迷い家




「姉崎さんの息子さん、失踪したらしいね」



***



 祖父が亡くなった。もう何年も顔を合わせたこともなく、不意に訃報が届いて困惑したものである。遺品整理に来て欲しいと、田舎の隣家の人間に言われて、俺は久方ぶりに父の生家へと足を運ぶことになった。その父も亡くなって久しい。

『――奏太、決してあの時計の下の引き出しだけは開けてはならないよ』

 最後に祖父の家へと出かけた時の、父の言葉だ。
 蔵、夕暮れ。覚えているのはそれだけだ。
 俺に外へと出るように言ったから、俺は父に従い蔵から出た。
 背後からその時、父が引き出しを開ける音を聞いた気がしたが、今となっては分からない。父はその日の夜に失踪し、法的に死亡宣告がなされた現在では、死人と同じだからである。

 荷物整理に向かった祖父の蔵には、今も変わらぬ姿で時計の下に桐箪笥があった。
 その下から四段目だったはずだと、俺は瞳を細めた。首元に手を当てて、黒いネクタイを緩める。俺は仕事終わりに、そのまま新幹線に乗ってここへときた。無論、新幹線停車駅があるような都会ではなく、その後は鈍行を乗り継いで、最終的にはバスと徒歩である。梅雨の手前の午後は、奇妙に鬱陶しい熱気を孕んでいて、スーツの背広が重く感じた。脱いで壁にいかけてから、俺は箪笥へと歩み寄った。正確には、引き出しへと。

 ずっと気になっていたのだ。この引き出しを開けたならば、父の行方が分かるのではないかと。それは勿論、ただの俺の夢想かもしれないが、それでも良かった。何も無いのであれば、無いということを確認したかった。そうでなければ、いつまでも俺は、父の幻影に囚われ続ける気がする。

 手をかけると、鈍い音を立てて引き出しはすぐに開いた。
 中は――空っぽだった。何もない。祖母が婚姻時に持参したが、置き場がなくて蔵にしまわれた普通の箪笥に過ぎないのだから、別段それは奇妙なことではなかった。祖母も随分と前に亡くなっていたから、その衣類も処分や形見分けされて既に無いのだ。

 その時だった。

「っ」

 誰かの手が、そう、確かに誰かの手が、俺の背骨に触れた。瞬間的に総毛立ち、俺は硬直した。振り返ろうとしたのだが、それは何故なのかできなかった。体が凍りついてしまったようになり、嫌な緊張感に全身を支配された。冷や汗がこめかみを伝ってきて、俺の黒い髪を頬に張り付かせる。短く息を飲んだまま、俺は身動き出来ないでいた。

「――悪い、驚かせたな」
「あ……」

 すると後ろで声がしたから、一気に俺の体は緊張から解放された。
 見れば、そこには、隣家の跡取り息子らしき人物が立っていた。電話の声と同じだから、おそらくそうだろうと俺は一人判断し、勝手に安堵した。

「笹木さん」
「覚えていてくれたのか? それなら、昔みたいに、亮司って呼んで欲しいな」

 確認するように俺が聞くと、猫のような少しだけつり目の瞳で、隣家の青年が微笑した。柔らかそうな小麦色の髪をしている。当然染めているのだろうに、天然のものに見えるのが不思議だった。

 俺は幼い頃、祖父の家に遊びに来るたびに、三歳年上の彼に遊んでもらった。当時の俺は五歳前後であり、彼は中学生だったように思う。今では俺も二十五歳になった。そうであるのだから、彼は三十歳間近のはずだが、正面に立つ彼は非常に若々しかった。俺とさして外見年齢は変わらないだろう。よく二人で、笹木家が飼っていた猫と遊んだものである。珍しい猫で、尾が二つあった。その猫は、いつも近所の者にはいじめられていたことを覚えている。この土地には、二股の猫又が、飼い主を食べて成り代わるという伝承があるからだ。

「手伝いに来たんだ」
「ありがとうございます」
「――そうしたら、迷い家の鏡をじっと見ているものだから、驚いた」
「え?」
「それは、見てはならない品なんだろう?」

 隣に歩み寄ってきた亮司さんは、柔和な笑みのまま、俺の手に、上から手を重ねた。
 引き出しに触れていた俺は、改めて中を見た。
 すると――そこには、先程までは、確かに何もなかったというのに、万華鏡のようなものが一つだけ入っていた。

「これ、は」
「また迷い家に行きたくなった時に、姉崎の家の方が覗くと言うな」

 姉崎というのは、俺の苗字だ。姉崎奏太が俺の名前である。
 この田舎では、姉崎家は名家だと言われている。曽祖父の代で、一財を成したそうで、俺もそれなりに幼少時は裕福な生活を送ったが、父の失踪以来、家は傾いた。それを思い返せば、現在しがないサラリーマンをしている俺には、辛い記憶も多いが――今はそれよりも、亮司さんの言葉が気になった。

「迷い家?」
「――鐘之音岬へ行く途中一帯の山に、不意に出るという家だ。昔そんな伝承を、話してやらなかったか?」

 その言葉に、俺は幼き日のことを回想した。
 確か――山奥に、民家が突如として出現するのだ。そこに招かれた者は、その後裕福になる、家では類まれなる麗人にもてなされる、そんな話だったと思う。そして生涯その迷い家にいられるだけの財や食事を保証するらしい。この土地では、その家主の正体は、猫又だと言われている。

「お父様は、本当に残念だったな」
「え?」
「迷い家に囚われてしまったんだろう? その万華鏡を覗いて」
「それは、どういう……?」

 亮司さんが何を言いたいのか、俺は分からなかった。彼は喉で笑ってから、唇の両はしを持ち上げて、俺をじっと見た。

「現世が嫌になるほどに、美しい土地がそこには広がっているらしいからな。さながら理想郷」
「……」
「この世の不幸から、現実の辛さから、開放してくれるそうだな」
「別に俺は、不幸なんかじゃ――……っ」

 何かが俺に、反射的に反論させようとした。それはちっぽけな誇りだったのかもしれない。だが、そんな自分が惨めに思えて、俺は言葉を止めた。

「お前には、叶えたい願いはあるか?」
「――……別に」
「僕にはあった」

 亮司さんはそう言うと、薄い唇の笑みを深くした。

「人間になりたかった」
「――え?」
「そうして、ずっと、食べてみたかったんだ。幼い頃に、なんて綺麗なんだろうと思った人間を」
「何を――」

 一歩、亮司さんが俺に詰め寄った。そして長い指を、俺の顎の下に置いた。

「お前を、食べてみたかったんだ」

 俺は凍りついた。正面にある亮司さんの瞳に宿った獰猛な色に萎縮した。我ながら顔面蒼白になったと思う。

「――っく」

 すると、亮司さんが吹き出した。楽しそうに笑っている。
 空気が変わったから、俺は脱力した。

「冗談だ。最近僕が老けないから、猫又に成り代わられたなんて噂する連中がいてな。聞いているかと思って――からかってみたんだ。が、そんなに怯えられるなんて、侵害だな」
「やめてくださいよ」
「迷い家の話もそうだ。不謹慎だったかもしれないが、この界隈ではみんながそう噂をしているから、世間話のつもりだったんだ。逆に、耳に入れておいたほうがいいかと思ってな」
「そうだったんですか……」
「お前を綺麗だと思ったのは、本当だけどな」

 亮司さんはそう言うと、俺の手に触れたままで、引き出しを押した。万華鏡だけが入った引き出しが、鈍い音を立ててしまった。

「お前が来ると聞いて、食事を用意しておいたんだ。片付けが終わったら、いっぱいどうだ?」
「ありがとうございます」
「結婚したという噂は聞かないが、恋人は?」
「いませんよ」

 なんだか気が抜けて、俺は苦笑した。一度過度に緊張したせいなのか、妙に今は気楽だ。雑談を重ね、亮司さんも独り身だという話を聞いた。お互い寂しいなと話しながら、俺達は蔵の中を片付けていく。日はすっかり落ちていき、格子の窓の外に見える空は紺碧と代々の中間色に変わった。

 その夜は、隣家にお邪魔して、遅くまで酒を飲んだ。
 不意に話を振られたのは、その時である。

「覚えてるか?」
「何を?」
「俺がお前にキスをしたことだ」

 そう言われて、俺は麦酒の缶に手を伸ばしながら、曖昧に頷いた。二股の猫が可愛いからと亮司さんが額にキスをして、俺のことも可愛いと言ってキスをしたことならばある。

「覚えてますよ」
「今も同じ気持ちだ」
「やめてくれ、俺はもうそんな歳じゃないです」

 首に腕を回されて唇を近づけられたから、酔っ払いは手に負えないなと思いながら俺は押し返した。不思議とここまでは、酔っている様子が見えなかったから、以外でもあった。

「奏太」
「なんですか?」
「――お前が迷い家の鏡を見ていると分かった時、心臓が止まるかと思って、思わず触れていた」
「え?」
「あの鏡は、富の代償に、その末代までの子孫にとっては、大切なものを奪っていく鏡なんだ。例えば、お前からは父親を、そして俺からは――……」
「亮司さん?」
「笹木の家は、姉崎の分家だからな。今となっては、迷い家へ出向いた稀人の血を引く者は、俺とお前だけだ」
「それは、そう聞いてますけど……?」
「俺は、ずっとな、小さかった頃、お前が好きだったんだ。これは本当だ」
「亮司さん……」
「子供だったから、幼かったから、性別が気にならなかったんだと思っていた。だが、違った。今日確信したよ」

 そう口にすると、亮司さんは、俺の頬に手で触れた。

「お前はずっと綺麗だ」
「酔ってるんですか?」
「ああ。酔ってる――ずっとお前が忘れられなくて、未だに独り身だ」
「そう言うセリフは、幼馴染の女に言ったほうがいい」
「お前が女だったなら、女に言っただろうな。性別の問題じゃない。気持ち悪いか?」
「別にそういうわけじゃ――ただ、正直、冗談にしてはタチが悪いですし、本気だったら困る」
「どんな風に困るんだ?」
「それは――……本気にしてしまうからです」

 俺は彼の手を避けるように身を退いた。
 実を言えば、俺はバイセクシャルである。そして俺の初恋の相手もまた、亮司さんなのだ。その相手に、こんな風にからかわれるのは辛い。そう思っていると、亮司さんが、身を乗り出した。軽く肩を押されて、俺は大きく瞬きをした。再び頬に触れられる。視線が正面から交わった。あ、キスされる、そう思った時には、既に俺の唇は奪われていた。

 そのまま、俺達は、体を重ねた。

 畳の上で押し倒された俺は、性急にシャツのボタンを外されて、乳首を軽く噛まれた。右を執拗に舌先で舐りながら、亮司さんは、もう一方の手で俺のベルトを外した。そうされるだけで息が上がる。すぐに陰茎も片手で握られ、俺は快楽に喘がされた。

 無骨な手が、想像もさせないほど繊細な動きで、俺の陰茎をなぞっている。緩く握られ、ゆっくりと手を上下されるたびに、腰がズクンと疼いた。胸の突起を弄ぶ唇は、逆に荒々しい。吸っては舐めて、時に甘く噛み、それを繰り返している。

「ああっ」

 俺が声を上げたのは、後ろに指をゆっくりと勧められた時だった。関節が太い亮司さんの指が、ゆっくりと中へと入ってくる。根元まで入りきった人差し指を、亮司さんが揺らし始めた。その刺激に、俺の体は悶えた。振動させられるたびに、ジンジンと体の内側から快楽が浮かび上がってくる。前を扱く手の動きも早くなり、中への刺激と外への刺激が、どちらがどちらなのか分からなくなった。前立腺を強く嬲られたのはその時である。

「ひっ」

 それだけで俺は果てた。頭が真っ白になる。
 それに気をよくしたように、一度指を引き抜き、俺の白液を手で掬ってから、今度はヌメる二本の指を、亮司さんが中へと進めてきた。ぐちゅりと音がして、俺の中がどんどん暴かれていく。

「あ、ああっ、あ、ハッ」

 汗が止まらない。ほぐすように縦横無尽に指を動かされ、そして俺がもどかしくなった頃には見計らうように強い快楽をもたらす場所を刺激する彼の手、俺はもう虜だった。酸素を求めて喉を震わしながら、きつく目を閉じると、生理的な涙がこぼれた。

「ああっ」

 その時亮司さんが中へと押し入ってきた。挿ってきた巨大な肉茎に、俺は息を詰める。衝撃が怖くなり、亮司さんの首に腕を回した。するとさらに深く貫かれた。卑猥な水音がする。肉と肉が、ぶつかる感覚。全身に悦楽の熱を感じながら、俺はただ咽び泣いた。気持ちが良かった。次第に中送は激しくなり、激しく腰を打ち付けられた。その度に皮膚同士が奏でる乾いた音が谺した。

「うあ、ああっ、ンあ――!!」

 俺は亮司さんが中に放った時、中だけで果てた。絶頂を迎えた体に広がった、水のような快楽は、ドライオルガズムの余韻をどこまでも広げていくようで、俺の体から引いてくれない。ずっと射精しているような感覚で、まるでイきっぱなしのような、そんな感覚に俺は苛まれ、ただ震えるしかなかった。

 そのまま、俺は眠ってしまったらしかった。


 翌朝。

「おはよう」

 声をかけられて俺は目を覚ました。
 朝食を用意してくれていたらしい亮司さんが、俺を揺すって起こしたのである。

「――俺は、昨日のことは後悔していない」
「……俺もです」
「良かったら、ずっとここで暮らさないか?」
「でも、仕事が――」
「俺が養ってやる。一生食うに困らないよう、保証してやるから」
「そんなわけには」
「まぁ、食事にしよう」

 苦笑しながら、俺は起き上がった。それからシャワーを借りて、俺は一度冷静になった。まるで――食事や、生涯困らない財産を保証するなんて、迷い家の主の言葉みたいだなと漠然と考えて、一人で笑ってしまった。

「ずっとここにいてくれ」

 二人で朝食をとっていたら、再び亮司さんがそんなことを言った。
 ――その時、俺は気がついた。
窓の外には森林が見える。しかし、俺の家と隣家は、田舎とは言え街中にあったのだ。ドクンと嫌な気配に胸が騒いた。それとなく周囲を見回した時、仏壇が遠くに見えた。その遺影の中に――なぜなのか父の写真があるように思えた。

「今度こそ、大切にするからな」

 亮司さんは何を言っているのだろう?
 ――今度?
 俺は目を見開いて、改めて亮司さんを見た。そこにある、獰猛な色をした瞳、猫のような目――そして、彼はなぜ、右手に昨日目にした万華鏡を手にしているというのだろうか。

「俺、帰ります」
「どこへ?」
「っ」
「もう箪笥の引き出しは、閉めた。開かない。終わりだ」

 それは、俺のこれまでの生活の終焉を意味する言葉でもあった。

 その後俺は、どこからが現実で、どこからが幻想なのか分からないままで、それでもただひたすらに――ずっと亮司さんの腕の中にいる。だから俺は、俺のいなくなった”現実”で人々が噂する言葉を知らない。


「姉崎さんの息子さん、失踪したらしいね」