大陸時計の鐘


僕は、僕が一番すごいと思っている。
僕はこの広大な帝国を統べている。誰もが僕に傅く。リーブリッヒ帝国の若き英雄――それが僕だ。ルスという僕の名を呼ぶ者の数は少ない。皆が皇帝と呼ぶ。

「行くぞ」

片腕を掲げて軽く振れば、皆が声を上げて立ち上がった。
終戦して三年が経った。僕は二十三歳になった。戦争を終結させたのも僕だ。この帝国は世襲制ではない。最も血に濡れた者が、その帝位につく。

――はじめから誰もが僕に従っていたわけではない。

僕は圧倒的な力で全てをねじ伏せてきたのだ。生を受けた時から僕は、教養も理論もいっさい学ばず、ただただ実践魔術のみを叩き込まれて育ってきた。そんな生家が焼き討ちされたのは、僕が十六歳の時だった。十三の年には既に戦場に出ていた僕は、その報せを聞いても何も思わなかったものである。

嫉妬、嫉妬嫉妬。

周囲に渦巻くドロドロした感情に、いつしか、僕は無関心になった。人は言う。僕を天才だと、僕ほどの実力の持ち主はいないと、皇帝になるべくして生まれてきたのだと。その口の根が乾かぬうちに、そうして笑うのだ。人を殺すしかできないくせに、少し魔力が強いからなんだ、繊細さの欠片もない魔術の行使しかできないくせに、史上最悪の皇帝だ、と。全く持って笑ってしまう。

もう良いのだ。皆、僕を崇め奉れば。

何人たりとも信用してはいけない。己のことですら、信じてはならないのだ。毎朝無事に目を開くことが出来た時にだけ、生に感謝すればいい。

毎日は、そんな風に代わり映えしない。

回廊を歩きながら、僕は目を細めた。侍女や侍従が慌てたように、壁際に逸れていく。皆が頭を下げる姿は圧巻だ。頂点。それが僕だ。

「皇帝陛下」

その時声をかけられた。僕の歩みを遮れば、基本的には死罪だ。視線だけ向けると、そこには青地に金環の描かれた布を方につけた兵士が一人、礼を取っていた。あの紋章は、北部の伝令部隊のものだったか。

「北の強国――」
「北に強国など存在しない」
「っ、失礼致しました。北のトゥロッケン王国から使者が参っております。皇帝陛下が治める誇り高き我らがリーブリッヒ帝国と協定を持ちたいと」
「協定?」

僕は僕の国以外を強国だなどと認める気はないが、北は喰えない。先の大戦でも、北は参戦しなかった。もしもトゥロッケンが参戦していたならば、僕が皇帝になるのは二年は遅かったかも知れない。

「≪大陸時計の鐘≫の件でと――」

その声に背筋が冷えた。思わず目を細める。確かこの国から西方の果てに当たるミスルナ王国王族が部品の管理をしていたはずだ。≪大陸時計の文字盤≫は、アルアキア帝国が管理していると聞く。それは、皇帝だけが知らされる秘宝の名だ。
この大陸には広く、『空から巨大な星が降ってくる降水記』というお伽噺が広がっている。
ここからは皇帝にのみ伝わる話しだが――星が迫った時、”完成”した大陸時計を用いなければ、この大陸は沈むそうだ。我が国、リーブリッヒ帝国は、その内の”鐘”を管理している。しかしその事実を知る国はそう多くはないはずだ。アルアキア帝国からは既に使者がきた。だがアルアキアの皇帝の言葉がまことならば、星は去ったはずだ。

「≪大陸時計の鐘≫などという架空の話の妄言を、わざわざ使者を立てて? こちらに応える意志はない。下がれ」

僕は嘲笑した。まずもって、皇帝にのみ代々受け継がれる秘密を、このように何も知らない人間ばかりの所で、話す気が起きなかった。
それ相応には、僕だって、大陸時計に興味はある。だが僕は散々子供だと侮られてきた。ここで童話に心を躍らせるような愛らしさを見せてやる必要はないのだ。わざわざ蔑まれるための小ネタを提供してやるほど僕は優しくはない。

それから治水工事を視察に出かけ、夕方僕は玉座へと戻った。
頬に手を添え、己の無表情を思う。もういつから笑っていないのだろうか。歪んだ笑みは朝浮かべたか。基本的に僕の表情は変わらない。作り物のようだと度々言われる。勿論影で、悪い意味合いで。

僕には、心から笑った記憶は一度しかない。侯爵家だった僕の家に、ある日、客人が訪れたのだ。父の友人だと名乗った壮年の男と、その子息。子供は、丁度僕の四つ上の年だった。あの日、僕は人生で一度だけ、初めて子供らしく遊んだのだ。遊ぶことが許されたのだ。僕は六歳で、十歳のその少年が酷く大人びて見えた記憶がある。この辺りでは珍しい黒髪に紫色の瞳をした少年だった。ジャックという名だったか。

「皇帝陛下、隣国から使者がお見えです……トゥロッケン王国の第二王子殿下が直接いらっしゃっております」

思考が途切れた。響いてきた声に、双眸を伏せる。きつく力を込めてから、静かに嘆息した。トゥロッケンは、本気で話があるのか。しかしこちらから話すことは何もない。だが応えなければ、僕が”何も知らない”と勘ぐられるだろうか? それは新たな火種を生むかも知れない。今、北と戦を起こしたくはない。

「王族自らのお出ましか。通せ。食事くらい振る舞ってやろう。用意を。最上の葡萄酒の用意を」

立ち上がり僕は、右手を振ってそう支持を出した。
――そこまでは、恐らくいつも通りだったのだろうと思う。



「突然の訪問失礼致しました、皇帝陛下。会食の場を設けて頂き恐縮です」
「別に構わない」

相手を見る前に、僕は、ワイングラスに手を伸ばした。低い声を聞きながら、傾ける。
それから改めて使者を見た。濡れるような黒い髪、紫闇の瞳。つい先ほど思い出していたばかりの、幼少時の友人と重なった。短く息を飲んだ時、視線があった。そして柔和な笑みが返ってきた。

「もしかして覚えていてくれたのか?」
「……」
「ルス。俺は、君を忘れたことはなかった」

嗚呼。
嗚呼、まずい。
硬直した僕は、動揺を押し殺しながら、言葉に迷った。
幼き日の数少ない良い記憶を、汚れた現在の僕自身で書き換えたくはなかった。
いくら変わらないように優しく笑っているように見えても、すでにジャックもまた大人であり、目的を持ってここへと来ているのだ。気を許すことはあってはならない。逆にそんなそぶりを、部下へと見せるわけにもいかない。

「大陸時計の話は、ここでは出来ない。違うか? ルス、俺は――」
「気安く僕の名を呼ぶな」
「俺のことは気軽にジャックと呼んでくれ」
「っ」
「昔みたいに」
「……」
「会いたかったんだ。ずっと、ずっと」

ジャックは変わらない。その事実に空しくなった。僕は、変わったのだろうか?
いいや――恐らく僕も変わっていない。ただあの一時が例外だっただけなのだ。

「だけど、この場ではゆっくり話せない。”鐘”の話も”昔話”も」
「弾む話は何もないと思うが、席は設ける」

やはり気を抜くわけにはいかない。ジャックの真の訪問目的すらまだ分からない。一体何をしに来たのかくらいは聞いておいても損はないかも知れない。そして、場合によっては殺してしまえば良い。トゥルッケンから王族など来なかった。歴史書にはそう記される。

「――宰相、第一迎賓館の人払いを」
「ですが、陛下」
「構わない。この僕が劣る相手ではない」

僕が立ち上がると、勢いよくジャックもまた立ち上がった。一瞥すれば、精悍な笑みを浮かべている。背が高い。肩幅も広い。僕はどちらかといえば痩身だ。

「有難う、ルス」
「気軽に名を呼ぶなと、次ぎに言わせたら分かっているだろうな?」
「皇帝陛下のご厚意に感謝いたします」

歩き始めた僕の隣に、ジャックが追いついてきた。並んで歩く。そうすると身長差をより意識した。僕とてそう低い方ではないのだが、ジャックはとても高い。それだけで少し威圧感がある。だがその柔和な表情のおかげか、人好きのする容貌の持ち主だなと思う。僕には無いものばかりを持っている。別に羨ましいわけではない。彼のようになりたいとは思わない。もし僕が彼のようで在ったならば、とうに失脚していただろう。

赤い絨毯の上を歩き、迎賓館へとはいる。
入り口から先には、普段は並んでいる侍従達の姿がない。宰相も、入り口で立ち止まった。視線で扉を閉めるように命じる。

「ああ、やーっと、二人っきりだ」

背後で鈍い音がした時、ジャックが天井に向かって腕を伸ばし、笑み混じりの声を上げた。
それには構わず、真正面の階段を上り、二階を目指す。僕は通す部屋を思案した。通常であれば、外交の場は、相互の魔力を封じる場所となる。しかしジャックが魔術師であるか否かを僕は知らないが、彼には少なくとも手に出来た剣だこを見る限り、魔術以外の武力があるにもかかわらず、僕にはそれがない。僕は、実践的で戦略的な魔術がなければ、体術一つまともに使うことは出来ないのだ。不意打ちされれば太刀打ちできない。では普通の客室に通すか。別に構わないか、それで。

「入れ」

今、この国に来ている使者は、ジャック一人だから、用意された部屋はすぐに察しがついた。中に入ると、むせかえるような花の匂いがした。リーブリッヒでは、客人をもてなす時花を飾るのだ。青と白の花弁の色彩。緑色。何もかもが嘘くさくて僕は嫌いだ。

「失礼します――うわ、すごいな。小さい頃来た時も思ったけど、この花の山」
「座れ。無駄口を叩くな」
「悪い悪い見とれたんだよ、本当。この青、お前の目みたいで綺麗だな。白は肌の色」
「は?」

辟易しながら、僕はテーブルの前に座り、卓上に用意されていたロックグラスをひっくり返した。確かに僕の髪と眼の色は青く見えないことはないだろう。そして日の光の下では常に、魔術行使のためのローブを纏っているから、日焼けはしていない。病的に白いと囁かれたことがある。しかしまさか花にたとえられる日が来るとは思わなかった。

「この花、ヘンデルって言うんだろ?」
「……」
「小さい頃、土産に持たせて貰ったよな? あんまりにも綺麗でお前に似てたから、父さんに聞いたんだよ。そうしたら教えてくれたんだ」
「悪いが僕は花には興味がないんだ」

事実だった。名前すら、僕は知らない。

「それよりもジャック第二王子。用件は?」
「ああ、うん。はは、≪大陸時計の歯車≫をトゥルッケンは”発掘”した。監禁する予定だ」

濁されるかと思ったが、あっさりとジャックは本題に入った。
監禁という言葉に、事実なのだろうなと分かる。≪大陸時計の部品≫は、”文字盤”と”鐘”以外は、人体の中に宿っているというのが、僕とアルアキア皇帝の共通の見解だ。

「北が歯車を守護しているとは聞かないが、好きにすればいい」
「好きにして良いのか?」
「我が国には関係の無いことだ」
「――本当に良いんだな? その名をもって誓えるか?」
「ああ、誓――……どういう意味だ?」

僕は怪訝に思って顔を上げた。迂闊に、名前の誓約を用いることはならない。それは魔術の根本原則だ。見れば、ジャックが吹き出すように笑っていた。

「別に。誓うのか気になってな。ただそれだけだ」
「謀るな」
「流石に引っかからないか」
「好きにして良いという誓いを僕から取ろうとしたんだな?」
「だったら? まぁ、そう怒るなって」

相変わらず人好きのする笑みを浮かべているくせに、ジャックは否定しなかった。
怖気が這い上がってくる。これだから、北の人間は好きにはなれないのだ。
――だが、何故僕の言質がいる?
歯車が、このリーブリッヒに関わりがあるからではないのか?
とすれば、歯車はこの帝国で発掘されたのだろう。それも、僕の許しがなければ近づけない程度には高位の家柄の人間から。ならば侯爵家か。

「歯車はこちらで処理をする。用件はそれだけか?」
「それじゃあ困るんだよ」
「北には本来無関係のことだ。そうなんだろう?」
「関係がある。リーブリッヒ帝国に、”鐘”があるだけでも事だというのに、”歯車”まで存在するとなれば、大陸の勢力図は書き換えられる」
「何も問題はない。最強を誇るのは、この国に変わりはない」
「ルス。警告する、お前は力を持ちすぎた。トゥルッケンは、抑止力としての役目を果たさなければならないという結論を出しているんだ」
「お前? 誰に物を言っている」
「お前にだよ、ルス」

強く言われて唇を噛んだ。息苦しい。結局はやはり、幼き日の思い出など幻想だったのだと思い知らされた気がした。

「リーブリッヒに恐れをなしたのか」
「ルス。真面目に話しているんだ。お前が、力を持ちすぎなんだ」
「この国はこれからもっと強く偉大になる」
「別にトゥルッケンはは、リーブリッヒを恐れてはいない。ただ純粋に、お前が力を持ちすぎていると警告しているんだ」
「僕がリーブリッヒであり、全てだ。即ち僕が力を持っていると言うことは――……」

言いかけて、僕は動きを止めた。
作りかけの酒の上に、アイスが落下した。琥珀色の酒が、氷のせいで周囲に飛び散る。
大陸時計の説明を聞いた時、宰相は、まさに同じ事をした。巨大な星をこの四角い、アイスのブロックに例えて。海が酒だ。洪水が起きるのだ。
――隕石の軌道を逸らす反重力装置。
古文書にはそう記されている。それが大陸時計の正体だ。部品の数々も単独でも僅かながらにその力を持つと聞く。僕は、皇帝となった今、意図的に”鐘”の力を使うことが出来る。だからアルアキアから使者が来たのだ。それが、僕の”力”だ。知る者は知る。
だが、リーブリッヒ皇帝が、その力を持つことは古代から定められた事だ。過ぎた力だと笑われることは在ろうとも、持ちすぎだと評価されるほどではない。
おかしい。
ジャックは何を言おうとしているんだ?

「僕が……リーブリッヒではなく、僕個人が、力を?」
「そう言っているつもりだ」
「歯車は僕の中にあるのか?」
「歯車もお前の中にあるんだ。そうだろう?」

全身が総毛立った。硬直した僕の正面から、ルスがグラスを手に取り、一気に飲み干した。
それを見てから力が抜けて、僕は椅子に体重を預けた。

「歯車は死ななければ移動は無理だ。だが鐘は移動できる。すぐに皇帝の座を降りろ。誰かに譲り渡せ」
「そんなこと、出来るわけが……」

もしも僕が失脚したら。
この国は再び戦禍に飲まれるかも知れない。だがそれ以前に。誰も僕の身を保証してくれなくなるだろう。僕は処刑される可能性が高い。

「安心しろ。お前のことは、俺が守る」

響いてきたジャックの声に、僕はグラスに手を伸ばしながら、彼を睨め付けた。

「その言葉を信じろと言うのか? 軽々しいお前の言葉を」

言い放ってからグラスを乱暴に傾けた。無理に強い酒を飲み込んで動揺を押し殺す。
僕に救いはない。誰も信じることは出来ない。考えろ。どうすればいい?
グラスを置いて片手で唇を覆った。

「そもそも僕自身ですら知らない僕のことを、何故お前が知っているんだ」
「何故お前の家が焼き討ちされたのか」
「それは、僕が戦場で――」
「お前が戦場で功績を挙げたからだ。”歯車”の力を用いて。意識的なものではないだろうけれどな。意識的に制御されるようになっては困るから、その手法を記した古文書を運び出した末に始末したと聞いている」
「誰に聞いた?」
「リーブリッヒ前皇帝陛下だ」
「あの愚か者を処刑したのは僕だ」
「愚かだったのはお前だ。最後まで、前皇帝陛下はお前の身を案じていた。違うか?」
「……」

きつく目を伏せる。しかし、他にあの戦を終わらせる術を僕は少なくとも知らなかった。
だから後悔はしない。一人殺すも二人殺すも百人殺すも千人殺すも僕の中では同じだ。その相手が大切でも面識すらなくても変わらない。結局の所僕は人殺しなのだ。

「では古文書を全て引き渡してくれ。完璧に制御する」
「無理な相談だ」
「ジャック王子。殿下は何を恐れているんだ? 大陸時計の力を僕は今以上に戦に使うつもりはない。今のところは仕掛ける予定もない」
「お前の身を案じてる」
「自分の国を、案じているんだろう?」
「俺は民衆が好きだ。それは否定しない。この大陸が好きだ。それも真実だ。でもな、同じくらいお前も好きだよ」
「たった一度、会ったことがあるくらいで何を――」
「その一度が俺にとってはかけがえがなかったんだ。もうすぐ、トゥロッケンでは兄が死ぬ。そうなれば、王位は俺が継ぐ。ルス。全てを捨てて、俺の国に来い」
「それが”監禁”か?」
「そう言うことだ。表向きの理由はいくらでも作る。誓って大切にする」
「事情が事情だ。皇帝の座を譲り渡すつもりはないが、亡命先には、そう言う理由であれば困らない。僕はアルアキアに行くことも出来るだろう」
「可能だろうが、実現は無理だ」
「何故?」
「トゥルッケンは、俺に一度しか猶予をくれなかった。今日のこの会談が失敗に終わった場合、俺は責任を持ってお前に手を下して帰ることになっているんだ」
「僕の国で、多大なる力を持つ僕を相手に、果たして手をどうやって下すんだ?」
「俺にだけはそれが出来る。幼い頃、お前に”誓わせた”からな」
「……――っ」

その声に僕は目を見開いた。たった一度だけ遊んだあの日、僕は木から落ちた。その時ジャックに抱き留められて、僕は痛みに泣きそうになった。確か、その時僕は、誓わなかったか?

「あの時、お前は誓ったな。『もしもジャックに僕の目の前で命の危機が迫ったら、変わりに死ぬ。ルスという名前に誓う』――一言一句忘れた日はない」
「そんな子供の戯言――」
「名前の誓いは絶対だ。父が何故俺にそのような誓いをするように指示を出したのか、当時は分からなかった。だが、いまわの際に聞いた。俺達の出会いも何もかも、仕組まれていたんだよ。だが俺はこの運命には感謝している。お前に出会えたからな」

ゾクリと体が震えた。僕はこれまで何も知らずに生きてきた。
それに僕には、感謝できそうにはない。恨みこそすれ。
こうなるくらいならば、出会わない方が良かった。

「俺は今短剣を持っている。これで喉をひとつきにしようとした場合、誓いにより代わりにお前が死ぬんだ」
「……」
「皇帝の座と命、どちらが大切なんだ?」
「考えさせてくれ」

反射的に僕はそう口にしていた。とてもすぐに回答を出せそうにはない。混乱と焦燥感に襲われて、息苦しさが増していく。

「悪いな、時間が無いんだ。決断しろ、ルス。今この場で」
「っ」
「俺に賭けてくれ。必ずお前を幸せにする」
「幸せ? 僕の幸せが何かなど、お前に分かるはずが――」
「毎日笑い会える日々を用意する。それが俺に出来る精一杯だ」

力強いその声に、僕は全身から力が抜けていく気がした。
嗚呼。
嗚呼、やっぱり駄目だ。

僕は、誰も信じない。悩むこともない。だけど。決断を先送りにしたこともない。
迷いは、僕の生命の危機に直結する。
所詮僕は、死にたくないのだ。僕が大切だと思うものは、僕の命だけだ。
だから結局の所、答えは一つだったのだ。

「僕の命と最低限の生活を保障してくれるのであれば、皇帝の座を降りて、トゥルッケンへ行く」

僕が退任したのは、その年の秋だった。次の皇帝には、宰相を指名した。
トゥルッケンの第一王子が亡くなったのは、その年の冬だ。
長らく空席だった国王の座には、宣言通り、ジャックが就いた。
春になってから、僕はトゥルッケンへと居を移すことになった。意外にも、リーブリッヒでは惜しまれた。寂しいと言って泣いてくれる者までいた。少しだけ、僕も泣きそうになった。そんな経験は初めてだったから。

そして再び夏が来た。僕は今、魔導書を眺めながら、ジャックが来るのを待っている。

ジャックは相応に忙しい。僕から見れば優しすぎる治世をしている。
僕がこの国に滞在している名目は、リーブリッヒとトゥルッケンで共通の、魔術教育機関――”塔”を作るためだということになっている。広大な土地を持つトゥルッケンに建設予定だ。実際に、それは建造中だ。招く魔術師の選定も始まっている。実際には、教育するだけではなく、≪大陸時計≫についての研究が目的だ。だからアルアキアやミスルナからも人が来る。ここでも僕は、天才だと言われた。しかしその賞賛が、今度は心地よかった。好きなだけ魔術に打ち込めた。これまで知らなかった理論を学ぶことが出来ている。理解できるというのは気分が良い。今までどうしてこうするとそうなるのかが分からなかったというのに、今でははっきりと理解できる。

「悪い、待たせたか?」

背後に立ったジャックが、僕が魔導書を捲る手を押さえた。
短く息を飲んで首だけで振り返ると、温かい微笑がふってきた。そのまま屈んだジャックに、額へとキスをされた。柔らかな感覚に、頬が熱くなって、思わず顔を背ける。

「別に」
「俺はお前に会いたくて、議会を途中で解散しようか悩んだぞ」
「馬鹿なことを言うな」
「今日もルスは綺麗だな。愛してる」

いつだって僕は、ジャックのこんな声に言葉を失っている。
全く、恥ずかしくないのだろうか? 聞いているこちらが恥ずかしくなる。第一愛とは何だ。聞いてみようかといつも思うが、自分では口に出すだけで羞恥が募るからそれはしない。そのまま後ろから抱きしめられた。僕をギュッと抱きしめる腕は力強く温かい。

「今日も部屋に行って良いか?」
「別に構わないが、何もないぞ。いつも通り」
「お前がいる。ルスがいてくれるだけで良い」

僕にはジャックが何を考えているのかいまいち分からない。だが、今日も宛われた家へと彼を通す。二人で、僕の部屋へと行き、雑談をしながら酒をなめる。ただそれだけだ。今日もそれだけだと思っていた。

「なぁルス」
「なんだ?」
「そろそろお前の気持ちも聞かせてくれないか?」
「僕の気持ち?」

言われている意味が分からなくて、僕は魔導書を書架に戻しながら視線を向けた。
テーブルの上に肘を突き、指を組んだジャックは、僕をじっと見ていた。

「俺はお前のことが好きだぞ」
「? そうか。有難う」
「お前は?」
「僕もジャックのことは嫌いじゃない」
「……嫌いじゃない、か」
「ああ」

ジャックが目を細めた。頷いた僕は、何か回答を間違ったことを悟った。ジャックの瞳が冷ややかなものへと変わった。

「俺はお前を愛している。だからもう、ここには来ない方が良いな」
「どういう事だ?」
「そろそろ自制できない」
「何を?」
「お前が欲しいんだよ」
「? 僕ならお前の望み通りトゥロッケンに来ただろう」
「≪大陸時計≫の話じゃない。お前個人の話だ。国の話でもない。俺個人の問題だ」
「?」

僕は首を傾げるしかない。ジャックが何を言いたいのか分からないのだ。だがジャックは苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見ている。そのような鬼気迫る表情をされても困るのだが。

「……俺の恋人になってくれないか?」

困惑していた時、ポツリとそんな声が聞こえた。
――恋人? 想定外のその言葉に、僕は狼狽えた。恋人……? これまでに散々聞かされた、”愛”という言葉がようやく繋がった。まず二つ考えた。一つ、この僕を愛する人間がいるとは信じられない。よってこれは懐柔するための言葉なのではないか。二つ、断った場合、僕の首は刎ねられるのか。

「ふ、複雑に考えないでくれ、な、ルス!」
「……」
「嫌なら嫌で良いし! な、何もしないから」

何もしない……? 処刑はしないと言うことか? だとしても、これは……対応に困る。

「キスはこれまでだってしてたから、良いだろう? 他は、何もしない」
「え?」

その声に、息を飲んだ。キスが分類される範囲で、何もしないというのは……それは、あるいは性的接触を指すのではないのだろうか? まさか、冗談だろう? 僕もジャックも男だ。戦場では同性同士の恋愛もあった事を幾度か聞いたことがあるが、今は平時であり、ジャックは国の後継者を設けるべき立場にある。正直言って混乱した。

「俺にキスをされるのは嫌か?」
「……」

正直、いつの間にかされるようになっていて、それが自然になっていたからよく分からない。呆然と立っていると、ジャックがこちらへ歩み寄ってきた。そして僕の手首をひくと、抱き寄せた。そのまま僕の鎖骨の上に唇を落とした。鈍い痛みに息を飲む。唇が離れると、そこを指でなぞられ、今度は耳の後ろに口づけられた。くすぐったい。そうされると、何故なのか吐息が上がりそうになる。片手では腰を支えるように撫でられた。

「嫌か?」
「ジャック……」
「絶対に酷くしない」

酷く? 何を? え? どういう意味だ?
言葉を失った僕はただ呆然とジャックを見上げた。するとするりと服を脱がされた。呆気にとられている内に、そのまま側のソファの上に押し倒された。え。目を見開いた時、唇を深々と貪られた。目を伏せた端正なジャックの顔が真正面にある。これまでにしたこのない程の情熱的な口づけに、無意識に舌が逃れようとした。だがそれは許されず、僕の呼吸があがりきるまで、ずっと口腔を蹂躙された。

僕は今ではもうジャックのことを少し知っている。笑顔で近寄ってきて、優しく見えて、けれど譲らないところは貫き通すのだ。果たして、僕に拒否権はあるのだろうか? あまりにも自然に歩み寄られ、今日までの間に気づけばその体温に慣らされていたせいなのか、困惑の方が強いけれども、ただそれだけで、体は拒否しなかった。寧ろ力が抜けていく。

嗚呼。
嗚呼、これは駄目だ。
多分僕は、ジャックに身を任せてしまう。もうとっくに、絡め取られていたらしい。


「ン……ああっ」
「少し力抜けよ」
「む、無理だ……ッ……ひ」

太股を持ち上げられて、体を進められた。陰茎で感じる場所を突き上げられると、視界が明滅した。羞恥に駆られて手で口を覆うとすると、手首を片手で押さえられた。

「ああ、あ、ア……ああっ、ン……!!」
「もっと声を聞かせてくれ」
「や、止め、もう……うああ」

そのまま激しく抽挿されて、僕は泣いた。いつの間にか快楽だけが脳裏を占め、何も考えられなくなっていく。胸の突起を指でなぞられ、首筋に何度も噛みつかれた。グチャグチャと音がする。いつから用意していたのか香油を何度も体に垂らされた。熱い。腰の感覚が無くなっていく。反転させられて、今度は後ろから貫かれた。

「あああっ、ひ、うあア、ン、ん――ン……――ああっ、や、あ、イ、イく」
「俺も出す」

体の中で、僕は熱を感じた。全身が汗ばんでいる。前を静かに撫でられ、僕もまた果てた。ぐったりと全身をソファに預けて、瞬きをすると生理的な涙が零れた。僕は、僕の中でもジャックが、大切な存在なのだなと実感した。


このようにして、僕はジャックの恋人になった。

改めて思う。≪大陸時計≫は、世界を救ってくれたのだと。そう、僕のこの世界を。世界には、愛が溢れていた。祝福する鐘の音が聞こえてくる気がした。運命の歯車は、良い方向に廻ったのだと思う。

――後に、塔の総括者となった僕は、お伽噺を語り継ぐ。