諜報部奇譚――坂本靖眞への覚書――



 山縣に、愛しい相手――男娼を扱う”東屋”の楼主である天堂雨瑛を見に行かせていた己は、確かに滑稽だなと思いながら、坂本は水槽を泳ぐ熱帯魚を見据えていた。

 この前、久方ぶりに足を運び、「俺だけを見ろ」と伝えてきた。しかしその後足を運ぶわけでもなければ、連絡を取ることもない。

 出会った頃、彼は花魁だった。露草つゆくさと名乗っていた。
 一目見て心惹かれた。
 足げく通うわけではなかったが、会えばその体を確かに欲する気持ちを抑えきれなかった。高級男娼の露草は、本来であれば、性的な客を取る必要など無いほど高貴だったというのに、それでも自分を受け入れてくれた。閨では睦言をかわした。互いに愛していると囁きあった夜。それが忘れられない。

 お互いに歳を取った。けれど、露草の美貌が衰えることはない。むしろ年々艶を増していく気すらした。だからある日決意した。もう、我慢することは出来なかった。今回この国にいる内に、どうしても手に入れたいと願ってしまった。

 坂本はその日の夜、東屋を訪れた。

「どの子にいたしましょう?」
「俺がお前以外指名すると思うてるんか?」
「生憎、私は楼主ですので、客を取ることはございません」
「だったらこの、たなを買い取る」
「……ただ話をするだけですよ」

 そんなやりとりをしてから楼主はお座敷を用意した。
 しかし二人で部屋に入るなり押し倒された。

「ここは、そう言う店ではございません」
「愛しとる。忘れられへん」

 焦燥感が滲む坂本の声に、楼主は苦しそうな表情をした。
 こんな顔が見たいわけではなかった。ただ、隣で笑っていて欲しかった。けれどその想いを上手く言葉で伝えることが出来ない。

「坂本様、例え坂本様でも、これだけは超えてはならない一線です」

 そう口にした楼主は、坂本の腕から逃げた。そして紋付きの首元を直し、苦笑する。

「お客様と楼主とは、そう言うものですので」
「恋人になって欲しい」
「それ、は」
「好きなんや。どうしようもなく。今でも」

 言いつつも、あっさりと楼主の身を解放してから、あぐらをかいて坂本は座り直した。
 そして卓上のお猪口を手に取る。嘆息してから、徳利から楼主が日本酒を注ぐ。

「そのお気持ちは嬉しいですが、今はそれぞれ立場がある。違いますか?」
「そんなもん関係ない」
「私は、東屋の楼主です。どこへ行くつもりもない」
「側にいてくれないか?」
「無理な相談です」
「じきに第四次大戦が起きる。俺はお前を一人にしておきたくない」
「そのような機密を私に話さないで下さい」
「心配で仕方がない。お前に何かあったらと思うと」

 坂本の方言が消えていた。それだけ真剣なのだと伝わってくる。
 その事実に楼主は苦しくなった。想われていることは正直嬉しかった。そして己もまた想っていないと言えば、それは嘘だ。確かに楼主にとっても坂本は特別だった。

「何かなど、この第三吉原にあるとは思えませんが」

 それでも気丈に言葉を続けると、坂本が顔を背けた。

「吉原のように一夜限りの色恋を売る――時に人の口を軽くする場所は、大概スパイの温床になる。今後は他国の客が増えるだろう。中でも情報が集まる楼主なんて言う職業は、つけねらわれる可能性が高い」
「私に東屋をたためと言うのですか?」
「……ああ」
「では見世の者達はどうすればいいのです? 他には行き場所がない子も多い。貴方に全員の面倒を見る力があるのですか?」
「それは――」
「無理でしょう?」
「――……楼主の座を別の人間に譲ればいい」
「そして私に再び篭の鳥になれと言うのですか? 折角の自由を得た私に?」
「俺はお前を篭に押し込めたりはしない。誓う。お前が拒絶するのであれば、指の一本すら触れない」
「そのような話を聞いて、私がこの見世を見捨てられると思うのですか?」
「っ」
「私にとってこの見世は全てなんですよ。見世の子達は、皆等しく家族なんです」

 苦笑するように言った楼主の両手を、それでも坂本は猪口を置いて握った。

「俺のためにその大切な家族を捨ててくれ」
「な」
「捨ててくれ」
「そんなこと出来るわけが――」
「捨てろ」

 楼主は思い出す。昔から、肝心なところでは、坂本は強引だったことを。胸が締め付けられるように苦しくなった。本当は――もうとっくに、坂本の隣にいる自分の姿を思い描いていた。けれどそれは考えてはいけないはずのことだった。なのに、それなのに、反論する言葉が見つからない。隣に立つ幸せを思い描かずにはいられない。

「坂本様……」
「大切にする。必ず幸せにする。だから、俺のために、着いてきてくれ。お前が側にいてくれるだけで、俺は幸せになれる」

 そう言って坂本は強引に楼主の唇を奪った。
 濃厚な口づけ、深く口腔を貪られ、舌を追いつめられていく。久しぶりの感覚に、楼主の瞳に生理的な涙が浮かぶ。

 ――嗚呼。絡め取られて、逃げられない。

 そんな気がして、楼主はきつく目を伏せた。



 楼主が、天堂が楼主の座を譲ったのは、それから半年後のことだった。
 そして今は、坂本の隣にいる。
 結局恋がもたらす激情から逃れることは出来なかったのだ。二人で手を繋ぎ、池を眺める。色鮮やかな鯉が泳いでいた。

「ありがとうなぁ、着いてきてくれて。半信半疑だったんやけど」
「今更私を手放さないで下さいね。路頭に迷います」
「あたりまえやん」

 気さくな方言を交えた坂本の調子に、楼主は苦笑混じりに吐息した。
 その手をギュッと握り、坂本が呟くように言う。

「今度は、キューバに行くんや」
「いってらっしゃいませ」
「何言うてるん? 着いてきてや」
「私がいても邪魔にしか――」
「なるわけないやん。絶対に守り抜くし、もう側におらんなんて考えたくもない」

 そう告げてから、坂本は楼主の体を抱きしめた。その温もりが心地よくて、坂本の肩に楼主が顎を乗せる。嗚呼、確かに心が繋がっていると、そんな気がした。


 日本を発つ前日。
 坂本は総七の部署に顔を出した。室内にいた山縣が水鉄砲を弄りながら、珍しいモノを視たように振り返る。

「山縣、今まで有難うなぁ」
「――ああ、天堂楼主の件、上手くいったみたいで」
「うん。もう手離さん」

 その言葉に山縣が微笑する。

「本気の坂本さんは怖いですね」
「やろ?」
「全部捨てさせて奪っていく」
「山縣君もそれくらいの積極性、あるやろ」

 山縣はそんな声に思案する。身を焦がすような恋かと、ふと思う。
 朝倉のことが一時過ぎったが、自分たちの間にある感情とはまた形が違う気がした。
 山縣は朝倉の全てを奪いたいとは思わない。仮に渡航するとしたら、決して伴う気など起きない。その分、日本での朝倉の活躍を聞く方が楽しみだ。

 けれど。

 確かに全てを捨てても良いくらいには、朝倉のことを想っているのではないかと気づかされる。だから寧ろ楼主の気持ちが分かる気がした。

「幸せを祈ってます」
「うん。幸せは自分で掴むもんや。これまで逃げていた臆病な自分を俺は呪いたい」

 それだけ言うと、坂本は資料の束を手に帰っていく。
 残された山縣は、水鉄砲を気怠げに一瞥し、何とはなしに引き金を引いたのだった。