青時雨


 第三吉原の多くの見世が同一だと思うのだが、ここ東屋でも夕食は基本的に出ない。

 お客様にごちそうしてもらわなければ、僕たちは食べることが出来ないのだ。
 ただし東屋では、朝ご飯におにぎりが出る。
 これだけでも他の見世に比べれば恵まれている。理由は、僕のようにまですくすくとは背が伸びないにしろ、ここにいるのは育ち盛りの男娼ばかりだからだ。お腹がすいてしまうのである。お腹がすいては、腕立て伏せなどの特訓も出来ない。

 そして僕には現在ではお客様は、雨宮様お一人と言っていいし、その前は庄野様ただお一人だった。庄野様は豪勢に宴会をするのが好きだったから食事には困らなかった。来てくれているうちは困らなかった。勿論来てくれないので、僕は毎夜のひもじい夜に堪えた。

 その内に夜は食べなくても、朝に食べると平気になってしまった。
 だから、まだ雨宮様に食事をねだったことはない。

 木々の青葉からぽたぽたと落ちていく雨の滴を眺めながら、僕は考えた。
 雨宮様は、あまり食べない。
 見世に来ると、飲んでいることが多い。飲むと言っても、僕の部屋に行く前の付き合いだと思う。本当はそう言うお客様は珍しいのだ。

 体を求める見世ではないのだ、東屋は。
 雨宮様は、何が楽しくて東屋に来ているのだろうか?
 どんな食べ物が好きなんだろう?

 東屋はお酒だけじゃなく食事も美味しいから、是非とも食べて貰いたい。



「雨宮様は、どんな食べ物が好きですか?」
「――それは何か食べたいものがあると言うこと?」

 僕の声に、その日も来てくれた雨宮様が首を傾げた。相変わらずニコニコしているが、若干面倒くさそうな表情に見えた。別に普通の質問をしただけなのに、そんな風にうがった見方をしなくても良いと思うのだ。

「聞いてみたかっただけです。嫌いな食べ物でも良いです」
「ああ、そう。そうだね、好きな食べ物は紫陽かな。嫌いな食べ物はナマコ」
「えっ、ナマコって食べられるんですか?」
「刺身とかね」

 想像して聞かなきゃ良かったと思った。僕はああいうグニャグニャしたモノは嫌いなのだ。紫陽花という名前になってから、よく『カタツムリが好きだろう?』といって同僚達にわざわざと持ってこられて以来苦手になってしまったのだ。カエルも同じ理由で苦手だ。
梅雨のイメージを勝手に関連づけないで貰いたい。すごくそう思っていたが、今年は梅雨が大好きだ。だって雨宮様が来てくれるのだから。

「だけどじゃあ急に食事の話なんてどうしたの?」
「雨宮様がお食べにならないから心配したんです! 僕はそりゃあもう雨宮様の体調が心配で仕方がないんです」

 僕は営業トークに換言してごまかすことにした。考えてみたら好きな人の好物を知りたいというのはなんだか恥ずかしい。

「食べないのは紫陽の方じゃないか」
「僕は毎朝おにぎりを食べています!」
「……ここは、この一番高いフグの刺身あたりを頼んでも良いんだよ」
「いただきます!」
「まぁ無理にとは言わないけど、そう、食べたいんなら、ここのお品書きにあるものを全て頼んで持ってきてもらっても良いよ」
「そんなに食べられません」
「別に食べなくても売り上げにはなるよね?」
「もったいないじゃありませんか」
「紫陽らしいな」

 頬杖を突いた雨宮様が、漸く吹き出すように笑った。面倒くさそうな表情では無くなった。ただ折角なので、東屋の美味しいお料理をぜひとも雨宮様に堪能してもらいたいと思う。よく胃袋を捕まれたと聞くから、この見世の料理に、雨宮様の胃袋をつかんでもらいたい限りだ。それにしても雨宮様はそんなにお金があるのだろうか?

「ナマコ料理はないので、それ以外なら大丈夫ですか?」
「食べられるという意味では大丈夫だけど、今はお腹はすいていないよ」
「え」
「紫陽がすいているんじゃないの?」

 残念ながら僕は夜は食べなくてもよくなってしまったのだ。
 それにほとんど手つかずで、見習いの子達に渡しているが、雨宮様はいつもお刺身の盛り合わせをどんと頼んでくれる。

 雨宮様は庄野様と違って静かなお部屋が好きらしく、現在室内には僕と雨宮様しかいないが、隣の控えの間では見習いの子達が、雨宮様からいただいたお刺身を食べているのだ。僕も見習いの頃はよく食べさせてもらったものである。

 そうか、もったいなとは思うけれど、あまれば、見習いの子達が……とはいっても、流石にお品書き全ては残ってしまうと思う。それに見習いの子達には、僕ら(一応も僕も入っているはずだ)の稼ぎから一律で引かれて夕食もきちんと出るのだ。一応高級店なので、栄養失調はあり得ないのである。

「黙り込んでどうかしたの?」
「いえその別に……雨宮様は、どうして食べないのかなと思って。美味しいですよ?」
「東屋の料理は評判だからね」
「だったら――」
「どうしてそんなに俺に食事をして欲しいの?」
「退屈じゃないかと思って」
「……それは紫陽が、俺と話をしているだけでは退屈だと言うこと?」

 また雨宮様の顔が面倒くさそうな顔になった。
 今日は一体どうしてしまったのだろうか。ニコニコしている表情の陰に、ちらちらとイライラがかいま見える気がしてきた。

「まさか! そんなはずがありません!」
「そうそう、その調子」
「え?」
「もっと俺との話を盛り上げて。その方が食事をするよりよっぽど体に良いよ」
「あの……何かあったんですか?」
「は?」

 まずい、つい聞いてしまった。雨宮様が、一瞬真顔で返してきた。
 思いの外怖かった。いつも笑っている人がたまにまじめな顔をする

 と、とても怖い。それにここでは仕事の話は禁止だった。何をしているのだろう僕は。それにしても、ただ好きな食べ物を聞きたかっただけのはずなのに、どうしてこんな空気になってしまったのだろうか。

「――ごめんね。ちょっと取引先ともめてね」

 しかし大きく吐息すると、雨宮様が苦笑した。

「気づかれるとは思わなかった」

 続いたその声と表情に、僕は思った。僕は多分、今では些細な雨宮様の表情変化が分かるようになったのだ! なんだか感動したら、頬が熱くなった。

「……どうして目を輝かせてるのかな。俺がもめると楽しいのかい?」
「いえ! まさか!」
「ああ、そう。兎に角そう言うわけで、ちょっと苛立っていたみたいだ。君に当たるなんて無粋だったね。今夜は帰るよ」
「大丈夫です。かわりに、かわりに飲んでください!」
「俺は嫌なことがあったからと言って酒に逃げるようなことはしないんだ」
「じゃあ僕の所に逃げてきてください!」
「もう来てるじゃないか」

 雨宮様は冗談めかしてそう言ったが、その瞳はどこか暗い。僕にもう少し教養があったら、何か相談にのれるのだろうか? のれない気がする。それよりも今僕に出来ることは、プロとして、お慰めすることだ!

 ただちょっと意外だった。雨宮様でも、仕事で失敗(?)する事などあるのか。
 普段は一切仕事の気配がしないから、驚いてしまった。


 結局その日は、本当に雨宮様が帰ってしまった。
 僕は上手く引き留められなかった。


 そして今日……雨が降ったのに、雨宮様は来てくれなかった。僕はやっぱり余計なことを言ってしまったなと思いながら、てるてる坊主を見上げた。なんだかお腹がすいた夜だった。やっぱりフグの刺身を食べておくべきだった。

 ただこれをきっかけに僕は、もっと教養を身につけようと思い立った。
 一応社会人は、イチとシチを間違えないように、7をナナと読む事などは、見習いの頃に教わっている。だが、雨宮様に、気軽に愚痴を言って貰ったりするには足りないような気がする。だからといって何をすれば足りるのかも分からない。

 今日は雨宮様は来てくれるだろうか?
 青時雨を眺めながら、僕は細く息をついた。


「この前はごめんね、紫陽」

 雨宮様が来てくれたのは、四日後のことだった。もう来てくれないかもしれないとまで考えて不安でいっぱいだった。良かった。お顔を見られたことだけで僕はまず安堵した。

 そして決意した。
 不安を打ち消すようにひたすら勉強したビジネス用語を披露しようと。本当は余計なことはしない方が良いだろうがとも思ったが、後ろに進むよりは前に進んだ方が良いと思うのだ! とりあえず僕も自分がこの前迂闊に聞いてしまったことを謝ろう!

「僕も陳謝します!」
「いや別に良いけど。紫陽は何も悪くないし」

 別に普通に流されてしまった。陳謝という言葉は日常的に使うのだろうか……きっとそうなのだろう。どんな発言をしたら、勉強したことが伝わるだろうか?


 じっと雨宮様を見ると、今日はいつもの通りにニコニコと笑っている。
 そうだ、笑顔を褒めよう!
 ……どうやって? だめだ、僕の頭には応用力というものが無かった。

「お詫びに今日は何でも好きなものをごちそうするよ」
「え?」
「確かに俺も一度くらいは味わって食べてみたいしね。本当は、俺にお勧めの料理を教えてくれようとしたんでしょう?」
「どうして分かったんですか……?」
「紫陽のことならなんだって分かるようになりたいんだ。どれがお勧めなの?」
「やっぱり桜鍋が美味しいです」

 結果的には、僕が最初に意図したとおり、雨宮様に召し上がってもらえることになった。
 なんだかよく分からないが、毎日お会いしていると、不思議と通じ合ってきたりするのかななんて思ったのだった。