諜報部奇譚――山縣寛晃への覚書――



 ――まだ蝉が啼き始める、少し前の季節だった。

 世界は第二次世界大戦終結後、落ち着きを見せ始めている。
 和装が主流のこの日本に置いて、洋服が目立つ唯一の場所――それが軍事基地だ。

 ここは第二天空鎮守府。

 羽染晴親元帥が、水鉄砲を片手に窓辺に立っていた。
 そのすぐ側の壁際にある水槽の前では、木戸秋鷹中将が熱帯魚に餌をあげている。
 角にある観葉植物を左右に侍らせた横長のソファには、表向きは大企業社長の坂本中将が膝を組んで座っていた。議員で公家の西園寺穂積は、似つかぬ缶コーヒーを持って立っている。他の面々は出かけている(と言うよりも寄りつかない)。

 この四名がそろうだけでも、かなりの奇跡だった。

 普段は完全管理職の山縣寛晃少将が、中間管理職だとはたと思い出す一時である。
 アイスティのストローを噛みながら、山縣は、この顔ぶれがそろうと落ち着くなと思った。ここは総務部七課――情報部や諜報部と呼ばれる諜報機関の表の部署だ。

「で、羽染さん。息子が士官学校を来年の春卒業するんだって?」

 気怠い瞳で問いかけた副官の木戸に、視線だけで晴親が振り返る。

「うん、そうなんだ。仙台にいくつもりのようだよ」
「晴親、こちらへ呼び寄せないの?」

 西園寺が首を傾げながら、プルタブを捻った。すると晴親が猫のような目を細めた。

「今更どの面を下げて会えばいいのか分からないよ」
「弱気な君も珍しいやんな」

 クスクスと坂本が笑う。すると晴親が睨め付けた。

「好きな相手の手を離して部下に見に行かせている坂本君にだけは言われたくないよ」
「あーあー聞こえん」
「山縣君も、先輩の命令だからと言って必ずしも見に行く必要はないんだよ」
「仕事もありますから」

 無難に返した山縣は、腕を組んだ。
 会津藩の動向は常に監視させている。その中にあっても、羽染の長子――羽染良親の優秀さは何度も耳にした。親の七光りなど目に見える形では全くないのだから、実力なのだろうと言うしかない。文武両道。全国の統一試験では、関東方面学閥の小中高一貫教育の学術面エリート集団さえ抑えての堂々たるトップだった。剣道の腕前も聞く。

 山縣自身は、帯刀しないため、剣道の方は言われてもピンと来ない。
 山縣が扱うのはもっぱら銃だ。

「だけど羽染さん。会津の人間は本当に陰湿だな。息子さんも、危ないことをさせられるんじゃないのか」
「木戸くん、あのね。会津でひとくくりにしないでもらえるかな? どこの土地にだって、陰湿な人間はいるものだよ。密偵、暗殺者、それはこの情報部全体の人員数を見れば分かるだろう? 何らかの形で関わっていた人間の多さを見ればね」

 羽染の言うとおり、元々この情報部は、各藩の密偵や暗殺者上がりの人間が多い。
 藩政が復活して久しい。それは情報部に籍を置いたからと言って、簡単に忘れられるようなくくりではない。それを斬り捨てる羽染晴親の方が、『変わっている』のだ。

「それよりも保科の若君の事を放っておいて良いの?」

 西園寺の声に、晴親が腕を組んだ。もうすぐ中学生になる会津藩の現在の藩主、保科秋嗣は、現在犬のように扱われているのである。

 いや、自身で犬のように振る舞っているというのが正解なのかも知れない。その父である前代藩主は、今、晴親と共に暮らしている。晴親にしろ、保科成彬にしろ、既に公的には没したことになっている。互いに息子にさえ生存を知られてはいない。

「それが日本の命運に関わるようなことがあれば、当然放置はしないよ」

 晴親はそう言うと、水鉄砲の引き金を引いた。
 見ているだけで涼しくなってくる。観葉植物の土を濡らすその水を一瞥してから、山縣は考えた。皆、何かしら抱えているのだなと。

 日本。ああ、この大日本帝国は、これからどうなっていくのだろう?

 それは山縣が考えてやまない問いだった。



 それから時は流れた。

 黒光りする革靴で、橙色の絨毯の上を歩きながら、山縣『大佐』としての表向きの姿で、短く彼は嘆息した。昼食時、初めて直接的に、羽染の子息――羽染良親と邂逅した。闇のような色をした髪と瞳の色彩、色白の肌こそ晴親にそっくりだったが、目元は恐らく母親似なのだろう。晴親とは違った種類の色気を放っていた。

 両手を後頭部で組みながら、しばし歩く。それから自身が指揮を執る総務部第七科の第二局室へと向かった。第一局室はほぼ無人の上層部専用の場となっている。

「山縣さん」

 羽染親子の他にも、軍に家族がいる人間は多い。

 この情報部に限って言えば、親子そろって籍をそろえた初の事例は久阪親子である。
 久阪の両親は、共に国籍だけが日本であり、双方共に異国の血を感じさせる人たちである。奥方の方は、元は他国の諜報機関の人間だった。

 そして長男、久阪歩は、本人すらその事を知らないまま、いつしか密偵への道を歩んだ。現在の彼は、徳川家の密偵である。それを知りながら、知らぬ振りをして、山縣は副官に引き抜いた。『裏』の中での『表向き』の仕事は、羽染良親の監視だ。即ち会津藩の監視という重役の一つを任せてあるのである。

 久阪父にこの事を告げた時は、陽気に笑い飛ばされた。
 今、久阪の両親は海外に外交官として表向きは赴任している。久阪歩はその事を信じ切っている。自分の子供程度だませないようでは、大日本帝国の密偵などつとまらない。

「山縣さーん」
「ん、ああ」

 気のない返事をした山縣は、足の細い灰皿の前に立ち、マルボロを銜えた。
 オイルライターで火をつけながら、昨日の羽染の足取りを久阪から報告される。ふぅんと耳にしながら、煙を吐き出した。

「聞いてます?」
「美人だよな」
「誰がですか?」
「羽染良親」
「確かに、まぁ」
「お前同室でぐらっと来ることはないのか?」
「俺、基督教徒なんで」

 そんなやりとりをして、どちらともなく吹き出した。
 別段山縣とて同性愛者というわけではない。ただし男ばかりの軍隊では、同性に対する憧憬を超えた念を抱く者がいくらかは増加傾向にある。抱かれるというのは考えてみたこともないが、抱く分には出来ないことはない。それこそ仕事では何度もある。山縣の専門は暗殺だったが、時には情報を聞き出すこともあったのだ。今は管理職にあるわけだが。

 ――第一、宗教と性癖は今では必ずしも一致しないのではないのか?

 素朴な疑問を抱きながら、山縣は壁際の珈琲サーバーからブレンドを手に取る。

「山縣さんには、神様っていますか? いなそー」
「いるぞ」
「え、嘘?」

 驚いた様子の久阪に対してニヤリと笑いながら、張り付けにされた自身の父の姿が頭を過ぎるのを山縣は感じていた。しかし父が神だとは思わない。自分に光を与えてくれたのは、非常に残念な事ながら、羽染晴親なのだ。

「その神の子を拾おうか迷ってるんだ」
「え?」
「久阪ァ、お前近所に新しくできたお好み焼き屋いったか?」
「は?」
「行ってこいよ。例えば仲の良い同僚とでもな」

 そう言って珈琲を飲み干してから、ダストボックスにカップを投げた。
 己のごとくちっぽけな塵芥と化したカップ――だなんて思いながら、机の上に方って置いた太宰を手に取る。決して好きな作家というわけではない。山縣は基本的に小説など読まない。これは朝倉に押しつけられた代物だ。

 山縣と同期で日の下を歩く英雄、朝倉継通中佐は、今頃何をしているのか。
 つい先ほどまで共に昼食を取っていた親友だ。そう、親友。それ以外の名前を付けられない付き合いをしている。ただの友人でないのは間違いなかったが、己達の間にある感情の名前を山縣は知らなかった。だから親友と言い表すほか無いのである。

 その朝倉が死地へと送られると聞いた時は、意外にも、ああ来るべき日が来たのかと、ただそれだけを思った。けれどさっと、肩から下へと沿って、血の気が引いていった気がした。客観的に考えれば、だ。

「繰り返すけどな、羽染良親を連れて行け」

 最後になるかも知れない酒を酌み交わした席を立つ時、山縣は珍しく振り返った。
 あるいはそれは、神の子をも殺す選択であった。己の神だけが何も奪われずにいる事への嫉妬、は、きっとない。ただ救いがそこにあるのであれば、ただ偏に朝倉のことも助けて欲しかっただけだ。その程度には、朝倉のことが嫌いではなくなっていたから。

「山縣、もし帰ってきたら」
「あ? お前の帰国はかかっても一ヶ月以内だろ?」
「――それは遺体でと言う意味かい?」
「どんなに長引いても三ヶ月って所か。葬儀くらいは参列してやるよ。仮に生きて戻ってきたら、おごってやる。おもいっきりな」
「約束を残して戦地へ行くのがこんなにも複雑な気分だと、私は知らなかったよ」
「俺達の間にはいつだって約束なんて無かったからな。で? 帰ってきたら何だ」
「聞いて欲しいことがある」
「言って行けよ」
「言ってから行ったらもう悔いはないと思って諦める自信がある」
「冗談だろ。お前はこういう視線でこそ胸を躍らせ輝くタイプだ」
「間違っていないけれどね、私だって感傷的になることはあるんだ。That's All――実に呆気のない幕引きよ」

 朝倉はそう言って苦笑し、結局何を聞いて欲しいのかは言わなかった。
 ――そんな朝倉の生還と大佐昇格のニュースを、山縣は後日新聞を見て知った。

 朝倉の動向を知りたいと思えばいくらでも可能だったが、あえてそうはしない日々を過ごし、呼吸し、鼓動を繰り返し、山縣は日々を過ごしていたのだ。


「山縣、約束通り、羽染は私が貰ったよ」

 その上、帰国してから最初に聞いたのはそんな言葉だった。喉で笑った山縣は、片手でワインを注ぎながら静かに頷く。片側の口角を持ち上げて、朝倉の瞳に宿る煌めきを見た。

 玩具を手に入れた子供のような親友の表情に、それを先に見つけた己が誇らしくなる。

「簡単に身元を調べたんだけれどね、羽染元外務大臣代理のご子息だったんだね。名前からもしかしたらとは思ったけれど」

 晴親は、山縣を引き抜いた頃は、その地位にあった。
 軍籍上は榊中将という名をしていたものである。

「まぁすぐに俺が取り返すけどな」
「それはどういった意味でだい?」
「字面通りだ」

 山縣がそう言ってワインを傾けるのを、朝倉は目を細めてみていた。
 口元こそ笑っていたが、親友があまり快く思っていないだろう事を山縣は瞬時に悟った。
 もしかして、ともすると――ついに、朝倉に春が訪れたのだろうか?

 ならば盛り上げてやらなければ。
 そんな悪戯心そのままに、グラスを置いて山縣は口を開く。

「羽染は、美人だよな」
「……――ああ。そうやな」
「俺はちょっと知らないぞ、ああいう美人を」
「……僕は知ってる」
「紹介しろよ」

 朝倉の口調が、同郷のものへと変わった。なにやら複雑な想い人でもいるのだろうかと山縣は腕を組んだものである。そして結局山縣は、紹介してもらえることはない。永遠にあり得ない。

 朝倉の目が映していたのは、山縣なのだから。


 山縣寛晃を美人と評するような人間は少ないだろう。
 均整の取れたバランスの良い体躯をした、足が長く背の高い彼は、軍服のよく似合う男らしい青年だ。人の良い気さくな笑みを浮かべるくせに、その瞳は獰猛で、独特の威圧感を放っている。まさしく彼こそ猫のようだった。すぐ近くにいるようで、何者も寄せ付けない。野良猫の極みだ。

 ――そうして最終的には、山縣が、羽染良親を副官にした。

 本人は朝倉から奪ったと言って笑ったけれど、そこ二体がないのだと言うことを知り安堵している自分を朝倉はどこかで意識していた。山縣が他者に執着を見せることは滅多にない。それこそ榊中将が例外である程度だ。

 それすらもあるいは許せないのに――そうだ、許せないのか、と。
 ある日ふと朝倉は気づく。

 この物語は、羽染親子の再会までの経緯と、朝倉と山縣の変化した関係性の物語である。

 遠い未来、老い、元帥となる山縣は、いつだってその頃の日常を『楽しんでいる』。
 過去は風化せず、美化もされず、ありのまま、山縣の手に残った。