黒猫(山縣)



 最近夢を見ない。
 睡眠時も――そして将来に対しても。

 心がどんどん乾涸らびていく。どこにも水はない。自分には失うモノなど水すらないのだ。枯渇し疲弊していく内的世界。神の不在。では神とは何だ?

 泥のような眠気がもたらす粘着質な感覚は空虚を埋めてはくれず、ただまとわりついてくるだけで、それもまた乾いていた。けれど押しつぶされそうにはならないから良いのかも知れない。それだけ虚ろだった。

 それでも笑ってみせる、笑っていられる。それはあるいは世界へ向けた嘲笑を絵の具で書き換えたような歪さを持って、作り笑いとなるのだろう。嗚呼、正気の在処が分からない。この感覚はいつか終わるのだろうか? それは自身の死とどちらが先なのだろうか。山縣には分からなかった。


 羽染晴親との出会いはそんな日々の中においてだった。
 ――己にとっての神はごくごく近い場所に今ではいる。

 自然に呼吸することを許された気がした。太陽のような人だった。けれど本人は自分は月だと自称する。不思議なものだ。晴親の言葉は、すんなりと胸に響いてくる。

 だけど、ただ、それでは満たされない。晴親に満たされたいわけでもなかった。

 根底に根付いた虚無感は確かに姿を変えたけれど、息を殺しいつまでも凍えている自分がいた。結局終わりはないのか。だからといって死にたいとも消えたいとも思わない。

 山縣は、ただ生きたかった。
 醜く足掻こうともそれだけは変わらない。

 けれど立ち続け、走り続け、加速することは、とても辛い。
 こんな時にすがれる相手がいるのであれば、それはよいのかも知れない。
 しかしそんな惨めな姿を、弱さを、見せる勇気など無い。嫌はたしてそれは勇気なのか?



 執務机に腕を預けて、片手では頬杖をつく。
 眺めた観葉植物、サーバーから取ってきた珈琲。
 窓の外を横切る黒猫を見たのはその時のことだった。


 ――黒猫が目の前を横切ると不吉?

 誰がそんなことを言い始めたのだろうか。黒猫が山縣は好きだった。
 だから何とはなしに執務室を出て、黒猫を追いかけて外へと向かう。
 窓から見えた場所で蹲っていたその仔猫は、山縣が抱き上げると小さな声で鳴いた。
 温かい。自分にはないものだ、と、そう思う。

 人間は時に物体にしか見えないことがあるけれど、動物は違う。
 人が死んでも悲しいとは思わないのに、この仔猫が死んだら落ち込む自信があった。
 そんな情動。
 数え切れない死を目にしてきた。きっと今後もそれは続くのだろう。


 それから山縣は朝倉の家へと向かった。

「朝倉ァ」
「ん? どうかしたの?」
「拾った。やる」
「僕に動物の世話が出来ると思ってるのかい?」
「お前の家には家政婦が来るだろ」
「それもそうだね。だけど山縣、君、猫が嫌いなんじゃなかった?」
「だからお前にやる」

 そう言いながらも山縣は上手に笑えている自信がなかった。
 このようにして時に感傷的になる己に吐き気がする。
 だが逃げることは出来なかったし、逃げる気もない。
 残酷に続く末路。想像しただけで、笑ってしまう。嗚呼恐らくこういう時常人であれば泣くのだろうなとふと思った。

「僕は殺してしまうかも知れないよ」
「そうか」
「ねぇ山縣。何かあったのかい?」
「逆だ。何も無ぇんだよ」

 今度こそ笑ってしまった。目を伏せて微笑する。
 嗚呼、もう、それで良かった。