白雪吉原譚



 ここは第三吉原――旧東京府の日野市と多摩市一帯を大改造して造られた、ある種の歓楽街である。女衒に買われて私がこの街に来てから、既に十二年の歳月が流れていて、私も今年で二十四歳である。来年で年季があける。

 女児の出生率が下がり、男性の公的な性のはけ口として整備されたこの街は、歴史上の在りし日の吉原をモデルに、遊郭が立ち並んでいる。中でも”お不動様”が建つ新選組縁の地は、海外からのお客様の観光コースに入っているため、何かと江戸風だ。違うのは髪型くらいのものだろう。

 私はいつも思う。女性が少ないのだから、大切に大切に大切に扱って、数を増やして欲しいと。だが、現実は世知辛い。絶賛第三次世界大戦中の現在、女性の基本的なお仕事は家を守り子供産むことである。そこに求められるのは、処女性だという。

 しかし観光客が訪れる程度に世界大戦はゆったりしたものであり、無人ドローン同士の戦いだとも聞く。貧富の差よりも知識の差が激しいから、私のような下々の者には、難しいお話はあまり入ってこない。閨でお客様が零す愚痴の方が、新聞よりためになる程だ。新聞には、先週太平洋上空で、新関東第二空軍所属機の”神鷹改”が海洋無人ドローンを爆撃した程度にしか書いていなくて、そもそもドローンが何かいまいち分からない私には謎だ。

 なお、私にも大昔、売られてくる前は許嫁がいたはずだ。大抵の女子には許嫁がいるのだろう。私はそこで、非常に厳しい母に育てられた。私は偽物の母だと確信しながら、いつも出てくるもやしを、涙しながら食べていたように思う。弟は男の子だからなのか、いつも美味しそうなハンバーグを食べていた。女性が少ないのだから、私にハンバーグが出てきても良かったと思うが、そんな事はなかった。

「――ああ、クソ」

 楼主様が舌打ちしたので、私は我に返った。現在、全娼婦が楼主様の前に集められている。月に一度発表される、吉原高級店番付の発表日だからである。私が働く西村屋は、お不動様から見て西側区画で最も老舗の高級店だ。花魁制度が普及しているのだが、その花魁番付にも西村屋の娘達の名前がズラリと並んでいる。なお、私の名前が掲載されたことは一度もない。

「また東屋に負けた。これに関して、お前達は一体どう思う?」

 低い声で楼主様が口にする。そんな事を言われても困るのだ。
 東屋というのは、お不動様から見て東側の区画で一番繁盛している高級男娼店である。陰間茶屋とは少し異なり、店子は男性だが、遊郭形態を取っている。詳しい制度を私は知らないが、東屋は西村屋の最大の好敵手である。

 こちらは女性のお店、あちらは男性のお店である。
そうであるにも関わらず、女性が激減して同性同士の恋愛も比較的珍しくない現在では、性別を問わず客は好きな相手を買っていく。しかしながら、その男性客の相手をするのは、本来ここに集められた女性だから、話はややこしい。男性は吉原の外にも転がっているのだ。だが女性は吉原を除いたら大切に育てられているから、病院で見かけるとか、共学の学校で見かけるとか、そのくらいしか目にすることはないだろうに――わざわざ吉原に来ても、女性ではなく男性が買われていく。

 昔は吉原出自の花魁と結婚すると店が繁盛するなんていう民間伝承も存在したらしいが、はっきり言って現在は、吉原出身の水商売経験者など結婚は絶望的だ。ごく一部が客と結婚するとか、店の若衆と恋に落ちる程度である。

 そうである以上、誇りを持って吉原において決して男に負けずに、女性の素晴らしさを見せつけてやれ――というのが、西村屋の裏目標である。無論客には絶対に言えないが、西村屋にとって、男娼店の東屋に負けるなどということは、あってはならないことなのだ。

「いいかい? 今回の西村屋の順位は、四位。これがどういう事かもわかるね?」

 誰も答えなかった。一位が東屋として――二位と三位が存在するのである。東屋に勝てないのは、実は内心皆納得していた。なにせ『東屋』というのは通称であり、東と言ったらあの店だとみんながわかるほどに巨大なのだ。店舗の話ではない。影響力である。数多にひしめく男娼店も娼婦のお店も、基本的には名前を覚えてもらうことから開始するのだが、あのお店は、パンフレットにも載っているから、観光前からみんなが大体知っている。

 楼主様が卓の上に遊郭番付を叩きつけた。チラッと見ると、二位『末広屋』と三位『高松屋』という文字が見えた。どちらもこの西区画で、我が西村屋と一位争いをしている遊郭である。末広屋は老舗であり、西村屋同様第三吉原設立時から存在するそうだ。高松屋は逆に、一昨年出来たばかりの新興店である。だが、第三吉原では、半年位で潰れるお店が多いので、新しいお店は珍しくないし、その中では続いている方だ。勢いもある。末広屋は昔ながらの遊郭であるが、高松屋は俗に言うキャバクラである。高級クラブだ。

「ただお酒を注いでいるだけのお店に、あんた達は負けたんだよ」

 自身も娼婦経験者である楼主様が、バンと卓を叩いた。
 ――我が西村屋は、誇りを持って『娼婦』を名乗る、性を切り売りしている風俗である。なお、末広屋や東屋は、会話自体を売りにしていて、三回以上通ってからようやく床に入る。高松屋に至っては、完全に会話のみで、性行為は一切ないと聞く。枕営業も禁止だ。

 しかし西村屋は、五つの籬があり、上から順に松・竹・梅・菫・水草と呼ばれるのだが、花魁が並ぶ松の籬の遊女であっても、即日で体を重ねる事が許されている。なお、竹が専用部屋を持つ高級娼婦であり、梅の籬は外出に誘って第三吉原の各地にある宿屋で行為を行う。梅は遊女になったばかりの幼い子の籬である。そして菫が、取り敢えずヤりたい場合に、サッと購入して、店の三階の好きな部屋で致すのだ。好きな部屋の選択で、相手の富裕度は分かるが、基本的に庶民の性のはけ口の正しき場所なのである。私が入っている水草は――菫の中で年老いた遊女が集められる部屋だ。十九歳からは、年寄りと呼ばれる。遊女は、十五歳から十七歳までが花であり、十八歳がギリギリ、十九歳からは人権があまりなく、二十代以降は、後輩教育を担当する高級遊女以外は年季明けまで、ただ誰かに買われて過ごす事になる。むしろ買ってくれる相手がいれば幸福だ。

 私は十二歳から十五歳まで見習いをして、水揚げされてから梅の籬に入った。その後、菫に移動させられて、現在は水草にいる。お店の外には出たことがないから、噂に聞くデートなどしたこともなければ、竹の籬の遊女のように自分の部屋を持ったこともないし、松の籬でチラッとしか顔を見せない花魁のように上質な打掛を着たこともない。男性に丁寧に扱われた経験も、性技ですら無い。店が用意した香油とバイブで体をほぐしておき、定時になったら突っ込まれて、一時間半ポッキリで相手をし、シフト終了まで客を取って、寄宿舎に戻って眠っている。

 世界情勢も知らないが、それ以前に、店の格付けにすら無関係だ。
 楼主様が怒鳴っている相手も、店の稼ぎ頭の花魁さんや部屋持ちの遊女であり、私のような下層の娼婦に向かって話しているわけではない。別段私のような遊女が珍しいわけではない。これは事実であり、自己卑下ではなく、私は平均的な方である。気持ちの良いSEXなんて記憶上一度もないが、お客様が気持ち良ければそれで仕事は完璧だ。

「さぁ仕事の時間だよ! 行きな! 菫以下はノルマ四人!」

 楼主様が叫ぶように言ったので、私達は移動した。
 私は店が買ってくれた水色の打掛を羽織り直し、前に結んだ紺色の帯のリボンを直す。
 籬に入り、定位置の右から四番目に座って、目の前にある丸い鏡の位置を正した。この鏡に映った顔で本来は選ぶらしいが、水草の籬の場合は、自分から歩いている人に声をかけて、客引きをすることになる。私は昔からこれが苦手だ。細長いパイプを手に取り、コツンコツンと灰皿を叩く。お香が灰の上にはいくつか刺さっている。木魚があったら仏壇前に見えそうだ。怠い。鏡を改めて眺め、血色の悪い自分を見据える。夜にこうして籬に入る以外では外の空気に触れることはないし、寄宿舎の私の部屋には窓もないから、もう何年もまともに日光にはあたっていない。だから真っ白だ。ファンデーションのせいではな。桃色の口紅も店の支給品、繊維入りのマスカラも支給品。目尻にひいたアイライナーも支給品。全部お店に買ってもらわないと、自分では購入できない。だから借金がかさんでいく。そのため、年季明けまで、年老いても私はここに座っていなければならないのだ。年季があけたらどうなるのだろうか――これが怖い。おそらく第三吉原からは追い出されるので、外に出たことがない私には、そこまでしか分からないのだ。噂では、都内に向かって、個人で娼婦をするらしい。あと一年。一年後に解放されるわけではないのだ。憂鬱に思っていると、目の前に下駄が見えた。

 和装で第三吉原に訪れるのは、大抵の場合外国人客を接待中の裕福な商人である。和を演出しているのだ。私は特技の作り笑いを貼り付けて、顔を上げた。接待帰りに買っていく客は多い。だがすぐに顔を下げた。尋常ではないイケメンが立っていたからである。顔も良くて金もある客というのは、水草の遊女など買わない。大抵は、梅の籬の若い子をデートに誘って、一夜の恋愛ごっこを楽しみ、ヤってから送ってくるのだ。実際その青年は、すぐに梅の籬の方へと歩いて行った。まったく、溜息が出てしまう。

 すると次にすぐ、今度は黒い皮のブーツが見えた。軍の支給品である。
 軍人はかなりよく来る。だから再び私は笑顔で顔を上げた。そして目を細めそうになったが、耐えた。西村屋でも噂のドM客、猪狩陸曹だったのである。私には鞭打つスキルが無いので、あちらの選択肢にも私はないだろうが、選ばれたら困ってしまうので、やはりそれとなく顔を下げた。

 しかし早く客を見つけなければ、ノルマをこなせなくなってしまう。
 昨日までは三人で、私は平均五人はお客様を見つけていたのだが、今日から全員のノルマが四人になるということは、奪い合いが激しくなるのだ。憂鬱だ。そう思っていたら、後ろから肩を叩かれた。見れば若衆の近藤さんが立っていた。

「白雪姐さん、楼主様がお呼びです」

 頷き私は立ち上がった。たまにこういう事がある。私は年数だけは長いので、お酒の注ぎ方からお客様への相槌の打ち方まで、徹底的に覚え込んでいるので、宴会席へのヘルプに行けというお達しである。松の花魁や竹の部屋持ちの遊女は、若くしてそこまで駆け上ることが多いから、一対一は兎も角複数の客の接待が苦手だったりするのだ。そういう場合に、場に花を添えるふりをしながら、フォローをし続けるのも、私のような年嵩の遊女の役目である。白雪というのは私の源氏名だ。本名は私も覚えていない。

 予想通り、竹の籬に普段は入っている彩芽太夫の部屋に、私は助っ人として向かう事になった。彩芽太夫は、気の強い十六歳の美人なのだが、何故なのか私に懐いていて、私にだけデレる。普段はツンツンしている。金髪を高くゆっているキツめ美人の彼女は、大人びた表情をしているのだが、部屋に入った私を見た途端、一瞬頬を持ち上げた。客達は、膝を折って挨拶している私ではなく、彩芽太夫の見せた笑顔を見ている。見惚れている。何だか私まで誇らしくなった。彩芽太夫は本当に綺麗だ。黒に金糸で鶴が描かれた打掛と、内側の赤い着物が艶っぽい。

 部屋に居た客は四人だった。恰幅の良い紋付の壮年男性が、本日接待されている客らしい。その隣に座る茶色いスーツ姿の柔和な美青年が、彩芽太夫の太客である。貿易会社の営業だという加瀬さんだ。加瀬さんと同僚の、右に座っている一人だけカジュアルなアウターを着ている高槻くんは、何度か私も顔を合わせたことがある。大抵この二人は、接待客を彩芽太夫の元に連れてくるのだ。最後の一人だけ、私は見たことがなかった。それとなく観察する。手酌をしている二十代後半くらいの青年は、烏の濡れ羽色の髪と瞳をしていた。アーモンド型の目は、退屈そうで、会話に参加するのも億劫そうである。黒いネクタイを少し緩めてはいるが、同色の外套は羽織ったままだ。すぐに帰るつもりなのだろう。無骨だが長く綺麗な指をしている。端正な顔立ちをしているが、取っ付き難い印象で、どこか冷たそうに思えた。片膝を立てて、あぐらを崩して座っている。ベルトを見据えて、そこそこの高給取りだと判断した。銀が本物だ。何者なのかは不明だ。加瀬さんと高槻くん側にも思えないし、かといって壮年男性の同僚などにも見えない。一種独特の気配を放っていて、この場で浮いていた。どのように相手をしようか。私が呼ばれたのは、この客を帰さず店の利益を増やすためだとよく分かっていた。思案しながら、もう一度青年の様子を窺う。そして私は凍りついた。

 私が視線を逸らした一瞬で、彼は私へと顔を向けていた。冷たい無表情で、じっと私を見据え、射抜くような眼光を放っている。気圧されかけて、唾液を嚥下する音がいやに耳に触った気がした。鼓動が煩く啼き、指先が震えそうになる。しかし私もプロだ。必死に笑顔を取り繕った。

「お酌を」
「結構だ」
「別のお酒を飲まれますか?」

 思わず安堵の息を吐きながら、私は柔和な笑顔を心がけた。会話が成立している。緊迫感を覚えさせられた気配も、少しだけ和らいでいる気がした。しかし、それは気のせいだった。

「高槻、先に帰る。梧桐さん、失礼する。加瀬、飲み過ぎるなよ」

 冷たい声で言い放ち、青年が分厚い封筒を漆塗りの卓の上に置いた。私はそれを凝視してしまった。目算だが二百万円くらいが入った封筒を置いたのだ。確かに西村屋の値段は高い。だが、ただ飲むだけならば、四人全員でも百五十万円程度だ。彩芽太夫を買うとなれば三十分二百万円以上だとは思うが、呆気にとられてしまう。

 立ち上がった青年が出ていこうとしたので、私は慌てて立ち上がった。

「お見送りを」
「そうか」

 すると青年が睨むように私を見た後、頷いて歩き出した。本当は障子を開けるのも先導するのも私の仕事だというのに、彼はどんどん歩いていく。道に迷うこともない。足袋で着物を踏みそうになりながら、私は頑張って追いかけた。見送りどころか、見失わない為に必死になる。普段動かない私には、こんなに早足の移動は難しい。次第に息切れしそうになった。もうダメだ、酸欠だ。涙が浮かんできた時、私はついに着物の裾を踏んだ。運が悪いことに、そこは階段の踊り場だった。

「あ」

 私は間抜けな声を出して、落下した。長いようで短い一生だった。せめて痛み無くあの世へ――そう現実逃避しながら、目をギュッと閉じる。だが、覚悟した衝撃は訪れなかった。正面から抱きとめられたのである。誰かの腕が、私の腰に回っている。全体重をあずけた私は、額をその人に預けたまま混乱していた。大人びた香水の匂い――それを感じて、慌てて顔を上げた。

「も、申し訳ありません」

 抱きとめてくれたのは、私が必死に追いかけていた青年である。非常に険しい顔でこちらを見ていたが、私が声を出した瞬間、目に見えて安心したように吐息した。

「大丈夫か?」
「はい、本当に申し訳ありません」
「――何に対して謝っているんだ?」
「お手数を……」
「俺に対してよりも、怪我をするところだった自分の体に詫びろ。打ち所が悪かったら、その命、亡くなっていたかもしれないんだぞ」
「は、はい……ありがとうございます」

 彼の言葉に震えが来た。私は階段を一瞥し、今更ながらに恐怖が浮かんできたのを自覚した。震える指先で、思わず青年の黒い外套を掴む。本当に危ない所だった。

「お前、いくらだ?」
「一回一時間半五百円です」
「五百万?」
「五百円」
「朝まで買う」
「朝までだと値引きで、一回四百八十円となり……え?」

 階段に釘付けだった視線を、私は青年に戻した。職業病か、つらつらと答えていた私は、やっと意味を理解して、小さく息を飲んだ。

「今、私を買うと仰せになりましたか?」
「ああ」

 頷き、青年が通りかかった若衆を呼び止めた。若衆の青年まで私とお客様を交互に見て、一瞬驚いた顔をしていた。たまにはあるのだ、彩芽太夫のお客様が私を買ってくれることも。しかしその場合は、彩芽太夫の部屋で彩芽太夫の売上の一つとしてのサービスになるから、個人的に買われるのとは少し話が変わる。

 そのまま恭しい態度になった若衆に先導されて、私は歩き出した青年の後を追いかけた。今度は若衆がいるせいなのか、足取りはゆっくりしている。それは良かったが、事態がよく分からない。

 さらに通された部屋を見て、私は気が遠くなりそうになった。そこは、この西村屋の中で、花魁と呼ばれる上級中の上級者が、たまにお忍びで訪れるスペシャルVIPを相手にする時に使用されると、話にだけ聞いたことがある最高級の部屋だったのである。背筋が冷えた。ここに通されたのだから、この青年は、即ち非常に凄い人なのだろう。何が凄いのかは不明だし、私はこれまでの人生で、スペシャルVIPなどという人種には出会ったことがないから、その言葉が指す人々の素性も知らない。

 パタンと後ろで扉が閉まる音がした。廊下の扉で、続いて鍵の音もした。
 障子で廊下の様子は見えない。
 部屋の中に部屋があるのが、ここの造りだ。

「あ、あの……」
「座れ」

 金箔が散りばめられた黒漆の卓の前に堂々と座って、青年が言った。外套を脱ぎながら、私を見ている。明らかに安っぽい打掛の私は、場違いである。動揺するなというほうが無理だった――が、私はプロだ。プロなのだ。自分にそう言い聞かせて、私は卓に歩み寄り、角を挟んで斜めに座った。すると怪訝そうな視線を向けられた。

「お前の席は向こうだ」
「え?」

 青年の視線を追いかけると、虎が描かれた屏風の前の高座に、豪華な座布団があった。あれは花魁どころか、高貴な華族女性が座る場所に思える。遊郭にはたまに女性客も観光に来るのだが、その時に座る場所にそっくりだった。もう少し簡素なものならば、花魁が座る席にも存在するが……私が座る席には思えない。

「お側に置いてくださいませ。私は白雪と申します」
「別に俺は構わないが。白雪、か。色白だからか? 色白は七難隠すと言うな」

 酷い言いようだなと思ったが、よく言われるので私は笑顔で流した。それよりも名前を早く聞かなければ。焦りながらも笑みを浮かべた。

「お名前はなんと仰るんですか?」
「黒木政親だ」
「一晩も私を買ってくださるなんて、お金持ちなんですね。すごい!」
「千五百円だったが」
「千五百円……私の月収と同じです」

 感動して私は息を飲んだ。世の中には、やはりこのようなお金持ちもいるのである。二百万円をさっと出していたのも驚いたが、あれは事前に用意できたと私は思う。しかしながら気まぐれにお財布から出すには、千五百円というのは高額だ。

「馬鹿にしているのか?」
「え?」
「それとも西村屋流の冗談か? 千五百円では、満足に食事を取ることすらできない。そもそもの話、白雪、お前が一回五百円というのは本当の話なのか? 美人局を疑うが、このような老舗が俺を相手に詐欺を働くとは思えない」
「どういう意味でしょうか? 誓って詐欺など……何か失礼がございましたか?」
「遊女ならば一晩数億を動かすだろう?」
「え? ええ、花魁道中の開催には、一回二億円かかります」
「お前のひと晩の稼ぎは?」
「五千円ほどです」

 私は見栄を張った。折角の太客である。少しは高級そうに装わなければならないだろう。すると黒木様が呆れたような目で、腕を組みながら私を見た。

「時給か?」
「いえ、一回一時間半五百円です。時給に直すと……申し訳ございません、私、算数が苦手でして……」
「そうらしいな。月収が千五百円では計算が合わない」
「千五百円以上は、借金の返済に回されるんです」
「――なるほど。いくらなんだ?」
「七千万円とここに来てからの生活費を、十五歳より返済しております」
「上級の娼婦のひと晩の稼ぎは?」
「約一億円と聞いております。お呼びしましょうか?」
「興味がない。白雪、お前が最近買った一番高級なものは何だ?」
「クシを買いました。クシは他者から頂いてはならないと決まっておりますので、百三十円という痛い出費でしたが、お財布の紐を緩めました」
「念のため聞くが、百三十万円ではなく、百三十円なんだな?」
「はい」
「遊女と一般の人間では金銭感覚が違うと聞いたことはあるが、まさか下だとは思わなかった。豪遊している印象だったが、お前の話を聞いていると逆に思える」
「豪遊できるような遊女はとうに足を洗っておりますし、そもそもあまり吉原には売られてこないと思います。私の家も貧乏でした。毎日もやしを食べていて、さらにプランターでもやしを育てておりました。平民なんてそのようなものです」

 私の言葉に、黒木様が押し黙った。そしてチラリと卓上のお品書きを見た。

「今は満足に食べているのか?」
「ええ、賄いがございますので――何かお頼みしますか?」
「俺は別に良いが、お前が食べたいならば頼むと良い」
「宜しいのですか? では……――申し訳ございません、私、カタカナは読めるのですが、どのようなお料理かは分からなくて……バルサミコとは、どんな料理でしょうか?」
「酢だ」
「調味料?」
「……――頭が悪いから、お前は売り物にならず、他人の部屋の酌に回っているのか?」

 図星を刺されて私は言葉を失った。実はそうなのである。私は喋るとダメだそうで、話す必要がない肉体を売る仕事に回されたのである。だが自分で頭が悪いと宣言するのも気が引けた。そんな私を、冷めた目で黒木様は見ている。黒木様は見るからに頭が良さそうだ。そこでふと思いついた。

「黒木様は、どうして私を買ってくれたんですか?」
「階段から落ちて震えていたから、あの後仕事をさせるのが不憫だった。それならば一晩部屋で休ませてやろうという配慮だ」
「え」

 私は感動しながら目を見開いた。誰かにこのように優しくされた記憶などない。階段から突き落とされたことならばあるが、落ちたところを心配されたことなどないのだ。突き落とされたといっても、見習いの子が遊んでいて激突してきただけだが。

「ありがとうございます」
「礼は不要だ。俺にも責任がある。お前を振り切ろうと考えて足を速めていた。引き止められるかと勘ぐったんだ。言っては悪いが、この店の遊女はしつこい。母親や姉を彷彿とさせる類の悪い意味合いで」
「も、申し訳ございません。ただそれは、黒木様のお顔が端正だからだと存じます。遊女にだって、引き止めたいお客様と早く帰って欲しいお客様がいます。やっぱり抱かれるならイケメンが望ましいと聞きます」
「――お前もそうなのか?」
「イケメンに抱かれた事が無いから何とも言えません。ただ私としては、変態趣味がなく、それなりに意思疎通が可能で、きちんと文句を言わずに五百円払って下さるお客様こそが神様だと思います。贅沢を言うなら、優しいと良いでしょう」
「西村屋では、他の客の話を別の客に話すことを推奨しているのか?」
「あ、す、みません……つい……申し訳ございません」

 頭を深々と下げて、私は自分の迂闊な口を呪った。私はお酌は得意だし、相槌も得意なのだが、自分から話すのはお世辞にも上手ではない。考えてみると、ずっと黒木様は冷たいお顔のままだ。折角気遣ってもらったのに申し訳がない。そう考えていると、喉で笑う気配がした。顔を上げてみると、面白そうに黒木様が笑っていた。

「では、意思疎通が不可能な変態趣味の持ち主だが、一晩に千五百万円払う優しい客ならどうだ?」

 腕を引かれて、そのまま畳の上に押し倒された。髪の後ろに感じた衝撃に息を飲んだ時、噛み付くように首筋にキスをされた。左手で胸元の合わせ目をはだけられる。無骨な指が優しく私の胸を持ち上げた。いきなりの事に狼狽えながら黒木さんを見上げる。だが、私としてみれば、こうやって体を弄ばれる方が毎夜通りで自然な事である。

 そして、夜が始まった。

 着物を向かれた私は、それを敷布団の代わりにして、適当に喘ぎながら黒木様を見る。ごくごく普通のSEXであり、別段変態趣味は感じない。快楽も特にない。黒木様は右胸の乳首を舐めることにご執心である。左手では私の太ももを持ち上げていて、斜めに挿入している。立派な楔をお持ちであり、長く太い。事前に香油で慣らしておいて良かったと久しぶりに思った。大体のお客様は、話しているだけで私が濡れたと勘違いしてくれるのだが、黒木様も疑問を持った様子はない。早く終われ。早く朝になれ。心配してくれたのは本当だろうが、所詮客は客だ、だって私を抱いている。あ、イきそうだと思った所で、中に黒木様のものが飛び散った気配を感じた。避妊具は無いが、西村屋では事前に最先端科学による妊娠阻害薬が投与されているから問題はない。さて、私も果てたふりをして、それっぽい息遣いをしながら、黒木様を見上げた。後は睦言を囁けば、いつも通りで仕事は終了だ。高級なお部屋だろうが安いお部屋だろうが、やる事は同じである。客も、私も。

 黒木様が腰を引き、私の中から出ていく。
 やっと終わった――そう考えていた時だった。

「――え?」

 気を抜いた一瞬で、両方の太ももを帯で縛られた。足首と太ももに帯が絡みつき、閉じられないようにされる。驚いて起き上がろうとすると、両方の手首を握られ、畳の上に引き倒された。そして手もひとまとめにされて、こちらは黒木様のベルトで拘束された。西村屋は、こういうプレイのお店ではない。あっけにとられた私は、抗議しようとしたが、唇を口で塞がれた。これまでには一度もキスをしていなかった。ねっとりと貪られ、舌を追い詰められる。それから甘く噛まれた時、私は震えた。唇が離れた後、楽しそうに笑っている黒木様が真正面に見えた。ゾクリとした。本能的に危険だと思ったのである。

「ぁ……ぁ、ぁ……」

 黒木様の舌が私の頬から首、鎖骨、胸へと這う。そして左の乳頭を、初めて唇に挟んだ。私は、右よりもずっと左が感じる。それを知っていたかのように甘く噛まれた瞬間、ぎゅっと私は目を閉じた。ジンと体の奥に快楽の火が灯る。舌先でチロチロと舐められて、私は涙を浮かべた。右手の指先は、私の腰骨を押すように強めに撫でている。そこを押されると、何故なのか体の奥が痺れたようになる。まずい、こんな愛撫は、記憶上水揚げ前の練習時以来だ。高く声を上げそうになって、震えながら唇を引き結ぶ。演技で喘ぐのは良いのだが、感じて声を上げるのは、はしたないとされているのだ。

「ぁ、ァ……っ……」

 それから舌は私の脇腹をなぞり、太ももの付け根に到達した。そして太ももの裏側をネットリと舐め始めた。閉じられないから、されるがままになる。じわりと愛液が滲んだ気がした。つま先がすぐに震え始め、私は早く中心を舐めて欲しいと期待した。涙で滲む瞳で黒木様を見る。時折黒木様も私を見る。だが舌は太ももの次は膝の裏を舐め、その後は足の指を一本一本しゃぶり始めた。艶かしく動く舌の感触に、私は腰を震わせた。自然と動いてしまう。

「あ……ぁ……」

 それから指でゆっくりと濡れた入口をなぞられた。蕾に触れるギリギリまで指は動き、そして再び下へと降りては、また上に来る。緩慢な動きにもどかしくなりながら、私は水音を聞いて羞恥に駆られた。そうされると、中も熱くなってくる。

「は、早く」

 ついに私は口走った。するとクッと笑う気配がして、右手の二本の指が中に入ってきた。また舌先で蕾を軽く刺激された。やっとこの熱から解放される。きっと最高に気持ち良くなれる。いつぶりだろう――そう考えていたのだが、私は直後むせび泣くことになった。二本の指は気持ち良いところの真横であり、刺激は響いてくるのだが、ギリギリの所で物足りない。また舌先も蕾の右側ばかり舐める。私は左側を刺激されるのが好きだ。右では感じるが上手く果てられない。

「ゃ、いや……いやあああああ」

 気づいた時、私は絶叫していた。イきたくてイきたくてイきたくて仕方がないのにイけない。ダメだ、気が狂ってしまう。全力でもがいたが、帯のせいで自由にならない。泣き叫び、必死に呼吸をしながら、体を揺らす。なんとか欲している刺激を求めようとした。

「ああ、あああっ、や、やだ、いやっ」
「――そうか」

 黒木様はそう言うと口を離し、指も抜いた。そして楽しそうに私を見下ろした。完全になくなってしまった刺激に、私は泣き叫んだ。だめだ、熱い、体が熱い。

「イかせてっ」
「断る」
「あ、あ、あ」
「――話が通じない変態趣味だと言ったはずだ。俺は女を焦らして、悶えさせて、視姦するのが好きなんだ。特に余裕が有る、男を馬鹿にしたような女を、気が狂うような快楽に突き落として果てさせない時、どうしようもない優越感を覚える」
「ああああああああああああああ」

 耳元で黒木様が囁いた。その吐息を感じただけで、何もされていないというのに私は果てた。呼吸が苦しい。泣きながら、私は着物の上に全身を預けた。乱れた髪が、肌に張り付いているのが分かる。全身が汗ばんでいて、体中が熱を逃がそうと必死になっていた。

 帯を解いてから、ぐったりしている私を、黒木様が抱きしめた。

「だが、たまには素直なバカも良いな。階段から落ちた間抜けに一晩部屋を取ってやる優しさを発揮した甲斐があった。この部屋の代金――千五百万、既に支払ってある」
「……」

 何か言おうと思ったが、言葉が出てこない。黒木様の腕に頭を預けて、私は頬で畳の温度を感じていた。鉛のように重い体で、黒木様の硬い胸の感触を知り、密着した肌が安心感を覚えている気がした。

 私が次に目を開けるともう朝で、奥の部屋の布団の上に横になっていた。
 もう黒木様の姿はどこにもなかった。
 部屋を出て階下に降りると、若衆の一人が浴場に促してくれたので、私は夢でも見ていたのか悩みながら、ゆっくりとお湯に浸かった。しかし夢ではなかったようで、入浴後待ち構えていた楼主様に呼び出された。

「さすがは玄人の白雪姐さんだね、よくやった! 昨夜の黒木様、三千万円も置いていって下さったよ」
「え」
「白雪のお給金も、今月は三万円は硬い。良かったねぇ」
「本当ですか?」

 嬉しくなって、私はギュッと両手を握った。三万円も自由に使えるのだ。未だ嘗て経験がないが、夢に見たことはある。私は一度で良いから、神戸牛をお取り寄せしてみたいのである。お店の外には出られないため、私達の楽しみはお取り寄せなのだ。

「連絡先は交換したんだろうね? すぐにお礼を」
「あ」
「……白雪姐さん?」

 そんな暇は無かったのだ。無かった。無かったのである。しかしいくらそう訴えても、楼主様の怒りは収まらないだろう。私は何も言わず、楼主様からの糾弾を甘んじて受けた。十五分くらい説教された後、不意に楼主様が思い出したように言った。

「そうそう、美夜恋の水揚げの話もしないとね」

 美夜恋というのは、彩芽太夫付きの見習いの少女で、現在十四歳である。店に出る前に、初めてを捧げるのが水揚げだ。簡単に言えば。そして花魁候補の場合は、沢山の取材が来る。みんなの前で、初めて体を暴かれるのである。大抵は、自分の付いている姐さんの太客に抱かれる事になる。身元が確かな大富豪が多い。

「青山銀具店の大旦那に頼んでいたんだけれどね、ぜひ息子に泊付をと頼まれてねぇ」

 水揚げ相手に指名されることは、名誉なことであるらしい。だからこういう話はたまに聞く。

「それでねぇ、失敗しないように、事前に童貞を捨てさせたいんだそうだ。今夜お座敷を用意しておくから、頼んだよ」
「はい」

 本来それは彩芽太夫の仕事であるが、文句は言えない。彩芽太夫は、閨が苦手なのだ。私は得意というかプロなので、この程度いくらでも代われる。それに彩芽太夫は忙しい。私は暇であるし、この仕事を受ければ、今夜のノルマは無くなる。

 こうして私は、夜を待った。今回のような場合は、店が特別な打掛を貸してくれる。
 今日の私は、銀色の蝶が刺繍された、深い紫色の打掛姿だ。中の蒼の着物には、淡い色合いの花が咲いている。この花の名前を私は知らない。

 足音が近づいてきた時、私は高座で玄人遊女風にパイプを銜えていた。童貞だというから、大人の余裕を見せて安心させようと思ったのである。こういうちょっとした演技も店で見習いの頃に学ぶ。

 若衆が障子を開けると、若草色の紋付姿の青年が一人入ってきた。茶色い髪と瞳をしていて、年の頃は十代後半だ。高校生ではないと思う。大学生――少なくとも、このご時世に一般的な学校に行ける程度に裕福なのはすぐに分かった。士官学校では無いだろう。物腰が柔和だ。もっと言うと、先日籬の前を通りかかったイケメンである。障子が閉まったので、私は声をかけた。

「どうぞこちらへ」

 緊張をほぐそうという演出で、微笑しながら私は立ち上がった。本来は立ち上がったりしない席にいたのだが、私は高級な遊女のフリをしていただけなので、問題ない。一段低い場所の朱色の卓に座り、青年を見た。

「お座りください」
「ベッドに行かないんですか?」
「当店はお布団です」

 反射的に私が答えると、青年が吹き出した。私の正面に座った青年は、茶色い目を細めて、私をニコニコしながら見ている。若い。

「お姉さんは、玄人なんですよね?」
「白雪とお呼び下さい。ええ、何も心配しなくて大丈夫ですよ。私に任せて下さい」
「僕は晶史です。馬刺し頼んでもらって良いですか?」
「ええ、勿論です」

 それから少し食事をした。店の者は酒類を持ってこなかったから未成年だと判断していて、話を聞いてみたら十九歳だと分かった。もう少し若く見える。大学一年生との事で、高校までは男子校だったと聞いた。だから童貞なのかもしれない。一人納得しながら、明るい晶史くんのお話を聞いた。『様』と自分のお客様のことは呼ぶのだが、彼は普通に呼んで良いと言ってくれたのだ。こちらとしても気が楽である。

 こうして閨へと移動した。手とり足とり教えなければと、私は気合を入れた。
 自分から一枚ずつ服を脱ぐ。正面に座っている晶史くんは、真剣な瞳で私を見ている。

「まず服を脱いだら、愛撫をします」
「へぇ。俺、されたことない」
「え、いやあの、女の子に!」
「咥えてくれるんじゃないんですか?」

 晶史くんが驚愕したように目を丸くしたから、私は息を飲んだ。そう言われたら私だってプロだから、フェラをするしかない。だが実は……私はド下手らしいのである。震える手で、晶史くんの服を脱がせ、それでも私は頑張って口に咥えた。見た目は若い子だと思ったが、これまた立派なものをお持ちだった。正直受け入れる側としては、適度に短く小さい方が楽だったりする。そこではたと思い出した。

「あのね、晶史くん」
「なんですか?」
「初めての子は痛がるから、半勃ちくらいで挿れてあげたほうが良いかも」
「そうですか。それはともかく、もっと深くお願いします。全然慣れてる気配ないんですけど、本当に玄人なんですか?」
「っ、す、すみません」

 私はフェラを再開した。晶史くんは、段々しらっとした顔つきになってきている。気持ち良くないのだろうか。反応はしているが、童貞だというから、妄想より気持ち良くないことが残念なのかもしれない。

「もう良いんで、乗ってもらえます?」
「へ? は、はい!」

 いつしか主導権が逆転していた。私は彼の肩に手を置き、ゆっくりと腰を下ろす。入ってくる。生々しい熱が、私の中を押し広げていく。入りきって一息ついた時、晶史くんに失笑された。

「女子大生以下の玄人」
「――え?」
「本当に僕が初めてだと思ってたんですか?」
「な」
「僕別に白雪さんにSEXについて教えてもらうことは一つもなさそうです。逆に――教えてあげましょうか?」
「えっ、ぁ、あああ、ま、待って、動かないで」

 晶史くんが腰を揺らし始めた。慌てて私は、彼にしがみついた。すると晶史くんは動きを止め、ぎゅっと私を抱きしめた。

「分かりました」

 ホッとして私は両腕に力を込める。晶史くんは、私の脇の下に腕を回し、体勢を整えた。正面から私を受け止めるように抱きしめている。繋がったままで、私達は抱き合った。次第に体が熱を帯び始め、私の中が蕩け始める。最初から香油で濡れてはいたが、蜜が溢れ始め、息が上がってきた。段々緊張もほぐれてきたので、私は晶史くんを見上げた。

「あ、ねぇ、もう大丈夫」
「ふぅん」
「だから、あの」

 動いてくれと、瞳で私は訴えた。だが晶史くんはニコニコしているだけだ。その時初めて私は、がっちりと抱きしめられているから、身動きできないことに気がついた。そんな状態で、どんどん晶史くんのものは固くなっていく。長くなり、太くなり、存在感が増していく。私は目を見開いた。先程のは、半勃ちだったのだ。私が教授した事なんて、晶史くんはとっくに知っていたのだ。私は処女ではないが、それでも気遣ってくれたのだろう。

「あ、ああ、あ」

 だが、そんな事を考えている余裕はすぐに消えた。体は動けない、だが熱い。何かがせり上がってくる。激しく腰を動かしたいという欲望が私を埋め尽くしていくのに、晶史くんの手がそれを阻止している。

「や、ぁ……ァ……ああっ」
「中、とろっとろ」
「うあ、ぁ、あ」
「すごく動いてる、絡みついてくる感じがする」
「っ、ぁ……ぁ……ぁ、ああっ」

 全身がかっと熱くなり、震えだした。涙がこみ上げてくる。快楽からだ。溶けてしまいそうだ。それが怖い。知らない、こんなにもゆっくりと沸き上がってくる快楽なんて、私は知らない。穏やかに穏やかに、なのに容赦なく快楽の奔流が、繋がっている箇所から堰を切ったように襲って来る。

「やああっ」

 ついに私は、涙声を上げた。漏れ出していた嬌声とは異なり、これは恐怖からの拒否だ。全身に響いてくる快楽の熱が怖い。しかし晶史くんは一切動いてくれない。けれどいま動かれても気が狂ってしまう気がした。呼吸が上がり、私は震えるしかできない。

 そのまま私は果てた。中が収縮しているのが自分でもわかる。晶史くんのすべてを絞り出すように蠢いていた。だが、それでは終わらなかった。晶史くんはなおも動かない。

「いやあああああああ」

 私は泣き叫びながら、その夜何度も、そのまま果てさせられた。
 全身が泥のようになり、お見送りはできなかった。
 玄人は、晶史くんだったのである……。

 それにしても、気持ち良いSEXをしたいと思っていた一昨日の日中を思えば、この二日連続の快楽の夜は、予想外過ぎた。

 しかしもう終わりだろう。普通の日が戻ってきたと確信しながら、私はお風呂に向かった。今日は休日である。お店は休みだ。ゆっくり眠ることに決める。薬草湯に浸かっていると疲労が溶け出していくようだった。

 気持ち良ければ良いというものでもないのだと、私は理解させられた気がする。あのように快楽をじわじわと煽られると、持久力が欠落している私には辛さが大きい。もっとこう、ささっと気持ち良くなりたいというのは、贅沢なのだろうか。しかしながら、普段の気持良くない場合と比較するならば、黒木様や晶史くんは随分とマシだろう。まぁ、もう二度と会うこともないだろうが。

 お風呂から出て、私はまっすぐ寄宿舎に向かおうとした。
 だが、楼主様が待ち構えていた。これもまた二日連続である。
 しかし今回は心当たりがないから、何か失態を犯したのだろうかと怯えた。

「白雪姐さん、休日に悪いんだけどねぇ、指名が入ってるんだよ。良かったねぇ」
「――え?」
「黒木様。実は昨日も来て下さったんだよ。ただ、ほら、水揚げ稽古中だったからねぇ、お帰り頂いたのよね。そうそう、これを期に、白雪姐さんも今日から、竹の籬に入ると良いよ。黒木様がいらっしゃるお部屋を整えたからねぇ」

 ポカンとするというのは、こういう事かもしれない。
 その後私は、お引越しをした。寄宿舎から、自分の部屋へと移動したのである。荷物はほぼないし、部屋には基本的に私物はあまり置かない決まりだ。お店が用意してくれた屏風や打掛、雪洞などが調度品として並んでいる。困惑しながらもお店に出て、促されるままに、私は竹の籬に入った。他の遊女達は、皆私の昇進を喜んでくれた。全員私より年下であり、彼女達が見習いの頃に、お酒の注ぎ方などを私が手ほどきしたので、慕ってくれているのである。ずらっと並んだ美人の中で、私は端の隅に座り、笑みを引きつらせた。完全に場違いである。

 さて本当に来るのだろうかと思っていたら、開店早々黒木様はやってきた。
 店の中に呼ばれ、私は緊張しながら自分の部屋に向かった。部屋で私は待つらしい。こういう形態は、見習いの頃にやったっきりである。深呼吸していると、障子が開いた。若衆に先導されて入ってきた黒木様は、部屋を二度見回してから、改めて私を見た。

「前の部屋よりも狭くて落ち着くが、この狭さで生活は可能なのか?」

 私にとっては巨大な部屋なのだが、黒木様は純粋に疑問そうだった。
 立ち上がって、私は朱色の卓の前に座る。馴染みのお客様だから、近くで接待しても良いはずだ。私は今日、竹の籬の部屋持ちになっただけなので、裏を返したりといった遊郭の通過儀礼とは無関係である。

「特に問題はないと思います。今日引っ越したばかりなので分かりません」
「今日引っ越した? 今までは何処にいたんだ?」
「裏手の寄宿舎です」

 答えながらお品書きを差し出した私に、黒木様が何度か頷いた。
 黒い外套を脱ぎ、ネクタイを緩めながら、酒の欄を見ている。
 その後、麦焼酎と氷を頼むことになった。それが届いてから、黒木様がポツリと言った。

「昨日の客はどうだった?」
「動いてくれませんでした」

 私はマドラーを動かしながら目を伏せた。考えてみると、あれも一種の変態趣味だろう。グラスを渡すと、受け取りながら黒木様が喉で笑った。

「良い趣味の客だな。気が合いそうだ」
「客というか、お手伝いだったんです」
「手伝い?」
「ええ。店のお仕事で、私の客ではなくて」
「別に俺はお前に他の客がいても気にならないが」
「そういう意味じゃなくて、童貞の筆卸しを頼まれたら、童貞じゃなかったんです」
「そういう意味という事にしておけば良いものを――悪い、笑った」

 黒木様が吹き出した。前回とは違い、今日は明るい。

「結果、童貞詐欺者に良いようにされたのか」
「まぁそうなりますね」
「俺は昨日、美夜恋という見習いと雑談しながらお前を待って、お前が来ないから責任をと言って彩芽太夫の接待を受けた」
「え?」

 私は驚いた。私と彩芽太夫の位置が逆ならば分からなくはない。が、普通はその場合でも、彩芽太夫の代わりならば、他の竹の籬の高級遊女が出る。考えられる事としては、太客の黒木様を、彩芽太夫か――できればこれから店に上がる美夜恋のお客様にしたかったという事だ。私がすべきことは、売り込みである。

「良い子達だったでしょう? いやぁ、もう、彩芽太夫はさすがの才女で麗しい外見を裏切らない性格美人でもありますし、美夜恋もあの歳ながらに繊細な大人の美を誇り――」
「閨は断ったぞ」
「え、どうして? 彩芽太夫が閨を開けるなんてめったにない大幸運ですよ?」

 これは事実である。彩芽太夫は性的な事柄が嫌いらしいのだ。

「そこで驚かれてもな。それに他の遊女を勧めるというのも腹が立つな。お前は俺に興味がないのか?」
「あ」
「巫山戯ているのか? 睦言の一つも吐いてみろ」

 黒木様が呆れたように笑っていた。
 私は失敗を悟った。実際には閨に行っていようがいまいが、普通は呼んだ遊女には言わない。この店は、何度でも指名を変えられる。大抵の場合、「本当はお前だけだ」とか、今回のように「お前以外とは寝ていない」という甘い言葉を囁く。一種の遊びなのである。私はそれを間に受けてしまったわけだ。プロ失格である。

「まぁ実際に、閨には入っていないし、俺は断った。俺はな、期待に満ちた目をしているくせに受け身な女が嫌いなんだ。お前のように、どうでも良さそうなのに、口だけで迫って来る女をドロドロにするのが好きなんだ」
「よ、良いご趣味ですね」
「そういう獲物を見つけた時、どうすれば俺を見るか考えるのが楽しい。最初から俺を見ているのではつまらない」
「獲物……」
「職業病かもしれないな」
「え?」

 私は驚いた。二つの意味で驚いた。一つは、黒木様がプライベートの話をする印象が無かったから、職業という言葉が出てきたことに驚いたのだ。もう一つは、獲物を追い詰める職業を想像できなくて、一体どんな職業病なのかと驚いたのである。

「俺の仕事が分かるか?」
「分かりません」
「当てたら、今夜は抱かずに添い寝で許す」
「漁師! 魚!」
「近いようで遠いな」

 黒木様がまた笑った。今日は機嫌が良さそうだ。まだ二回目だが、私なりに表情から色々と探る努力をしているのだ。

「しかし添い寝が良いと即答するのだから、やはり睦言とは遠い――まだ回答を受け付けるが、他の候補は何だ?」
「農家!」
「理由は?」
「見ているというのはきっと、比喩なんです。成長の比喩です。勝手に育つ雑草と、なかなか育ってくれないお米の違いを考えたのではありませんか?」
「――ほう。他には?」
「え……林業?」
「白雪には、俺が大自然に触れているように見えるのか?」
「見えません……ただ、わざわざ質問するのだから、意外性があるのかと思って」

 私の言葉に、意地悪い笑みを浮かべながら、何度か黒木さんが頷いた。

「俺は、第二空軍所属のパイロットだ」
「え?」
「空軍の大尉だ。この前、俺と一緒にいたのは武器商人。彩芽太夫の所に連れてきた、お前も顔見知りだった二人は、貿易会社の社員だ」
「貿易会社というのは聞いていますけど……――え?」

 呆気にとられるしかない。軍人はよく見るが、基本的に一番上でも軍曹さんまでしか見ない。空曹さんに至っては、足を踏み入れた瞬間から、第三吉原中に丁寧にするようにお達しがある。また、准尉より上の階級の人は、陸海空のどの所属でも、やはりその扱いになる。空軍の大尉というのは、両方の意味で非常にすごい。最先端軍事機で、敵を爆撃するからだ。飛行機の中から、無人ドローンを操作するらしく、数少ない前線に行く職業なのである。ポカンとした私に、黒木様は満足そうな笑顔を浮かべた。

「この前、俺を見ていなかった空母を撃沈させて、な。休暇を貰った」
「そ、それって、太平洋ですか? 神鷹改?」
「知っているのか? ああ。俺の機体は、神鷹だ。昔の軍艦から名前を取ったらしい」

 ちょっとどうして良いのか分からなかった。私とは住む世界が違いすぎる。経済観念でも同じ事を思うが、そう、きっとこれこそが、彼こそが、スペシャルVIPなのだろう。

「しつこい敵戦機は嫌いなんだ。弱いくせに寄ってくるからな。全て叩き落としているが――……やはり追い詰める方が俺には向いている。それは対人関係においてもそうなんだが、忙しすぎて恋愛をする余裕がない」

 自信がある様子だが、私にはとても危険な職業に思える。いつか黒木様がいなくなってしまうのかと考えると、不安になった。二度しか顔を会わせていない私が不安なのだから、彼のご家族や友人はもっと不安だろう。

「大変ですね。今は、お見合いパーティなどもあるそうです。軍人さん専用の。楼主様に紹介してもらいましょうか?」
「――普通、忙しすぎて恋愛が云々と言ったら、それは恋人がいないというアピールであり、真面目に結婚相手を探してもらいたいわけではない。過去には許嫁がいた事もある。いいか? アピールでない場合は、言い寄られた時に、その相手に興味がない場合の断り文句だ。今回の場合、どちらか分かるか?」
「ご安心ください。私は、黒木様に恋人がいないと聞いて嬉しくなりました――これが正答ですよね?」
「ああ、そうだ。そこまで馬鹿でなくて安心した。実はな、一昨日来て思ったんだ。遊女ならば、忙しい時に会いたいだの何だのと連絡を寄越す心配もなく、戻ってきた時にはすき放題体を重ねる事が可能だ。お互い遠方にいる場合に、他者と肉体関係を持っていても、元々俺は気にならない方だが、周囲が騒ぎ立てることもない。理想の恋愛関係を築く事が可能だと感じた。恋愛自体も、別に本気である必要はない。気まぐれに恋愛をしている気分に浸りたい時、遊女はそれが仕事であるから、甘い言葉に応えてくれるだろう。その気になれば、連れ出すことも可能だ。デートをしている気分も味わえる。つまり、何が言いたいか分かるか?」
「全く分かりません」
「俺の恋人にならないかと言っているんだ」
「え?」

 滝のように汗をかくという表現の意味を、私は理解した。ダラダラと汗が出てきた。二度、素早く瞬きをしてみる。恋人……? 私は生まれてこの方二十四年、一度も恋人がいたことはない。十二歳からは、店の外にも出ていないから、男の人はお客様と若衆しか見た事がない。その彼らにも、一度もこのように恋人になろうと言われたことはない。だが、私の印象として、恋人になる場合「好きだ」とか「愛している」と言った単語が先に出てくるのが恋愛関係だった。黒木様が言っているのは、単なる肉体関係に思える。

「恋人って何をするんですか?」
「俺は優しいから、カノジョの願いは基本的に叶える。逆に聞くが、何をしたい?」
「こ、神戸牛のお取り寄せを……」
「明日持参する。他には?」
「他……最近他に考えたことは、気持ちの良いSEXがしたいことくらいで……」
「傷つくな。この前のは、良くなかったか?」
「良かったんですけど、もっとこう、神戸牛に優しさを発揮するのではなくて、布団の上で優しさを発揮して欲しいと言いますか……辛くなく、ささっと私を気持ち良くして欲しいというか……まぁ私が気持ちよくする側なんですが……」
「ささっと? くっ」

 黒木様が何故なのか、今度は声を上げて笑った。私にとっては切実な問題である。

「そこばかりは変えられない。お前が俺に慣れろ」

 そう言うと、黒木様がグラスの中身を飲み干した。
 そのまま私達は閨へと移動した。するすると着物を脱がせられながら、私は思案する。恋人になると私は言っていないが、黒木様はもう恋人のつもりなのだろうか? ならば遊女は恋愛のプロでもあるはずだから、私も恋人らしい振る舞いを意識しなければならないだろう。言葉ならばそれこそ「好きだ」「愛している」で良いかもしれないが、恋人らしいSEXとは何だろう? そんなものは存在するのだろうか?

「ン……」

 唇を重ねながらも、私は考え続けた。胸を揉まれながらも、必死で想像する。恋人らしさとは何か――難しい。ゆっくりと押し倒されたので、私は目を閉じて、もっとじっくり考えることにした。考えすぎて、いつの間にか黒木様の手が止まっている事にも気付かなかった。ハッとして目を開けると、黒木様が左目だけ細めて私を見ていた。

「気分が乗らないのか?」
「いえ。そういう訳では――……ちょっと考え事を」
「なるほど。随分と余裕そうだな。もう良い、今日は帰る」
「えっ、ま、待って下さい! お待ちを!」

 慌てて黒木様の腕を取ったが、その時射抜くような目をされ、私は凍りついた。最初に会った日と同じ目だ。背筋が冷え、威圧感で呼吸が苦しくなる。そのまま私の手を振り払い、黒木様は帰っていった。起きているのに、私はこの日も見送りが出来なかった。

 以来、黒木様は来なくなった。
 それでも私は竹の籬のままだった。一度竹まで上がれば、落ちることは無い。
 しかし……私の中での大問題が発生した。
 水草だった頃は、毎夜抱かれていたのだが、竹の籬の場合、私の横に並ぶ綺麗な遊女が買われていくので、私は全く買われず誰にも抱かれない。はっきり言って欲求不満状態に陥ったのである。人生で初めての事だった。体がいつも熱い。しかし遊女は買われる以外ではSEXできないし、自慰も禁止だ。香油で中をほぐすのも、菫と水草の遊女にしか許されていないし、自慰防止のため、一人寝の夜は貞操帯をつけなければならない規則だ。ヤりたい。すごくヤりたい。こんな事を感じたのは初めてで、どうしていいのかも分からない。誰かに相談するのも恥ずかしい。その状態で二ヶ月半経過したある日、やっと黒木様が来てくれた。籬の外に姿が見えた瞬間、私は震える目を向けた。

 楽になれると思った。だが――部屋で、付き添いとして本日やってきた美夜恋とばかり黒木様は話している。温かい空気で、普段の私ならば喜んだだろうに、体が黒木様を求めていた。早くヤりたい。そればかり考えていた。時が経つのが緩慢に思え、チラチラと何度も見習いが下がる夜の八時になるのを待ってしまう。何もされていないわけだが、逆にだからこそ、体の奥が疼いた。

 美夜恋がいなくなってから、私は我慢できずに黒木様の腕を引いた。

「今日は随分と余裕がなさそうで、気が乗っているらしいな――籬を見て驚いた。あそこまで色気があるとはな。他の雑草と並んでいると非常に目立つ」
「早く……」
「男なら誰でも良いのか?」
「うん」

 半泣きで私が頷くと、黒木様が苦笑した。そして私を抱き寄せながら、頭を撫でてくれた。しかし今は、そういう事ではなく、SEXがしたい。

「――聞いた。この店の香油には、催淫作用があるそうだ。今、お前の体は離脱症状で熱いんだ」
「……?」
「不思議でな。お前のような美人が、五百円の籬の中で大人しくしている事が。その辺の花魁より余程華がある――美人だ。その世を憂うような瞳、白磁の肌、何もかもが男を寄せ付け、惹きつけて離さないように見えるのに、お前には特定の客がいないようで、安売りしている。調べさせてもらった」

 何を言われているのかよく分からない。私には分かるのは、体の熱だけだったのである。

「後妻の義母に売られた伯爵令嬢か。華族も大変だな」
「――?」
「年季があけるまで、家に金を入れるのか。それも義母の恨みは根深い。お前そっくりの母親に、妾だった頃に散々虐め抜かれたからだと言う。お前の母が亡くなってすぐに、お前の実父も亡くなって、傾いた伯爵家を救うためにお前は売られた。その際に、義母が出した条件が、一生下働きというものだったらしいな」

 私は、そんな話は聞いた事が無かった。確かに私の生家は華族だったが、伯爵家かどうかすら定かではない。いつも平民以下の暮らしだと聞いていた気がする。だから私の中では、平民と同じだ。もやしを食べていた記憶が一番根強い。しかし、そんな事はどうでも良い。過去のことなど関係ない。私は娼婦だ。遊女である。

「抱いて」

 買われなければ、この熱は解消されない。涙ながらに、私は黒木様の腕にすがりついた。するとギュッと抱きしめ返された。その温度がもっと欲しい。

「ここ最近、お前に客がつかなかったのは、俺が夜毎の金を支払っていたからだ。何度か、お前を買いに来た青山屋の放蕩息子を追い払うために倍額積んだ」
「どうして……」
「言わなかったか? 俺を見ていない女に、俺という存在を認識させて、俺以外見えなくすることが好きなんだ。特に不意打ちで。それと、焦らしに焦らして、欲情している姿を眺めるのが好きだ。ただ、今は――」
「……」
「――白雪、お前が好きだ。理由は分からない、見ていたらのめり込んでしまった。どうされたい? 好きなように、抱いてやる」

 その後の記憶はない。私は乱れに乱れ、何度も黒木様を求めた。
 目が覚めた時、隣で黒木様は飛行機の設計図を広げていた。飛行機の形に描かれているから、多分そうだと思っただけで、実際には分からない。鉛のように重い体を少し私が起こすと、黒木様が抱き寄せた。その腕の中で、私はゆっくりと瞬きをする。

「白雪」
「お水が飲みたいです」

 思わず呟くと、そばの茶器から、黒木様が冷たい緑茶を注いでくれた。静かに飲み込むと、体が生き返った気がした。熱はもうどこにもない。驚くほど意識も清明だった。

「昔、俺には許嫁がいたと話したな?」
「ええ」
「二度しか会った事がない。一度目は、あちらが四歳で俺が七歳、二度目はあちらが八歳で俺が十一歳だった。だが、年齢も、顔を合わせた日時も、俺はよく覚えている。許嫁だった。父親同士の取り決めで、あちらが十三になり中学に上がったら正式に顔合わせをする予定だった――が、破談になった。先方は伯爵家で、同じ伯爵家だったが家格が少し低い俺は断られたら手段が無かった。当時俺は納得できなくてな――そうしたら、俺の実父が言ったんだ。偉い軍人になれば、華族も黙って娘を寄越すだろうとな。だから俺は軍人になった。中でも偉い空軍の大尉に。もう別段結婚したいとは思っていなかったが、一応会いに行った。見てみたかったんだ。麗しい少女だったからな、どのように成長しているのかと思って。結果、どうなっていたと思う?」
「遊女ですか?」
「正解だ」
「まさか、私ですか?」
「そうであるならば、運命的だったな――彩芽太夫という名前だ」
「え」

 ぽかんとした。彩芽太夫は、私の五歳年下である。だとすると二十代後半だとばかり思っていたが、黒木様は私の一つ年下だ。そういえば、パイロットは才能だから、年齢不問で大尉になれると、いつかお客様から聞いたことがあった。

「先日彩芽太夫がお前の代わりに顔を出したのは、あちらも俺に気がついていたからだ。そもそも最初の日、俺が好かない遊郭に顔を出したのも、彩芽太夫を見に来たからだ」
「それで、どうしたんですか?」
「驚くべきことに、亡くなったと聞かされていた義理の姉を見つけた。写真に残る俺の義母と瓜二つだったから直ぐに分かった。俺の母は後妻でな。義理の姉は俺の初恋の相手だ」
「――え? もしかして、ハンバーグを食べていました?」
「好物の一つだ。俺は母の連れ子だから、血は繋がっていない――初日、俺が足早に帰ることにしたのは、お前に気づかれたくなかったからだ。半信半疑ではあったが、姉ならば面倒だと思ったんだ。だが、気づくもなにも、お前は俺に興味がなさそうだった。話していて確信した俺は、色々と聞いたが、白雪は算数に夢中だった。しかも計算に失敗していた」
「け、けど、私の本名は黒木では無かった気が……覚えていないんですが」
「黒木は俺の実父の家名だ。今はそちらの籍に入った。侯爵家だ。今ならば、どこの伯爵令嬢とであっても結婚可能だ。軍人でなくともな。無論、お前とも。お前は一年後、自分がどうなるか知っていたか?」
「いえ……どうなるんですか?」
「買収して話を聞いた近藤という若衆によれば、猪狩陸曹に無料で下げ渡されるとの事だったぞ。あの人物は、軍部内で売春の斡旋をしているらしい。本人にはSM趣味があるそうだな、Mの方と聞いた」
「え」
「が、安心しろ。通報しておいた。それにお前は、今夜限りでここを出る。身請けは終わっている。神戸牛は家に用意してあるが、お望みならばハンバーグにさせる」

 私は息を飲み、目を見開いた。これは、現実なのだろうか?
 うっすらと開けていた私の唇を、黒木様が塞ぐ。濃厚な口づけに翻弄され、私はギュッと目を閉じた。必死に思い出そうと試みるが、私の中に弟の記憶はハンバーグしかない。血が繋がっていなかったかどうかすら覚えていないのだ。

「だから俺を好きになれ」
「――好きになったら、それは恋人になるということで、そうしたら私は連絡をしてしまうかもしれません。忙しい時に。身請けされたらそれが可能です」
「あれは照れくさかったから言ってみただけだ。間に受けるな」

 こうして、その日私は身請けされる事に決まった。知っていたのは楼主様と近藤さんだけであり、店中が大騒ぎになった。彩芽太夫も美夜恋も泣いて喜んでくれた。しかし私には実感がない。各籬から仕事終わりに出てきた遊女達が、皆で私を見送ってくれた。ズラリと外に並んだ彼女達は、本当に綺麗である。

 外に出るのは売られてきて以来なので、私は緊張しながら馬車に乗った。第三吉原内の移動は馬車らしい。隣に座る黒木様を見て、私は信じられない気持ちでいっぱいだった。すると目が合い、微笑された。不意打ちだったものだから、あんまりにもそれが格好良く見えて、私は赤面した。頬が熱い。

「――思ったよりも、俺の事が好きそうだな」

 それは事実だった。男なら誰でも良いのかという問いに、あの時私は頷いたが、ずっと頭の中にいたのは、黒木様である。例えば晶史くんの事は一度も考えなかった。黒木様だけを待っていたのは、多分恋である。

 この日から、私の新しい生活が始まった。現在私は、きちんと黒木様を愛している。