。

「これは、自制しきれなかった私の落ち度です」

 だから保科にも会津にも何の関係もないのだと、羽染は続けようとした。

「落ち度?」

 しかし山縣は、腕を組んで笑うだけだ。

「何言ってんだよ。立派な上官侮辱罪で、お縄に着くのはそこに倒れてる連中の方だ」
「……え?」

 意外な山縣の言葉に、羽染が目を瞠る。

「ですが、彼らは、旧薩長土肥軍閥の……」
「関係ねえよ。あるって言うんなら、俺が手を回してやる」

 そう言って喉で笑った山縣は、それから二度、羽染の肩を叩いた。

「誰だって自分の故郷馬鹿にされたら頭にクるだろ。違うか?」
「それは……ですが……」
「お前は未だ若いんだから、信じたことをやれよ」

 山縣はそう言うと前髪を摘んだ。
 羽染よりも僅かに高い背を少し曲げ、目線をあわせた。

「お前、俺のこと誰か知ってる?」

 その声に、狼狽えたように羽染が息を飲む。

「俺はお前のこと知ってるぞ、羽染中尉。士官学校新卒だから、中尉なんだよな。有馬のライバル。最も有馬は、箔付けに出された戦場で、戦績を押し付けられて大尉に昇格してるけどな。お前まさか、有馬のことは知ってるだろ?」
「……申し訳ありません」

 羽染が顔を逸らすと、虚を突かれたような顔をした後、山縣が破顔した。

「有馬が聞いたら泣くぞ。まぁ良い。俺のことだけでも覚えておけよ、羽染。俺は山縣大佐だ。多分死ぬまで大佐。死んだら二階級特進だけどな」
「山縣大佐殿」
「そう」
「どうして……」
「俺は国内事情より、国外、対外国向けの仕事をしてるんだ――まぁでも、この国を思ってるんだよ。お前は、地元と日本どっちが大事?」
「……地元です」
「正直で結構。何せその地元の積み重なりが大日本帝国だからな」
「私は――」
「何にも言うな。お前の目は、結局国のために尽くすって色をしてる。地元を大事に出来ない奴が、国を大事に出来るはずがない。お前みたいなのは、優秀だよ。何かあったら言え。ま、窓際族だから力になれることは滅多にないけどな、困ったら話すだけ話してみろよ。ごく稀に役に立つこともあるかも知れないからな」

 羽染の首に手をかけ抱き寄せニヤっと笑ってから、山縣は歩き出した。



「遅かったですね、山縣さん」

 食堂に着いた山縣に、有馬が声をかけた。

「ああ、ちょっとな。大人しそうな猫が、威嚇してるところに遭遇してな」
「猫?」

 朝倉が首を傾げる。

「お前、猫がこの世で一番嫌いだって言ってなかったか?」
「猫の手も借りたいほど忙しいんだよ、俺は」

 山縣が肩を竦めると、有馬が怪訝そうな顔をした。

「猫に手はありませんよ」