1:有馬宗一郎



 有馬宗一郎ありまそういちろうは、軍服の首元を手で緩めながら第二天空鎮守府の二階を歩いていた。

 毛足の長い赤い絨毯の上を、黒い革靴が進む。
 この第二天空鎮守府は、元老院議会と大日本総括軍総司令部が置かれた施設である。
 大日本帝国の要とされる場所だ。
 軍用機と軍人ばかりで、実質関東方面軍の拠点である第一天空鎮守府よりも、その影響力も実力も高いとされている。何せ全国各地から優秀な軍人と政治家が集まるのだ。

 『優秀な軍人』それは、要するに旧薩長土肥軍閥――九州方面軍の集まりである。
 山口県主宰長州藩の士官学校を首席で卒業した有馬は、実質この代において、いやここの所の九州方面軍きっての実力ある新人だとされている。薩摩が推す新人でもある。その評価を、本人も妥当なものだと思っていた。

 ――たった一度だけ、そしてたった一人だけ、好敵手がいるとはいえ。

 今思い出してもはらわたが煮えくりかえりそうになる、剣道新人戦のことを思い出しながら、唇を噛む。皮がむけて、血の味がした。

 有馬にとって、実力こそが全てだった。
 先輩だろうが後輩だろうが、無論同輩だろうがそれは関係ない。
 そしてそれは正々堂々とした結果でなければならなかった。
 幸運がもたらした、あるいは何らかの思惑が働いた結果など、有馬にとっては何の価値もない。汚いこと、不正、汚職。そうしたものに、有馬は吐き気を覚える。勿論それらを許容できるようになることも、大人になった証だと言われれば反論できない場合もあるが、有馬はこの国のためにこそ、そしてふるさと長州のためにこそ、正しくありたいと思うのだ。

 そんな事を考えながら歩いていた時のことだった。
 さしかかった曲がり角の向こう、入り組んだ旧館への渡り廊下の辺りから、何かが壁に叩きつけられる音が響いてきた。

 驚いて目を剥き、壁に背を近接させて、角の向こうをのぞき込む。

「本当に見る目がないよな、会津って」

 哄笑が響いてきた。
 見れば一人の士官が、壁に叩きつけられていた。
 露骨に腹部を殴られたらしく、唇を噛みしめて痛みをこらえている様子だ。
 そこへ複数取り囲んだ軍人達が、蹴りや拳を叩き込んでいる。

 一対多数。

 殴られている青年は自分と同じ年の頃、まだ二十歳になるか成らないかといった面持ちだ。取り囲んでいる者達も同年代だが、ただ一人殴られている青年の胸元には中尉の階級を示す階級証があり、他の者達にはそれがない。

 常時であれば、これは上官侮辱罪で懲罰ものだ。そうでなくとも、到底許されるような行為ではない。

 何よりも、有馬は、殴っている面々に心当たりがあり舌打ちした。
 同郷出身者も多く、誰もが旧薩長土肥軍閥の人間だと分かる。
 そして同時に、殴られているたった一人にも、有馬は心当たりがあった。体力が無くなってしまったわけでもないだろうに、ただ無抵抗で殴られている青年は、羽染良親という有馬と同期の、旧奥羽越列藩同盟の中でも蔑まれている会津藩出身の中尉だった。

「てめぇら、なにやってるんだよ」

 有馬が声を張り上げて身を出すと、殴っていた面々が動作を止めた。

「あ、有馬大尉……」
「多勢に無勢とは情けねぇな。薩長土肥の名を汚すんじゃねぇよ。散れ」

 有馬の一声で、羽染を取り囲んでいた面々はその場から姿を消した。
 静けさが戻った廊下で、有馬が羽染に手を差し出す。

「てめぇも情けねぇな。少しはやり返すぐらいしろよ」
「……」

 無言で有馬を見上げた羽染は、何も映していないような瞳で静かに瞬いた。
 その長いまつげに、有馬は、軍人よりも歌舞伎の女形でもやっていればいいだろうにと内心思う。裸体を見たことがあるわけではないから、筋肉の付き方など知らないが、少なくとも軍服を纏っている羽染は、軍人にしては細身だ。ただ羽染が着やせするたちでそれなりに筋力はあるのだろうと有馬は推測している。それは嘗て、剣道で竹刀を交えたことがあるからだった。

 丁度その時、議員会館に繋がる右手の通路から声が聞こえてきた。

「お待ち下さい、鷹司様」

 首に銀色の犬用の首輪をはめられた少年が、小走りに前を歩く少女へ追いすがっている。
 鎖をひいているのは、天皇家とも血縁関係にある長州藩選出元老院議員の鷹司由香梨である。十三歳の見目麗しい少女だ。

「全く汚らわしいのね、会津の藩主は。貴方は私の靴でも舐めていればいいのよ」

 忌々しそうに言い捨てた彼女は、着いてくる会津藩選出議員の、同じ歳の少年を睨め付ける。洋装のワンピースを纏った由香梨に、和装の保科少年が満面の笑みで付き従っている。

「右の靴で宜しいですか?」
「冗談よ、気持ち悪い」
「今日もお綺麗ですね、鷹司様は」
「さっさと行くわよ」

 うんざりした様子の由香梨と、まるで犬のような保科。
 その光景を、思わず眉を顰めて有馬は見送った。羽染は何も言わない。

 有馬が入隊してから、第二天空鎮守府では、保科秋嗣が鷹司家の由香梨様にすりより犬のように下僕のように振る舞っているという話しは、単なる噂の域を超え、事実として周知されていた。そうまでして会津藩は権力に預かりたいのかと、嘲笑されている。

 二人の影が見えなくなってから、有馬は羽染に向き直った。

「君主が君主なら、家臣も家臣だな」

 そう言った有馬のさしだしていた手を、羽染が叩いて振り払う。

「お、おい」

 有馬が呼び止めるも、羽染はそのまま歩いて去ってしまった。
 その後ろ姿を暫し眺めて、有馬は嘆息する。

 ――こんなにも情けない好敵手っているか?

 中等部でも高等部でも統一試験で有馬が負けた相手。それが羽染だった。
 この第二天空鎮守府で、漸く相対できたと思ったら、相手はとんだ腑抜けだった。
 これで、ただのインテリカルテルというだけなら、まだましだった。

 有馬は、初めて羽染と会った日のことを思い出す。


 あれは――第二天空鎮守府剣道新人戦での邂逅だった。






 羽染は、首輪を繋がれ、なお笑顔で第二天空鎮守府を歩く主の姿に慣れつつあった。
 それこそ着任した初日に、長州の元老院議員に家畜のように扱われても笑っている姿を見た時こそ、胸を痛めはした。

 しかしそれに耐える己の主の姿に、その後自身の食事にだけネズミの遺骸や虫が混入されている事態にも、一人になれば囲まれ殴られる現実にも、最早慣れてきていた。これまでにたった一度殴り返し逃げ通したことがあるが、それは性的に陵辱されそうになったただ一度きりのことである。その他は、主人が耐えている以上、波風を立てないように、ただ貝のように黙し、痛みを耐えた。

 ――いつか、幼い主は、会津を守りたいと言った。

 その声に嘘はないと、羽染は信じている。
 そして会津を守ると言うことは、ちっぽけな(とはいえ陰湿な)苛めを糾弾することでも、そうして誇りを守ることでもないのだと、理解した。じっと堪え忍び、機を見て、行動すること。どんなに卑しく強者にすり寄ると蔑まれようが、それで会津に利益をもたらすことが出来るのであれば構わない。現在最も権勢を誇る長州に頭を下げ援助して貰うことは、戊辰戦争の恨みを晴らすよりも余程有益なことなのだ。

 思い出されるのは、ここへ来てばかりの時の出来事だった。



「羽染、この戦い、負けよ」


 第二天空鎮守府剣道新人戦は、羽染が東京にやってきて三週目に行われた。
 決勝戦まで恙なく進出した羽染は、保科からそう耳打ちされた。
 相手は旧薩長土肥軍閥出身の、中尉だった。

 この戦いのすぐ後、平和維持軍の指揮官として国外へ行き、大尉となる同じ歳の相手のこと――有馬のことを、羽染はその日まで知らなかった。

 これまでの統一試験で常に次席だった相手だという事すら知らなかった。そもそも羽染は、自身の学生時代の成績表などまじまじと見たことはなかったからだ。軍部には実名が周知されていたとはいえ、羽染のように先輩軍人に問わない学生が他者の成績など知る機会もないのが、形ばかりの守秘義務が横行するこの世界での理だったのだ。

「双方礼」

 竹刀を構え、羽染は唾液を嚥下した。
 その構え、気迫、足運びから、相手が相当の手練れだという事が分かる。

 ――これは、負けようとせずとも、気を抜けば負ける。

 ドクンと鼓動が一際大きく啼き、頬に汗がつたる。これまでに――これほどまでに、強い相手と竹刀を交えたことがあったか? いや、無い。高揚感が体を鼓舞し、掌に力がこもる。何度か撃ち合い、その緊迫感に羽染は次第に我を忘れた。どうすれば勝てる? 隙は何処だ? 息をつく間もないやりとりの後、羽染は相手の手元を捉えた。このまま振り切れば、相手の竹刀を振り飛ばせる――そう考えた時、保科の声が蘇った。

『負けよ』

 慌てて間合いを取るが、生存本能がそれを善策に変える。それすらも無意識に相手の剣を誘う結果になった。踏み込んできた相手の竹刀を避け、正面から後は叩き込むだけ――しかしそうすれば、命令違反となる。

 ――この状況から、どうすれば負けられる?

 まずは袴を踏んで盛大に転ぼうかと羽染は考えた。
 しかしこれまでにその様な負け方をしたことがないため、どうすればいいのか分からない。

 ――竹刀を振り下ろす位置を誤れば、その隙に相手が打ってきてくれるか?

 羽染は防具越しに、相手をじっと見た。

 この実力の相手ならば、きっとその隙を見逃したりはしない。
 ある種の賭だった。

 見逃されれば、己が有効で勝つことになるだろう。
 しかし此処まで本気の勝負を、人生で初めて迫られた相手だ。
 その隙を見過ごされることはないだろう。

 なによりも、もうこの竹刀を振り下ろす勢いは止まらない。
 羽染はそのまま竹刀を振り下ろすことにした、ただ少しだけ逸らして。
 瞬間、有馬の竹刀が羽染の首元を打った。

「一本」

 こうして決着はついた。
 いつか、最後まで本気で勝負が出来れば良いのにと、羽染は感じた。



「流石は鷹司様の藩の方ですね」

 保科の笑みを含んだ声が周囲に響いている。

「当然よ」

 まんざらでもなさそうにそう答えた鷹司が歩いていくのを、保科は追いかけた。
 それが、羽染の覚えている記憶だ。

 だが、彼らを見守っていた人間は、他にもいる。
 試合の後、長州藩出身の、朝倉継通あさくらつぐみち中佐が有馬に歩み寄った。朝倉は第二天空鎮守府きっての有名人だ。戦績も華々しい。

 逆にそのせいで、外部にも身内にも敵は多いのだけれど。

 その朝倉を尊敬して止まず、朝倉の副官になりたいと言ってきかない有馬は、防具を外すとそれを投げ捨てた。剣道の精神には反しそうなものだ。

「おめでとう」

 笑顔で朝倉が告げると、有馬が眉間に皺を刻み、険しい顔をした。

「めでたくなんてありません。あいつ、わざと隙を作りやがった。わざと負けた」
「だとしても、勝ちは勝ちだ」
「こんなの勝ちに入らない」

 吐き捨てるように言った有馬の声に、朝倉が苦笑する。

「きっと彼には彼の戦いがあったのさ」

 この戦い以後、有馬は羽染の名前を忘れられなくなったのだった。




「本当は強いくせに」

 羽染が廊下を去っていく姿を一瞥しながら、有馬は呟いた。
 ――本気で戦いたい。

 けれどそれは、現状では叶わぬ希望だった。
 せめて戦績で勝利しようと思っても、自身は安全な土地で約束された勝利の指揮官に祭り上げられ大尉となった。

「このまま一生勝てないのか?」

 一人呟いた有馬の声は、廊下に霞んで消えていった。