旦那様の花(執事視点)


 旦那様が、名だたる”東屋”から、一人の高級男娼を身請けされたのは、梅雨が明けた頃だった。それまで本宅に使えていた私は、旦那様だけのものとなった花、紫陽様のために建てられた邸宅への移動を命じられた。

 私は、幼い頃から旦那様の事を存じている。
 幼い頃から優秀で、人当たりが良く、ただし何を考えているのか余りよく分からない方だと私は思っている。誰にも心を本当の意味では開いていないような気さえする事がある。
ご友人がいないわけでも何でもないのに、何故なのかそう思う。

 だからいつか、愛する方を見つけ、温かい家庭を築いて下さることを願っていた。

 ただしその相手が男娼だとは思わなかった。
 しかし、だ。
 一目見て納得した。儚く憂いを帯びた紫陽様は、圧倒されるほどの美を誇っていた。

 物憂げな表情で庭を散策され、宵時には旦那様のお帰りをかいがいしくお待ちになっている。他者を寄せ付けないようなその表情に、時折意図せず、私でさえ見とれてしまうほどだ。痩身で華奢な体躯。匂い立つような色香。私と背丈は変わらないだろうし、女性的だというわけでもない。ただそこにあるのは、性別を超越した美だ。



 ――と、思っていた。

「紫陽様、お体に触ります、どうか中へ」
「あっ、は、はい。ごめんなさい」

 私の差しだした傘の中へと入った彼は、目に見えてしゅんとしてしまった。

 はじめはその表情に、心が痛くなった。差し出がましいことをしている気分になるが、旦那様の命令だ。硝子に罅が入ったように嘆いている姿を見るのがはじめは辛かった。しかし今では――そうでもない。単純に紫陽様は、ちょっとどこか抜けていらっしゃるのだ。

 雨の中でいじましく旦那様を待っているのではない。このくらいの雨なら平気だ! と思っているのだろう。

「あ、あの、山岸さん!」
「なんでございましょう」

 私は始め、高貴なこの花は、相応に凛として、上から物を言うたちだと思っていた。しかし時折口を開けば、その腰は驚くほど低く柔らかだ。旦那様に選ばれたのだから、私のような一回の使用人に気を遣う必要はないのだが。

「雨宮様は、今日は遅くなりますか?」
「本日は二件の会議があるとうかがっていますよ」

 私は、この別宅の執事をしている。よって旦那様の秘書とは密接に連絡を取り合っている。秘書の村岡と私は、共に将来旦那様を支えるようにと育てられた仲だ。

「お帰りは十時頃でしょうか」
「十時……」

 紫陽様はまだ病み上がりだ。先日も肺炎を患われた。必ずしもお体が強いと言うことはないのだろう。そもそも吉原から出た人間は、その多くが体に病を抱えていると聞く。話しをするだけの高級男娼といえども、無菌の籠から出れば、体調を崩すのかも知れない。

 まぁそんなわけで、驚くほど過保護になさっている旦那様は、紫陽様に九時には眠るようにと言い聞かせているし、私達使用人にもそれを徹底させている。

「今日は、今日だけで良いんです、お待ちしていては駄目ですか?」
「どうかなさったのですか?」
「朝、雨宮様が咳をしていたから。僕の風邪が移っちゃったのかと思って……」
「体調を崩されたという報告はございません」

 私が告げると、紫陽様が俯いた。その様子があんまりにも悲しそうで胸が痛くなる。まるで明日この世界が滅亡するかのごとき悲壮感が周囲を覆っていく。いちいち心臓に悪いお方だ。ただ単純に心配しているだけだと今では分かる私ですら、この荘厳な気配に飲まれそうになる。触れることすら躊躇われる。

「――承知しました。では、私も残りましょう」
「え?」

 私は基本的には外から通っている。夜、旦那様は紫陽様と二人きりを望んでいらっしゃるからだ。私は秘書の村岡と同じマンションで暮らしていて、その日の報告を受ける仕事がある。だから女中達に仕事は任せ、大体八時には帰宅するのが常だ。

「だ、だけど」
「私も心配ですから」

 そう言って笑ってみせれば、紫陽様が、これはまた儚く微笑んだ。
 旦那様が彼に惹かれた理由が分かる気がする。本当に優しい表情だった。

「有難うございます」

 こうして私達は、二人で雨の音を聞きながら旦那様の帰りを待った。
 帰ってきた旦那様は、紫陽様を抱きしめながら、目を細めて私を見た。
 その視線が惚れるなよと語っていることが分かり、思わず笑ってしまう。

 私は村岡と付き合っているので、そう言う気はない。だから安心して良いと言おうとして止めた。もう少しだけ、主人の焦る顔が見ていたかったのかも知れない。

 心を開いた旦那様のお顔を。