逢魔ヶ刻


 何かに怯えるようにして、けれどその対象がなんなのかわからないままで、呼吸し生きている。倦怠感が強い、嗚呼。

 豪奢な椅子に深々と座り、気づけば朝倉はため息を漏らしていた。
 憂いばかりが募っていく。

 この時間になると、朝が早い分眠くなる。

 眠気にいざなわれると、思いの他ネガティブになる。
 逆に全てを投げ出して自暴自棄に生きて行きたい気分にもなる。
 いや、すでに何かの上で踊っている気分か。
 ぬるま湯に浸かりきって生きてきたとは思わない。
 けれど現在のようなつかのまの平穏が非道もどかしい。

 世界を軽蔑するような眼差しのまま、朝倉はあくびを噛み殺した。
 こういう日は早く帰るに限る。
 そう思い、席を立った。

 外をぶらぶら歩きながら、群青色と橙色が混ざった空を見上げた。
 夕立はとうに過ぎ去った。
 駐車場までのわずかな時間。
 誰にも会いたくなかった。けれど誰かと話をして見たかった。

「朝倉准将?」

 その時声をかけられて、視線を向けた。
 そこに立っていたのは軍に復帰した、羽染晴親だった。

「羽染元帥」

 深々と頭を下げながら、面倒だなと朝倉は思った。
 別段彼の明るさは嫌いじゃない。
 ただいまはそういう気分ではないのだ。すぐにでもこの場を立ち去りたい。

「まぁそう気を使わないで。山縣くんは元気にしている?」
「山縣は貴方の部下では……」
「ほら、仕事の上司と友達の前じゃ違うかなと思ってね」

 友達。その言葉を、音には出さず舌の上で反芻する。
 本当に自分たちは友達なのか。それだけなのか。そんな名前では片付けられない、恋ともまた違う、深い何かが自分たちの間には横たわっている気がした。

 逆にだ。
 まだ晴親と山縣が恋人同士だと聞いた方がしっくりくるかもしれない。

「山縣は変わらないと思います」
「そうなんだ。朝倉准将は顔色が悪いけど、寝不足かな?」
「ええ、まぁ」

 そんなようなところだし、自分の生活スタイルなどわかった上で聞かれているのだろうと判断する。だからこれは、今日は空が青いね、という類の世間話と同じだ。そうそうに打ち切りたい。

「――今日はよく眠れそうかな?」
「ええ。今すぐにでもベッドに入りたい気分です」
「なるほどね。要するに、山縣くんからは連絡が行っていないんだね」
「え?」
「じゃあまたそのうち。一度ゆっくり話したいんだ。息子もお世話になっていることだし」
「お待ちください、山縣になにかあったんですか?」
「今日の午後から自宅療養。暇にしてるんじゃないかな」

 晴親はそれだけ言うと、ひらひらと手を振って帰って行った。
 残された朝倉は眠気が飛び、唾液を嚥下していた。

 反射的に携帯電話を取り出して、山形の連絡先を呼び出す。当然向こうから連絡が来た形跡もない。電話は数コールで繋がった。

『どうかしたのか?』
「こっちの台詞や。自宅待機は本当かい?」
『どうしてしってるんだよ』

 思わず焦るあまり方言が出てしまった。それにしてもだ。

「何があったんだい? 大丈夫なのか?」
『あー……ちょっと撃たれてな。だけど入院の必要もなかったし、摘出も上手く行ったし」
「……」
『最近一生懸命働いてたからな。休暇でも貰った気分で過ごす』

 嘘だなと思った。相当具合が悪いのだろうと察することができるくらいには、長い付き合いだ。――どうして連絡をしてくれなかったのだろう。

 これだから逢魔が時の空は嫌いだ。悪い知らせを運んでくる気がして。

「お見舞いに行くよ」
『いいって。忙しいだろう』
「来て欲しくないんだ」
『そういうわけじゃねぇよ』
「じゃあ今から行くよ」

 眠気など完全になくなってしまった。

 見舞いに行くと山縣は、真っ青な顔で点滴をしながら寝台に座っていた。
 どう見ても大丈夫には見えなかったし、羽織っている軍服の下には、包帯が見て取れた。血が滲んでいる。処置後だろうが。

 どうして連絡してくれなかったのか。
 その一言が出てこない。
 連絡する義務も義理も約束も自分たちの間には何もないのだから。

「平気なの?」
「ああ。痛みもそれほどないしな。それより誰に聞いたんだよ」
「君の上司」
「あの人なりの気遣いで優しさなんだろうけどな、また余計なことを」
「僕が来たのは迷惑だったかい?」
「いや。正直一人よりはホッとするな。この時間に来たってことは泊まってくだろう?」
「ああ」


 そんなやりとりはごく普通の何時ものことで。
 逢魔が時はとうに過ぎ去り、夜が来る。

 こんな自分たちの曖昧な関係に付ける名前を、どこかで朝倉は探さずのはいられない己に気づいていた。失いたくないと思った。

 ――それはどうして?
 その答えだけは知りたくなくて、結局その日はただ笑ってたわいもない話をして至極いつも通りに過ごしたのだった。


 ――これで果たして良かったのか?


 嗚呼、逢魔が時が来る。
 その度に、山縣が完治するまでの間、朝倉は考え続けたのだった。