喜雨




 身請けしてもらった僕は、もっとしっかりと怪我を治すようにと言われた。
 日の光に当てると傷に悪いそうだから、しばらくは家の中で療養しているようにと言って――……雨宮様は僕のために家を建てておいてくれた。吃驚してしまった。

 僕だけの家だが、お手伝いさんが何人もいた。
 しかもここは療養用の家らしく、怪我が治ったら二人で住む家をまた建てるのだという。勿論雨宮様の本宅もあって、そこにもお邪魔した。男娼あがりだしそこに住むことは一生無いだろうと思っていて、別宅をあてがわれたのだろうと最初は思っていたのだが、そんな事は無かった。単純に本宅は遠い場所にあるので帰らないだけだった。

 身請けされたいと夢見ていたことはあるし、身請けされた話もよく聞いたが、いざ身請けされてみると困ってしまった。何をして良いのか分からないのである。雨宮様に聞いたら、怪我が治るまではただ体のことだけを考えているようにと言われた。

「治ってからは?」

 と聞いたら、ゆっくり考えればいいと言われた。だから考えても分からないから聞いているのに。



「紫陽、薬を塗ろうか」

 雨宮様は毎晩帰ってくると、一日一回自分の手で僕に薬を塗ってくれる。信用のおける自社製品だそうだ。これがとろっとした緑色の液体で、僕は鎖骨の上をなぞられる度に、ピクンとしてしまうのだ。この体が恨めしい。

 週に一回は、お医者様をお屋敷に呼んでもくれる。

「本当に君が無事で良かった」
「もう全然平気です」
「平気じゃなくても、平気だって言うんだよね」

 僕は何も帰すことが出来ず顔を背けた。吉原から外になど売られてきてから出たことがなかったので、身請けしてもらってすぐに引っ越し後に体調を崩して風邪を引いてしまったのだ。熱を出して倒れてしまった。

 雨宮様のあのときの心配のしようと言ったら無くて、ただちょっと倒れただけだというのに、目を覚ました僕は病院で精密検査を受けさせられた。そして念のためにと言って三日も入院させられた。雨宮様は医薬品関係の旦那様だから、病気に敏感なのかもしれないが、ちょっと大げさだと思う。

「あの時だって危うく肺炎になるところだったんだよ、分かってる?」
「……ごめんなさい」
「雨の中何時間も俺の帰りを外で待って無くて良いって何度も言ったのにね」
「……」

 そうなのだ。僕は、引っ越してきてから毎日、雨宮様が帰ってくる頃になると、外で待っているのである。今は止められてしまったので、そして雨宮様がお手伝いの人に言いつけてしまったので、僕は外で待っていることは出来なくなったけれど。

 だって、だ。
 見世と違って、本当に雨宮様が来てくれるか不安になってしまったのだ。

 もう夏が来てしまったから、雨は全然降らない。
 だから夕立が降る度に、早く帰ってきて欲しいと思って、外へと出ていたのだ。遠雷を聞きながら、蝉時雨を聞きながら、早く早く雨宮様が帰ってくればいいと思っていたのだ。

 僕は、”家”というものが、いまいちまだ分からない。
 ”来てくれない”というのは分かるが、”帰ってこない”かもしれない不安は消えてくれないのだ。ここは吉原ではないから、僕は雨宮様がいなかったら一人っきりだ。お手伝いさんはいるけれども。

 お手伝いさんも夜になれば帰ってしまう。僕は一人きりの夜というものを知らなかったのだ。見世には常に誰かがいたのだから。

「紫陽はもっと自分のことを大切にしないと駄目だよ」

 雨宮様は最近いつもそう言う。そしてギュッと僕を抱きしめてくれるのだ。
 今も抱きしめてくれた。その力強い腕のぬくもりが僕は好きだし、雨宮様の体温にどうしようもなく落ち着かせられている自分がいる。

「あ、雨宮様が僕のことを大切にしてください」
「うん、勿論」
「……」

 言ってから思った。帰ってきた笑顔を見てさらに思った。もう十分僕は大切にされていると思う。大切にされすぎていると思う。これでは水をあげすぎた植木鉢みたいになってしまうと思う。きっと僕は腐ってしまう。雨宮様のためにも、僕は綺麗に咲いていたい。

「やっぱりもっと厳しくしてください!」
「厳しく?」
「僕は観葉植物になってみます! 雨が少なくとも生き残れるようになります」
「ええと? 雨? それって俺のこと?」
「え、あの、その……」

 そうなのだろうか。そうかもしれない。何を言っているんだろう僕は。

「俺ならいくらでも君の元にいるよ。ずっと側にいる」

 ”ずっと”なんて言うのはあり得ないと、見習いの頃に僕は習った。だけど今は身請けされたのだから、あり得るのだろうか……? 僕は、できるならばずっと雨宮様と一緒にいたい。

「紫陽。君と寄り添っていたいよ」
「っ」

 耳元で囁かれて、僕は頬が熱くなってきてしまった。
 寄り添って……そこで僕の頭は四十八手を思い出してしまった……何故だ。
 ”寄り添い”、それは、甘い甘い言葉を囁いて貰ったりしながら前戯をされることだ。
 ――僕は一体何を考えているのだ!

「寄り添い……」
「うん、君が何を考えているか分かったけど、雰囲気がぶちこわしになったよ」

 雨宮様がニコニコと笑い始めた。だけど先ほどの心配してくれている表情よりはずっとこっちの方が良い。僕は笑っている雨宮様が好きだ。

「君の怪我が治るまで必死で我慢しているんだから、煽らないでもらえるかな」
「え」

 我慢……?
 これでも一応毎夜、一緒の枕に入っていると、少なくとも僕は思っている。勿論一緒に眠るだけの夜も増えたが、体を重ねる頻度は見世にいた頃よりも多い気がする。

「もっとしたいことが沢山あるんだから」
「え」
「期待しててね」

 僕は真っ赤になってしまった。雨宮様は何を考えているのだろうか。
 僕は何を期待すればいいのだろうか。

「色々なところに連れて行ってあげるから」
「――え?」
「海外とか」

 僕は自分で自分が恥ずかしくなった。僕の馬鹿! 僕の変態!

「ちゃんと期待にも応えてあげるから」
「っ」
「紫陽が想像している方面の」

 しかも、なんてことだ。僕の考えを、雨宮様はお見通しだったようでクスクスと笑っている。恥ずかしい、恥ずかしい!

 しかし海外には行ってみたい。もっというと、国内にも行ってみたい。僕は、生まれた村と第三吉原しか知らないのだ。

「どこがお勧めですか?」
「そうだな。紫陽には、ヴェニスが似合うかな。一緒にアドリア海でも見に行く?」

 ヴェニスとはどこだろうか。
 僕はちょっと知らない。アドリア海は分かる。名前だけだが。

「さぁ、薬を塗る続きをしないと。これじゃあいつまで経っても終わらないな」
「あ、ご、ごめんなさい」
「俺が好きでやってるから良いんだけどね」

 雨宮様の骨張った指先が薬をまとって、再び僕の皮膚の上を蠢き始めた。
 馬鹿げているが、この行為だけでも、僕は体を固くしてしまう。
 ドキドキしてしまうのだ。
 雨宮様の指先が、僕の肌をなぞる度に、声が漏れそうになってしまう。

「――そんな風に、蕩けた顔をされると困るな」
「だ、だって……雨宮様……っ」

 最後にシたのは、一昨日だ。僕はそろそろ限界だ。

「ねぇ……雨宮様……」

 じっと雨宮様を見上げたら、なんだか目が潤んできてしまった。

「……紫陽。とりあえず薬を塗ろうね。俺の理性を倒壊させないでもらえるかな」
「……」

 もう薬は十分である。それよりも、僕は雨宮様が欲しくて、雨宮様の着物の袖をギュッと両手で握った。

「紫陽。こら」
「……」
「紫陽」
「……」
「……はぁ。分かった、じゃあこれで終わりにするから、そのかわり、今夜は眠れると思わないでね」

 苦笑しながら雨宮様が、薬を塗り終わった様子で瓶を置くと、手を布でぬぐった。僕は嬉しくなって、今度は自分から抱きついた。

 そして僕は――そのまま眠ってしまったらしい。

 翌朝、大層冷たい笑顔の雨宮様に、無理矢理キスされて起こされて怒られたのだった。
 身請け後の日々は、そんな感じで過ぎている。僕は幸せである。