序:会津の記憶


 西日が日新館の道場へと差し込み、影を長く長く伸ばしている。

 士官学校の卒業式を数週間後に控えた、羽染良親(はそめよしちか) は、慣れ親しんだ剣道場で素振りをしていた。卒業後は、東北方面軍閥の拠点である仙台で、軍人になることが決まっている。軍人の多くの者は中学校卒業と同時に仕官するが、高等学校に当たる士官学校出身となる羽染は、軍人としての出世を約束されている。彼は血筋こそ由緒正しい武家の出であるが、決して裕福な家で育ったわけではない。

 それも第三次世界大戦の折に、父親が逝去した事が原因だった。

 会津藩前君主、保科成彬(ほしななりあき) の側近をしていた父は、銃弾から成彬を庇い亡くなったのである。その成彬も六年前、死去した。羽染の母静子は、羽染の妹を産んですぐに亡くなっていたから、羽染には妹の他には家族はいない。だが妹も、母と同じ病を患っているため、長命は望めないと医師から言われている。

 本来であれば、既に死んでいてもおかしくはない。

 そうならなかったのは、新たな幼君主、保科秋嗣(ほしなあきつぐ) と妹の小夜が幼な
じみだったからである。

 秋嗣は、未だ小学校に上がったばかりの頃から、小夜を好いていた。

 五歳離れた少年が、未だ後の君主になるなどと自覚がなかった頃、羽染は妹にまとわりつく道場の後輩のことを何度竹刀で追い払ったか分からない。そうはしつつも、妹同様に羽染にとって、幼き日の保科秋嗣は可愛い弟のような存在だった。

 成彬の逝去後、顔を合わせなくなって久しい。秋嗣が会津藩選出の元老院議員となり上京したからだ。その傍ら一時も幼い君主のことを忘れた時が無いのは、妹の入院費を全て秋嗣が支払ってくれているからなのかも知れない。

 勿論一家臣の娘と君主、病弱な少女と跡継ぎを待望される少年の婚姻などあり得ない。
 仮に打診されても羽染は、全力で断るつもりだ。

 ――何も保科様に不満があるわけではない。寧ろそんな夢のような日が訪れたのならば、どんなに良いことか。

 しかし世情はそれを許さない。

 初めは幕末の第一次戊辰戦争が契機だった。
 対極を読めず愚かにも幕府側についた会津藩。
 その汚名を返上すべく、第一第二の世界大戦で奮闘した旧奥羽越列藩同盟縁の県の面々。

 だが第二次世界大戦の末期、新型爆弾を投下されそうになる情勢下の中、東北方面軍閥の人間と旧薩長土肥軍閥の人々の間で第二次戊辰戦争が起こった。

 勝利したのは山口県主体の九州方面軍閥の人間達だった。三国同盟を破棄し、米国と密約を交わし、新型爆弾の投下はおろか敗戦国となることをも回避した英雄が、彼らだった。

 やはり東北方面軍閥には、特に主導した福島県の人間には先見の明がない。

 そんな嘲笑が至るところで囁かれた。
 それらは戦後の高度経済成長や、江戸懐古思想の波を潜り抜けた現在でも変わらない。
 四十七の県にそれぞれ藩政が復活し、大日本帝国は藩の君主が元老院議員として政治を行う立憲民主主義国家となった。帝都東京の君主は徳川家であり藩とは異なる(旧将軍家である)上、京都には天皇家がある。欧米諸国の文化が入っては来るが、軍服以外の人々の服装は専ら和装が多い。今はそう言った時代だった。

 現在は世界的に見れば、各国によって文明水準の乖離が著しい。

 特に兵器は、第二次世界大戦頃恐れられた核兵器よりも、Ns−T36航空爆雷を手中に収めた先進国各国が優劣を競っている。第二次世界大戦時の米国との同盟時に核開発を放棄した大日本帝国は、早くから非核三原則もあったので、Ns爆雷の開発を進めていたから、第三次世界大戦で戦勝国となった現在では、軍事大国の一つだ。

 その大日本帝国の軍人、中でも士官学校統一試験で最高成績を収めた羽染は、東北方面軍閥においての期待の星であると目されていた。

 東北方面管轄が再び日の目をみるためには必要な人材、そう判断されたのは中学時の幼年志士統一試験で主席の成績を収めた時分に遡る。羽染が藩管轄の日新館付属幼年志士学校中等部に入学したのは、単純に学費が免除になるためだった。

 いくらお国のためとはいえ、率先して我が子を軍学校に入学させたがる親は少ない。いつ何時命を落とすとも分からないからだ。その為学費がかからない進学先を羽染は選んだ。両親が亡く、義務教育の小学校に妹が通っている状況下で、勉強を続けるには他に選択肢が無かったのである。中学卒業後は、本来であれば、父と同じ外交官の道へと羽染は進みたいと考えていた。けれど妹の病を機に、就職を決意した。

 そこへ東北方面軍閥が、羽染の優秀な成績をかって、士官学校への進学を打診したのである。東北方面軍閥にしてみれば、優秀者の集まる九州方面軍閥、ついで学術の徒が多い関東方面軍閥の二派閥に在学する児童よりも、久方ぶりに成績の良い者が現れた以上、逃したくないという思惑があったのだろう。そのまま羽染は高等部に当たる士官学校へと進学し、東北方面軍閥の期待通り統一試験主席の成績で卒業が決定した。

 ――だが、これは決して自分が望んだ未来ではない。

 羽染は竹刀を握る手に、力を込めた。
 素振りを繰り返す内浮かんだ汗を、冬の冷たい風が端から冷やす。
 長めの黒髪が額やこめかみに張り付き、防具を着けていない普段着の和装が衣擦れの音をたてる。

 生まれ育ったこの会津の土地を、誇りに思っていないわけではなかった。いくら馬鹿にされているという話を聞こうとも、幕末や白虎隊の話を聞く度に、その忠義には心打たれる。前主君を守って散った父のことも誇りだった。

 そんな感情と、理性が訴える派閥争いなど無いこの国の本来あるべきなのだろう姿、そして国際化、開かれた日本をこの手で形作りたいという想いは、決して相反する物ではない。だからこそ父の跡を継いで外交官になりたかったはずなのに、結果は古の屈辱を晴らしたい軍閥の傀儡人形になろうとしている現実。軍人になれば、何か変わるだろうか。東北方面管轄においての、出世は約束されている。

 そんな事を考えていた時、軋んだ音をたてて道場の扉が開いた。

 とうに練習時間は終えていた一人きりのその場所で、驚いて動きを止めた羽染は振り返った。そして息を飲んだ。

「保科様」

 慌てて竹刀を置きながら、片膝を立てて床に平伏す。
 入ってきたのは今年で十三歳になる、幼い会津藩主保科秋嗣だった。

「面を上げよ、苦しゅうない」

 一度長い瞬きをし、羽染は顔を上げた。

「士官学校での成績は聞いている。日本一優秀な士官がこの会津より出た事、わしも誉れ高い」

 二次成長前の幼い少年が口にするには、『わし』という一人称は随分と不似合いに思える。

 染めているわけでもないが、陽に透けているからではなく元々色素の薄い茶色の髪をした保科は、同色の大きな瞳を羽染に向けた。

 小さい頃から知っている変わらない瞳だ。
 柔和に微笑んでいる白磁の頬を見て、ただその表情だけが変わったなと羽染は思った。

 ――昔は、泣き虫だった。そのくせ意地っ張りで生意気だった。
 いつも小夜と羽染の後を着いて歩いていた保科が、今ではどこか悟ったような瞳をしている気がする。

「もったいないお言葉です」
「仙台に――東北方面軍に、入隊が内定していると聞いている」
「はい」
「出世と安定は約束されているようだな」

 羽染はその言葉に、瞬きで頷いた。そうしながら首を傾げそうになった。昔知己だったことなど、この君主は果たして覚えているのだろうか。当時の保科は未だ幼かった。何せ藩の君主の座を継ぎ元老院議員となった時の彼は、小学生だったのだ。それではわざわざ藩民の卒業を言祝ぎにやってきたのか? それも考えがたかった。何せ議会の都合で、藩の士官学校の卒業式すら、代理を寄越すと専らの噂で、実際そうした過去もある。

「めでたいな、本当におめでとう」
「……有難うございます」
「妹も喜ぶだろうな。元気に、しているか?」

 恐る恐ると言ったように、保科が続けた。

「保科様のお力添えのおかげで、最先端の医療の恩恵を預かっております」

 羽染は深く頭を下げた。
 それは心からのものだった。もしも保科がいなかったら、とうに妹は鬼籍に入っているはずだったから。

 その姿を見て取ってから、保科が漸く道場の玄関口から動いた。
 中へと入ってきた少年は、羽染の前に立つ。

「羽染、これは命令ではないから……嘗ての友人の話として聞いて欲しい」

 保科の口調が、年相応のものへと変わった。短く息を飲み、彼の声に驚いて羽染は顔を上げる。

「一緒に上京して欲しい。統括軍部に所属して、僕の側で働いてくれないか」

 少年君主は、羽染の前で膝を突く。

「統括軍部では、全国から人が集まる。とはいえ旧奥羽越列藩同盟の人間は、差別される。決して出世は出来ない。出世の道は閉ざされるだろう。軍部から与えられる任務も過酷なものとなる。幸せにはなれない。それは国を守るという軍人の志向からしても不本意なものだとは分かっている。ただ僕は、この世界情勢が平穏な今、そして国内では差別が残る現状で、この会津を守りたい、守らなければならない。その為には政だけでは変えられない。それに一人だけでは変えられない。信頼できる味方が欲しい」

 つらつらと保科が呟く。その目は床へと向けられていて、羽染を見てはいなかった。

「勿論、断ってくれても構わない。僕に、僕には何も、強制する権利はないから」
「保科様……私が、信頼できる相手だと?」
「滑稽なことに、僕は覚えていないんだ。守りたいこの会津のことで、小夜と良親さんと過ごした頃のことだけしか」

 自嘲気味に口元だけで笑った保科に対し、羽染が半眼になる。

「保科様、それは甘い」
「無理強いはしない」
「そう言うことではないんだ、”秋嗣”」

 少しばかり怒気を含んだような、呆れた様子の羽染の声に、驚いたように保科が顔を上げた。藩主となってから、故郷の地で保科は呼び捨てにされたことなど無かった。

「一つ、妹の幼なじみである可愛い後輩の頼み一つ聞けない男などいない。それこそ僕だって上京するまでもなく粋じゃない事が分かる。武士の名が廃る」

 羽染の語調と一人称が、親しい後輩へ対するものへと変わった。

「良親さん……」
「もう一つ。保科様、貴方は君主だ。これは”命令”で良いのです。『東京まで着いてこい』と、そう言えば良いのです」

 淡々とした羽染の言葉に、何度か瞬きをしてから、保科が微笑んだ。

「有難う」
「礼など不要です。端から出世になど興味はありません」
「しかし仙台よりも東京は遠い。小夜には会えなくなってしまう」
「どのみち、軍属になれば見舞いになど来られません」
「――帝都での僕は、本当に情けないんだ。幻滅してしまうかも知れない」
「幻滅するんならとっくにしていますよ。小さい頃どれだけ泣きじゃくって鼻水を流していたか覚えているんですか?」
「そ、それは良親さんが、叩いたからじゃないか」
「僕こそ、幻滅させるかも知れない。今じゃ、軍部の言いなりなんです」
「お互い変わったと言うことか」
「きっと、そうでもあり、そうで無いとも言えるのではないかと。ただ一つだけ約束できないこともある。もしかしたら僕は、東北方面軍閥の命令を、保科様の命令の他に受けることもあるかも知れません」
「構わない」

 道場に、二人の影が伸びていく。
 これが、軍属前、羽染が最後に過ごした道場での風景だった。