2:雨の日に来た客


 格子の中から外を見ていた。今日は雨だ。

 この格子は、各上の例えば”太夫”になればなるほど、ちらりとしか外からは姿が見えなくなる。まがきというのだ。東屋では三ランクの籬があって、一番上のランクは当然秋桜太夫で、今は一人しかいない。本当に着物の先がちらっとしか見えない。二番目のランクがほとんどだ。時折顔が見える。僕はと言えば最低ランクなので、顔も体も丸見えだ。きっと格子のせいで、牢屋の中にでもいるように見えることだろう。

 僕には一応、紫陽花という名前がある。だけど誰もアジサイと呼ばない。シヨウと呼ばれることが多い。呼ぶのは勿論客ではない。何度も言うが、僕にはお客様が庄野様しかいないのだ。僕は雨があまり好きではない。雨の日は夜が早く来るから、その分変態達の相手をする時間が延びてしまうのだ。変態は沢山いるから、毎日顔ぶれが違う。向こうは疲れないだろうが、僕は疲れるし体が辛いのだ。未だに昨日の熱が僕の中では燻っている。

 地面を見据えてついに溜息を漏らしてしまった時、視界に靴が入った。黒い靴だった。
 驚いて顔を上げると、笑みを浮かべている青年と目があった。少しつり目の大きな瞳をしていて、僕よりも背が高そうだった。

 整った顔立ちを見て、嗚呼、見物客だなと判断した。和装の身なりも良い。第三吉原には、実際に買いに来る客よりも観光客の方が多いのだ。海外で言うところのカジノのようなもので、観光コースにも入っていると聞いたことがある。そうした人々の場合、姿がよく見える僕のようなモノは格好の観光対象なのだ。なのだから笑顔を浮かべて楽しませ……――たいとも思ったが、そんな気はすぐになくなった。

 今日は、いつも以上に憂鬱なのだ。勿論夜の仕事の件もあるのだが……格子の中に入る前に、耳にしてしまったのだ。ついに庄野様が、秋桜太夫を身請けすることにしたのだという。楼主様と秋桜太夫が話していたのだから、確実な情報だ。

 そもそも秋桜太夫を身請けできるほどの資産家の庄野様が、何故僕の所にわずかな期間であっても通ってきてくれていたのかの方が不思議な話である。今になって思えば本当に不可思議だ。きっと気まぐれだったんだろうな……。悲しくなってきてしまった。

 再び俯き長い瞬きをした僕は、目を開いてそこに未だ黒い靴があるのを見て、ハッとした。お客様の前で、なんて感じの悪い顔をしているのだろうかという思いと、まさかまだ同じ客がいるんではないだろうなという思いで顔を上げると――やはり先ほどのまま、笑顔の青年が立っていた。再び目が合う。すると柔和に微笑まれた。

「旦那様、いかがなさったのですか?」
「この見世が気に入ったんだ。あの子を」

 青年は、四方に立っていた洋装姿の、黒いスーツの人々にそんなことを言うと、東屋の中へと入っていった。僕はただそれをぼけっと見ていた。

 そして僕は、すぐ後に楼主様に呼ばれた。

 初めてのお客様がきたのなど、それこそ庄野様が最初に来た時だけだったから、緊張と動揺と、必死でするべき事を思い出すのでいっぱいいっぱいで、完全に挙動不審になりながら、僕は部屋へと向かった。兎に角今夜は変態の相手をしなくて良いのだなとちょっと安堵もしていたが、それ以上に、大混乱していた。

 幸いだったのは、これが『初会』だから、何も話をしなくて良いことだった。僕はお酒を飲む必要もないし、ただ上座に座って、下座にいるお客様を見ていればいいのだ。だから僕はまじまじと青年を見ることにした。

 黒く短い髪に、黒い目をしている。まぁ大体の道行く社会人はこの色だ。鼻梁がスッと通っていて、どちらかと言えば色は白い。病的な白さではないから、単純に室内で仕事をしているのだろうという判断材料にした。”旦那様”と呼ばれていたから、どこかのお店の旦那様なのだろう。薄い黄緑色の和装姿だ。

 ニコニコと微笑んでいるから、僕も必死で笑顔を浮かべた。我ながら強張ってぎこちなくなっているのだろうと想像できる。近くで見ているからはっきりと分かったが、やっぱり背が高い。肩幅も広い。どうせならば僕もこのくらい成長できれば良かったのにな。しかしこの人は何故僕を呼んだのだろう。兎に角初会は会話も禁止なので、何も分からない。

 そしてそのまま時間は過ぎて、お客様は帰っていった。おどおどしながら見送りながら僕は、まぁきまぐれだろうなと判断した。どうせ二度と来ないだろう。でも思った。また来ないかな。

 そう思っていたら、次の日も青年はやってきた。

 今回は、『裏』だから、僕はお客様とお話しをすることになる。

「頑張るんだよ」

 楼主様に肩を叩かれた。そうだ、頑張らなければならない。ここで営業トークを頑張って、お酒をいただいて、そうして三回目に来てもらって初めて、『馴染み客』となるのだ。今日も布団にはいることはないわけだし、布団に入ったからと言って僕には手腕など自信を持てるものは何もないのだが、兎に角次につなげるためには今日が勝負となる。もしも、上手くいけば。もう僕は、夜な夜な変態の相手をしなくて良くなるかもしれない。上手くいかなければ、庄野様はもう来てくれないだろうから、ずっとずっと変態の相手をしなければならない。そんなのは嫌だった。

 『裏を返す』というのは、僕の名前が書いてある木の札を、営業中と言うことで裏側にひっくり返すことだ。二回目に会いに来たお客様が使う言葉だ。

「こんばんは、紫陽花」
「よ、よろしければ紫陽と……」

 駄目だ、声が震えた。出だしから緊張して僕は失敗した。

「そう。紫陽ね。分かったよ。俺は、雨宮。昨日はろくに名前も名乗れなかったからね」

 雨宮あまみや様か。
 雨が降る日に初めて来たし、覚えやすい名前で助かった。

 兎に角何とかして、後もう一回来てもらわなければならない。逆に言えば、後もう一回来てくれれば、しばらくの間だけでも僕は変態の相手から解放されるし、下世話なはなしだが体の熱からも解放される。

「雨宮様のお顔を一目拝見したときから、心が苦しくなりました」
「そうなの?」
「はい。だけど僕じゃきっとお声をかけて頂けないと思っていたら、昨日はお目をかけて頂いて……ご一緒させて頂いただけで胸が高鳴りました」
「ふぅん」
「昨日も一晩中雨宮様のお顔を思い出して眠れなかったんです」

 全て見習いの時に、言えと習った言葉である。

 『一目惚れバージョン』『運命を感じたバージョン』『ツンデレバージョン』などがあったが、物覚えの悪い僕の頭の中に咄嗟に出てきたのは、最初に習った『一目惚れバージョン』だけだった。顔が良い相手にはあまり効果がないと習ったようにも思うが、他に出てこなかったのだから仕方がない。

 精一杯感情を込めようと僕は努力した。しかしこもったのは、『もう一回とりあえず来て!』という感情で、いちいち言葉が必死になってしまったのが自覚できた。必死なのは、一目惚れっぽいのだろうか……? しかし雨宮様は、ニコニコと僕の話を聞いてはいるものの、ものすごく反応が薄い。片手で猪口を持ち日本酒を飲んでいる。

 それでも僕は必死で喋った。いかに雨宮様が格好いいかについて、それはもう褒めた。褒めまくった。実際に格好いいから、褒め言葉には困らなかったが、僕が何を言っても、雨宮様は笑顔で「ふぅん」「へぇ」「そう」とばかり言っていた。

 そして時間が経った。帰り際。

 雨宮様が、立ち上がった僕の耳元に、かがんで囁いた。

「思ったよりもつまらなそうだからもう来ないよ」

 スッと僕は体が冷えた気がした。その日の夜は、不覚にも僕は枕の上で泣いた。僕はコレでも結構頑張ったと思ったのだ。なのに、なのに、酷い。だったら最初から期待させるなと言うのだ。

 そして雨宮様は本当に次の日から来てくれなかった。楼主様には盛大に溜息をつかれ、一週間後の夜から再び、変態達の元へと行くように促された。

「っ、ゥ、フ……ン――ッ」

 その日は四つん這いにさせられて、ずっと四肢の関節の裏を舐められた。肘の裏、膝の裏、いくつもの舌が同時に僕の体を舐める。姿勢を保つことが辛くなった頃、わざとらしく背骨に沿って舐めあげられ、今度は脇腹を口に含まれ舐められた。

「ひゃッ、う、うあ……! あ! い、ぅあ」

 陰茎に熱が集まっていくのに、やり場がない。もうそんな夜が続いていた。大抵完全に勃起する前に宴は終わるのだが、それが逆に日に日に体へと熱を蓄積していくのだ。自分の吐いた息にすら、快楽を感じそうになっていた。

 それから暫くして、また雨の日が来た。今日の夜もまた変態の相手をしなければならないのかと思えば、本当に憂鬱だった。俯いて、地面を見据える。沢山の靴が通り過ぎていくのに、どれも僕を買ってはくれない。足が止まる音がしたが、期待するだけ無駄だと思って僕は顔を上げなかった。きっと隣の格子でも見ているんだろう。

 思わず溜息が出た。誰か一人くらい僕を買ってくれたって良いと思うのだ。そう思いながら何とはなしに顔を上げて、僕は息をのんだ。確かに隣の格子を見ている客がいたのだが――雨宮様だったのだ。

 正確には隣ではなくて、じっと秋桜太夫の格子を見ている。僕とは視線も合わない。なんだか無性にそれが悲しくなってきて、気がついたら、ツっと僕の目から涙が落ちた。別に雨宮様を好きなわけではない。秋桜太夫が羨ましかったのだ。僕も秋桜太夫になりたい。

 あんな風に可愛くて性格が良かったら良かったのにな。

 そもそも雨宮様のことは仕方ないと思うのだ。世の中そんなに上手くいかないよな。雨宮様は、そのまま見世の中へと入っていった。東屋では、『馴染み客』になるまでは、他の男娼と『裏』までを繰り返すことが出来る。合う合わないがあるからだ。太夫クラスになれば、断ることだって出来る。まぁ僕には断るなどと言うのは、レベル的にも借金的にも無理だけど。そもそも断る相手がいない。

 そんなことを考えていたら楼主様に呼ばれた。

「え」

 驚いて声を上げながら中へと戻ると、険しい顔で肩を叩かれた。

「絶対に粗相をするんじゃないよ!」

 僕は楼主様に何度も何度も釘を刺され、必死で頷いた。何が起こった? 一体どうなった? 混乱しながら、僕は久方ぶりに自分の部屋へと、就寝以外で足を踏み入れた。そして呆然として待っていると、なんと雨宮様が入ってきた。

 これは――三回目だから『馴染み客』になったという事だ。

「なんで……」
「特に理由なんて無いよ」

 雨宮様は相変わらず笑っていたのだった。