ファウスト





思考に靄がかかっている。朦朧としているのに近いかもしれない。僕は左手で、首に触れた。重い首輪が嵌っている。縦も横も分厚い、黒い鉄製の首輪だ。触れれば冷たかったけれど、それよりも重みの方が存在感がある。
部屋には甘すぎる花の匂いが広がっているのに、花はどこにもない。
僕が座っている椅子の前にある、丸いテーブルの上の燭台から広がっているみたいだ。僕は白くゆったりした服の上に、紫色の上着を羽織っている。右手には窓があるが、分厚いカーテンのせいで何も見えない。僕の左手の、小指から薬指までには、それぞれ銀の指輪がはまっている。右耳にはピアスがはまっている。
床は橙色の絨毯で、突き当たりの壁のそばに、簡素なパイプベッドがあった。
ーーここはどこだろう?
僕は始めてそんなことを考えた。
思えば、部屋の中を見回したり、自分の服や装飾具について考えたのは初めてだ。
少なくとも昨日僕はこの部屋にいたし、一昨日もいたと思う。
「食事だよ」
その時声がかかって、扉が開く気配がした。
全身がけだるかったが、ゆっくりと振り返る。すると驚いた顔をされた。
手にしているトレーを、僕の前にあるテーブルに置いてから、入ってきた青年が微笑した。柔らかそうな暗紫色の髪と瞳をしている。ハイネックの光沢ある黒服の上に、紫色のローブを三着重ねて着ている。それらを肩へと流していて、服にさらに黒い糸で刺繍された薔薇の花が見えた。
「気分はどう?」
僕の隣へと座り、青年が柔和に笑った。昨日も彼はここにいた。食事をみってきたのも、着替えをみってきたのもこの青年だ。僕はいつからここにいるのか忘れてしまったけど、少なくともずっとこの青年もいた。正確には、いた、ではなくて毎日訪れるのだろう。
「僕はファウストだよ」
昨日も聞いた。ファウストとは、青年の名前だろうか。僕の名前はーーセトだ。
「君は、イチバン?」
イチバン、とはなんだろう。僕にはそれがわからない。
トレーを見るとシチューが乗っていた。
「お腹すいた?」
よく分からない。今僕は空腹なのかそうじゃないのか。
「もう少し後でねーーさあ、これを飲んで」
ファウストは、苦笑した後、小瓶から白い錠剤を三粒取り出した。
「はい」
水もないし、手渡されるわけでもない。
だけど飲み方を僕は知っていた。
ファウストの手のひらに唇をつけ、目を伏せて舐めとる。
口の中では、すぐに薬が解けた。甘くて苦い。
そこで僕の記憶は途切れた。


「ひゃッ、ンぁ、あ……っ……んゥ」
身体を這い上がる熱が、僕の腰から力を奪って行く。
太ももを折り曲げられ、中をゆるゆると突かれる度に、快感が全身を支配した。
「ああ、んぁ、あ?? ひ、ぅ」
今度は角度を変えて突き上げられ、片方の太ももだけをさらに持ち上げられた。
「好きだよね、ここ」
「あああ」
「こっちもして欲しい?」
中の最も感じる場所を激しく突かれ、同時に前へと伸びてきたファウストの手が、僕の陰茎の先端を嬲った。ヌルヌルと先走りの液を塗り込むようにされると、背がしなって、涙がこぼれるのを止められなくなる。気持ち良くて息苦しい。
「やぁあ、んぅ、あ」
瞬きをするたびに、涙がこぼれて行き、視界がゆがむ。
そのうちに中の角度を再び変えられ、手の動きは止まった。
「ひ、ぅ、ア、ああ……ぅあああ」
もっと動いて欲しくて僕が腰を揺すると、さらに焦らすように陰茎の筋を指でなぞられた。じわりじわりともどかしさばかりが募って行く。
「どうして欲しいか言ってごらん?」
「ああ、ヤだ、出した……っ、ああン、ゃ、ああああああ!」
無我夢中で首を振りながらいったら、激しい抽送が再開した。
ぬちゃぬちゃと香油がもたらす粘着質な音が響く。
体を駆け抜けて行く尋常ではない熱と快楽に、すぐに僕は精を放って気絶した。

気がついてみると、僕は木製のフォークを持っていて、静かにシチューを食べていた。皿も木製だ。服は着替えているみたいで、だけどいつもと同じ服だった。ファウストは隣の椅子で、僕を眺めている。だから視線があった。
「今日はよく視線が合うね」
そうなのだろうか。そうなのかもしれない。
だけど僕はどうしてここにいて、ここで何をしているんだろう。
ここにいることに、これまで僕は疑問をもたなかったのだけれど、その理由もわからない。
「ねぇ、イチバン。君はどうしてイチバンになったの?」
しかしファウストの言葉の意味もわからない。少なくとも僕はイチバンの意味を知らない。何かに秀でていた記憶もない。他の記憶もーー? 僕には記憶と呼べるものがないもかもしれない。
「僕はね、君と話がしたいんだ」
言われて始めて僕は、自分が何も言葉を発していないことに気がついた。
いつから僕は話していないのだろう。
なぜ僕は話すという行為を忘れていたのだろう。
「……僕は、」
話をしようとして、何を言えばいいのかわからなくなった。
だがこのたった一言だけで、驚愕したようにファウストが目を見開いた。
やはり何も言わなければよかったと思って顔を背ける。
しかし両肩をファウストに叩かれたものだから、驚いてスプーンを取り落とした。幸いだったのは皿の上だったことだろう。
「話せるんだね?」
「え、あ……」
「そうか、良かった」
今度は安堵の息を吐いたファウストが、微笑した。
「ーー驚かせちゃったね」
僕がおずおずと頷くと、ファウストが手を組んだ。
「そうだ、食べたいものはある?」
「食べたいもの……」
繰り返して見たものの、僕は食べ物のことをあまり知らないみたいだった。今食べているもにがシチューだということは知っているけれど。
食べ物について考えていたらその日は終わってしまった。だから結局僕は何も言わないままだった。気がついたらまたシチューがテーブルに置かれて、ファウストが来たのだとわかった。
「シチューが好きなのかと思ってね」
僕はそれから再び、錠剤を飲んだ。

「っ、は、ぁああ、んんンぁああ」
寝台に座らされた僕は、太ももを押し開かれ、陰茎を口に含まれている。
舌先で鈴口を刺激され、吸い上げられたかと思ったら、今度は力をこけられた唇が上下し、扱かれる。何度も何度もそれを繰り返されている。
「や、やだ、ぁ」
出したくて太ももが震えた。
酷くゆっくりと口淫され、その丹念すぎる動きに、肩で息をした。
恥ずかしくなって、両手を口に当てる。だが声が抑えられない。
「んああ、ャア、あ、ンンんっ、フぁ……ひゃッ??」
その時口の動きが早くなり、あっけなく僕は果てた。
今日は意識を飛ばさなかった。

再び気がついた時には、食事を終えたところだった。
「美味しかった?」
食べた記憶がなかったから、返答に困った。
なぜ僕の記憶はこんなにも脆く曖昧なのだろう。
「イチバンの好きな食べ物を教えて」
おそらく昨日も、そして今日も、この言葉を何度も聞いた気がする。
僕は、必死で答えてみようと言葉を探した。
「食べ物がわからないから」
ようやく答えると、動揺したように勢い良くファウストが立ち上がった。
音を立てて椅子が倒れる。
「じゃ、じゃあ……ええと、カレーとシチューならどっちが好き? 両方とも知らない?」
「シチュー」
「そう。教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
ありがとうと言われたら、どういたしまして、というのは知っている。
そこまで考えたのは覚えているが、また記憶が途切れた。


結局ここがどこなのかわからないまま、また僕は朝を迎えた。
ファウストが来るのはいつも夜だと思う。
二十四の数字が並ぶ時計が教えてくれる。
だから背後で乱暴に扉が開いて、心底驚いた。
振り返るとそこには、ファウストの服によく似たものをまとった長身の青年が一人立っていた。意地悪そうに笑っている。彼の背後には銀色の甲冑をつけた沢山の人が槍や剣を持って立っていた。
「お前が帝国の人形か」
その言葉を聞いたことまでは覚えている。

次に気がつくと僕は、首と胴体が切り離された人々の中にいた。
手には、血に濡れた剣を持っていた。頬を何かがした立って行く。生臭い匂いがした。ゆっくりと衣服を見れば、白い服が真っ赤に染まっていた。何だろう、これ。
立っているのは僕と、黒衣の青年だけだった。彼もまた剣を握っている。
その時慌ただしく駆け込んでくる足音がした。
「大丈夫?」
ファウストだった。僕を見ると彼は、安堵したように方から力を抜いた。
「大丈夫なわけがあるか。見ればわかるだろう。一部隊全滅だ。五分もかかって無い。俺の部下はあの世だ」
「人が不在の時に勝手に家宅捜索しないでもらえるかな? 自業自得だ」
「捕虜を、甘毬の媚香を充満させた部屋に置くような人権侵害を犯す相手の家を捜索して何が悪い」
「初めて帝国の人形を生存した状態で捉えたんだ。どんな手を使っても良いと陛下の許可はもらってる。シュタイン、いい加減にしてもらえるかな。どうせ見に来ただけだろう?」
「怒るなよ、こっちは部下失ってるんだから。ま、否定はしないけどな。お前の言う通り、生存例は連盟各国でみてもコレの一件だけだしな。それも、帝国一と謳われる、不動の一番だからな。この人形」
「僕たちが手にしている以上、すぐに次の一番が現れるさ」
「だろうな。帝国は、人形作りが盛んだからな。戦争用の人形に、暗殺用の人形に。停戦状態の今じゃ、性奴隷作りも激しいみたいだけどな。それにしても、信じられない科学力だよ。各国の言語、戦闘能力、演技力、全部一人の人間に叩き込めるんだからな。暗殺手法を学ばせずに、感情を学ばせるようにすれば、この国の学校よりよほど優等生を作ることができてる。冗談な話じゃなく、せめて言語を習得させる技法だけでも解明できれば、識字率の向上に苦労しなくてよくなる」
「確かに恐ろしいね。このイチバンだって、これで後は性戯も叩き込まれてたら、僕でも話を引き出せなかったかもしれない」
「今は引き出せてるのか?」
「カレーよりシチューが好みだって」
「一ヶ月かかってそれだけかよ」
「シュタイン、君を横領の容疑で告発するだけの資料を僕はいつでも作ることができるんだよ」
「帰る。さっさと仕事しろよ、ファウスト。ただ性的玩具として囲ってました、じゃ話にならない」
シュタインというらしい青年は出て行った。
僕は二人の会話の意味がわからないままで、床にたくさんある死体を見ていた。
これは、僕がやったのだろうか?
「これは……」
「今日から部屋を変えようね、イチバン」
「……」
そのまま僕は別の部屋へと連れて行かれた。


「ひぅ、あ……ああ!」
猫のような体制にさせられ、二本の指で後孔を抜きさしされる。香油でぬめっているせいで痛みはない。代わりに感じる場所に刺激をもらえない苦痛にさらされた。何度も腰を左右に揺らして求めるのに、意地悪く緩慢に動く指は、刺激が欲しい箇所から少しだけずれた場所をつつく。
「待って、ぁ、やだ、やだ、ぁア」
「ごめんね、周りに急かされちゃってるから、こういう方法は取りたくなかったんだけど聞かせてね」
「フあ、ぁああ……あ、ぅう……んぁあ」
「本当の名前はなんていうの?」
「あ、ああっ」
「それじゃあ分からないよ。ここ、ついて欲しいんだよね?」
「!」
唐突に感じる場所を刺激され、僕は射精しそうになった。しかしすぐに指はまた外れた。そのすぐそばを意地悪くつつくのだ。
「何才? どこの出身? どうして人形になったの? この国へ来た目的は?」
「ふァ、ンンっ、ぁ、ああ」
「本当はね、こんな風に聞かなきゃならないことが沢山あるんだよ」
「も、もう、いやだ、ぁあああ、くっ、ン……ぅああ!」
「もっとひどくして、辛くして聞くこともできるんだよ」
「いや、いやだ、早く挿れ……っ、ああ」
泣きじゃくっているうちにまた僕の記憶は途切れた。

目を覚ますと、僕は新しい部屋のソファに座って、紙コップを持っていた。
隣には、ファウストが座っている。
「……」
こちらを見てはいなかった。初めてそんな姿を見た。ファウストは読書に集中しているらしい。僕も本は好きだ。
そして思い出した。僕は、僕の名前を知っている。そしてファウストはそれを聞きたいようだ。聞く仕事をしているのかもしれない。僕だって、仕事は迅速にしなければならないと知っている。
「セト」
簡潔に呟くと、ファウストが本を取り落とした。
それからぎょっとするように僕を見た。
「ーーえ?」
「僕の名前……セトだよ」
「……歳はいくつ?」
「……」
僕は言葉に詰まった。自分の歳を知らない。仕事の度に年齢は設定された。
……?
僕は一体どんな仕事をしていたのだろう。
年齢とは設定されるものだったのだろうか?
「答えられる事だけでいいよ。分からないことは、わからないでいいから」
「年齢はわからない」
試しに言ってみると、優しい笑顔でファウストが大きく頷いた。
「出身地は?」
「分からない」
「この国にはどうしてきたの?」
「分からない」
「ここがどこの国なのかわかる?」
「分からない」
「自分がどこから来たかわかる?」
「分からない」
話しながら、僕は自分の名前以外わからないことに気がついた。
これではファウストも仕事にならないだろう。
「ごめん」
悪いなと思って謝ると、ファウストが息を飲んだ。
「どうして謝るの?」
「もっと何かわかれば良かったと思って」
「有難う」
ファウストはそう言うと、不意に僕の方に手を添えて目を伏せた。
そのまま柔らかい唇が降ってきて、僕は驚いた。
キスをされたのは初めてだったからだ。

それから三ヶ月が経った。

今では僕は、記憶を失わなくなってきた。
むしろ全くと言っていいほど失わない。思い出せないわからないことは多かったけど、ファウストと一緒にいるうちに新しいことを覚えて行った。
僕は今、帝国と停戦中の連盟国の一つにいるそうだ。
魔導戦争というらしい。
他にも、沢山のことを知った。ファウストが、今では街に僕を連れて行ってくれるようになったからだ。時折、デートだと言って買い物に誘ってくれるんだ、今みたいに。僕は紙袋を抱えて歩きながら、隣でたのしそうな顔をしているファウストを見た。ファウストは、この国の大臣の一人らしい。
その割りには若くて、暇そうだ。
二十代後半だと言っていた。僕は彼よりも少なくとも若く見える。
二十代前半くらいなのだろう。
他にわかったこともある。僕は、イチゴが好きみたいだ。ナスが嫌いだ。犬よりも猫が好きで、温かいココアも好きだ。それとファウストの瞳の色によく似ている紫色も好きになった。スミレみたいな色だ。
そして逆にファウストの事も知った。ファウストも、犬より猫が好きだと言っていた。ファウストはイチゴが嫌いだ。ココアは冷たい方が好きらしい。ファウストは僕の蒼い目の事を、綺麗だと言ってくれたから、青が好きなのかもしれない。それともいつも髪を撫でてくれるから黒が好きなのかもしれない。
「セト」
その時名前を呼ばれたから顔を上げた。
「今日は、そろそろ帰ろうか」
静かに頷くと、さらに深い笑顔が帰ってきた。
二人で並んで歩く。そうしながら考えた。ファウストは大臣で、たぶん僕は帝国からきた"ニンギョウ"なのだろう。ニンギョウの仕事は一体なんなのだろう? 僕はどうしてここにいて、ファウストは本当は僕からどんなことを聞きたいのだろう。
「セトは、買い物に来るのは好き?」
歩きながら聞かれたので首を傾げた。
「給料の使い道は初めから決定されていたから」
「ーーお給料制だったの?」
ファウストの声に、僕は少し思い出した。
「仕事で行く先には、基本的にそこで仕事を達成するまでの間つく職と住む家が用意されていたから、給与ももらっていたんだ」
答えたものの僕にもよくわからなかった。
仕事をするのに、どうして違う仕事についていたんだろう。
「ーーどんな職についていたの? セトのことがもっと知りたいんだ」
そう言われたがよくわからない。ただ最近の僕は、ファウストに喜んで欲しくて仕方が無いから、必死に考えてみる。紙袋から見えるリンゴを眺めていたらふと思った。
「リンゴの皮を剥いていたことがあるみたいだ……多分何かカフェみたいなところにいた。その時は」
その時は?
「その時はーー道路を挟んだ向かいのビルにいる対象を……? 対象……?」
対象?
気づくと瞼を伏せていて、銃弾で罅が入った窓硝子と銃声が脳裏をよぎっていた。
そこで僕は、随分と下手な暗殺者と鉢合わせたと思って……思って?
だめだ、あんまりよく思い出せない。
「セト」
「……」
「セト?」
気づくと僕は紙袋を取り落としていた。どさりという音を理解したのと、視界が反転したのはほぼ同時だった。貧血によく似た砂嵐に視界を襲われ、倒れたからではない頭痛と耳鳴りに苛まれた。ファウストと街に出て雑談をしていると、よく激しい頭痛に見舞われるのだ。せっかく何か答えられそうだと思った時に限ってズキズキズキズキ頭がいたんで、吐き気がしてくる。あゝ、呼吸ができない。
そのまま僕は意識を失った。


「あ、ぁあ……っ、ゃあ」
僕を抱きかかえ奥深くへと楔を挿れ、そのままファウストは動いてくれない。
気づくと僕はその状態だった。
「動いてっ、ぅうう……あ」
腰を必死で動かすが、力が入らなくて泣きそうになった。
「ダメだよ、また貧血と頭痛で倒れたんだから。今日は動けないな」
「いやだァ、あ、や、ン……ん」
頬がじわじわと熱くなって行く。中に深く大きく生々しく感じる肉茎が、僕の体温を急上昇させているみたいだ。硬くて、早く着いて欲しいと気づくと願ってしまう。必死で腰を動かして見ても、全然足りない。
「どんな時に頭痛がする?」
「あ、ああっ、フ、あ」
「いつも僕が仕事の話やプライベートのことを聞いた時、だね」
「やあ、や、ああン、なんで……お願い……動い、ぅ」
「ーープロテクトがかかってるのかな」
「はや、く。はやく……早く!」
「仕方が無いね」
それから激しく突き上げられて、僕は泣き叫びながら精を放った。
快楽がもたらされた事への歓喜で泣いたのだ。
もう僕の体は、ファウスト無しじゃダメみたいだ。体だけじゃない、僕はファウストがいないとダメみたいだった。
「……ファウストに喜んで欲しいと思った時だよ」
体を寝台へと横たえられながら、僕は伝えた。
「え?」
「お話しして、喜んでもらいたいって思った時、何か思い出して話したいって思った時だよ。頭が痛くなるの」
がんばってそう言うと、なぜなのかファウストが硬直して、何度も瞬きをした。
「僕に喜んで欲しい?」
「うん、ダメかな」
「まさか。嬉しいよ」
そう言うとファウストが、今まで見たことがないくらい優しい笑顔になった。目を細めて僕を見て、それからキスをした。柔らかな唇の感触に、なんだか頬が優しい熱に襲われた。気恥ずかしかった。二度目のキスだった。そしてこの日、初めてファウストは、朝まで僕と同じベッドの中にいた。


それからファウストは来なくなった。
僕はもう三日、何も食べていない。着替えとお風呂は、この新しい部屋にあるから困らなかったけど、ご飯はない。
ただ餓死に対する恐怖はそんなになかった。
ファウストが来ないことが不安で仕方がなかった。
何かあったのだろうか。怪我かな、病気かな。仕事が忙しいだけならいいのに。それとも僕のことを忘れちゃったのかもしれない。もう聞きたいことがないのかもしれない。もう話したくないのかもしれない。
扉が勢い良く開いたのは、そんな時だった。
「セト!」
飛び込んできたファウストの姿を見て、僕はホッとして床に座り込んでしまった。
そうしたら抱きしめられた。
「来られなくてごめんね、大丈夫? すぐに食事を持ってくるからね」
確かにお腹は減っていたが、それよりも今は温もりが欲しかった。
「行かないで」
「セト?」
「もっと、ギュッとして」
僕はそう告げて、ファウストの背に手を回した。ファウストにいなくならないで欲しかった。ずっとそばにいて欲しかった。大好きだ。僕はファウストが大好きだ。
そうじゃなかったら、多分こんな風に胸が疼いたりしない。
「セト、安心して。僕はどこにも行かないよ」
「本当?」
「うん。僕はセトのことが好きだからね。本当はそういうの……ダメなんだけどな。困ったな」
困らせてしまったのかと悲しくなっていたら、苦笑しながら頭を撫でられた。
ただ、好きだと言ってもらえて嬉しかった。


それからも僕らの日々は続いた。
僕はお部屋で一人、ファウストが来るのを待っていて、時折一緒に街へと出かける。そして夜には、甘い香りのする部屋で、薬を舐め飲む。
今日もそうだった。
それ以外の日があることを疑わなかった。
「好きだよ、セト」
寝台の上で、僕を正面から抱きしめたファウストが、そう言った。
僕も好きだと言おうとするのに、なぜなのか一度も言葉になった事が無い。
それから顎に手を添えられ、上を向かせられた。そして。
「っ」
深々と口を貪られた。入ってきた舌先に、歯の裏側をなめられる。不思議な感覚だった。舌を絡め取られ軽く吸われ、大きく息を吐くと、今度は違う角度からキスをされた。僕は無意識にファウストの背に手を回しきつく抱きついていて、ファウストの手は、今度は僕の後頭部を抑えている。そうして長い長いキスをした。

ーーその時だった。

僕は全てを思い出して、ファウストに気づかれないように表情を消した。
抱き合っていてよかった、そうでなければ、冷たい瞳を見られていたと思うから。
僕は、ファウストの背に回す手を一つにして、もう一方の手でピアスから毒針を引き抜いた。そして、ファウストの体が離れる直前、それを彼の白い首筋に突き立てた。白い肌に、小さな赤い球体がポツリとできた。
「!」
ファウストが目を見開いて、固まった。
「ファウスト卿、あなたには二つの道がある」
しかし僕は淡々と告げた。やっと、仕事を思い出したからだ。
「一つはこのまま毒で死ぬ」
そうだ、僕は元々ファウストに会うためにこの国へとやってきたのだ。
「もう一つはーー帝国に忠誠を誓う」
それが皇帝陛下から下された命令だったのだ。連盟国軍情報部総司令を務めているファウストを帝国の内通者とする事。それが僕の今回の仕事だったんだ。だから僕はわざと、帝国式暗殺型環雪旧態人形壱番だと正体を明かした上で、ファウストに知らせる形で捕まったんだ。自分で記憶を一時的に暗示で消して。ファウストに直接尋問されるだろうという確信があった。
ファウストの嗜好も調べ上げた結果だ。
彼は、二十代前後の青年が好きらしく、特に経験が浅い神経験のものが好きだそうで、その場合には媚薬と性行為を手始めにマインドコントロールで、情報を得て行く。身体はいくらで身抱けるようだ。ただし、好きな相手以外には絶対にキスをしない。キスされることなく尋問が終われば、あとは牢獄行きだ。キスされた相手は、大抵の場合恋人になるも、出身国からの追ってに殺されている。ファウストはそれらの脅威から恋人を守ることはない。正確にはセフレ扱いなのかもしれない。
ただし長い間そばに置かれるのは間違いがない。
実際一度目のキスの後からも、尋問が継続していることもあったのだろうが、ずっとそばに置かれてきた。
他に調べたのは、好みの外見と性格だ。
黒い髪に蒼い瞳、それから物静か。無垢な性格。
外見と年齢に僕は適合していた。
なのでそのあと僕は、その性格になりきった。自己催眠だ。重要でもない事項を和えて記憶から消したのもそれが理由だ。そして三度キスされたら、惚れられたと確信したら全ての記憶が戻るようにご催眠暗示をかけていたのだ。
「ーー記憶がないというのも、分からないというのも嘘だったのかな?」
「本当だよ。今思い出したんだ」
「なんで今更」
「嗜好を調べたんだ。あなたは好きな相手以外にはキスをしない。だから三回キスをされたら記憶が戻るようにしていたんだ」
「だからって今更、ここに来て暗殺?」
「今更だとは思わない。そもそもあなたも警戒していたから、この部屋には一つも割れものがなかったんだ。食器類ですら木製だった」
言いながら僕は、自分で自分が虚しくなった。
買い物に連れて行ってくれたりしたのも、情報の聞き出しや、マインドコントロールの一環だったんだろう。何も忘れていた僕は、今でもそれが楽しかったと思える。全部嘘の日々だったのかと思えば、妙に胸が疼いた。僕だって肝心なことは言わないように、幾つか記憶を消していたんだから、おあいこかみしれない。
だけど。
僕は、僕にファウストがキスをしてくれたから、少しは好きになっていてもらったのだろうと思って、それが嬉しかった。記憶が戻った今となっても、たぶん僕はファウストが好きだ。街に出かけた時のことを思い出せば、久しく忘れていた胸がポカポカするという気持ちを思い出す。
きっとあのひと時の、幸せな時間は偽りじゃない。
時折それとなくファウストは僕から情報を引き出そうとしていたけれど、その旅に倒れる僕のことを心配してくれていたのは間違いがないと思うんだ。
「一つだけ聞かせてくれないかな?」
ファウストが言った。
「セトは、僕のことが好き?」
僕は頷きたかったけどやめた。ファウストが今にも泣きそうな顔をしていたからだ。僕の本心はもう決まっていたけれど。
「好きだと言ったら、ファウストはここで死を選ぶ。違う? 愛の確認して人生のラストを迎えるように見える」
「そうかもしれないね」
「僕は一緒に生きたいーー待遇は保証するし、今まで通りでいい。ただ帝国に情報を流して欲しい」
「恋心を利用したことはあるけど、されたことはないよ。それもこんな風に、率直になんて」
「利用するつもりはないんだ。ただ、一緒に生きよう」
このようにして僕は言葉を紡ぎ、ファウストに抱きついた。
やっぱりもう僕はファウストが好きだった。告白するつもりはないけれど。
「ーー久しぶりの純愛だったんだけどね、僕はこれでも」
「僕も始めて、恋がなんなのか知ったよ」
「え、それって……」
気恥ずかしくなって僕は立ち上がった。すると強く腕を引かれ、後ろから抱きしめられた。厚い胸板の感触に鼓動が騒ぐ。
「君と二人なら、何処へでもいけるよ。たとえそこが地獄でもねーーうん、いいよ。セトがそばにいてくれるんなら、寝返るよ」
その言葉に嬉しくなって、僕は銀色の指輪の一つじゃら解毒剤の錠剤を取り出した後口に含んでキスをした。初めて自分から。そして中指にはめていた指輪を外してファウストの手にはめた。これは仕方が無いことだけど隷属させるための指輪だ、逃げられんしようにするための。

その日は薬は無しだった。始めて連れて行かれたファウストの部屋では、甘い匂いがしなかった。
寝台の上で抱きしめられる。そしてシャツのボタンを丁寧に開けられ、上半身をはだけられた。それから指先で、胸の突起を左右それぞれつままれる。
「ンぅ」
優しく刺激された後、激しく弾かれたら声が漏れた。
繊細な指の動きで左右の乳首が翻弄される。優しく輪を描くように動かされ、それから時につままれる。
その刺激が甘い痺れとなって、 下半身へとも熱を見たらし、腰がしびれたように熱く感覚がなくなって行った。
「あぁ……も、もう」
下を触って欲しくて、肩が震えた。
「さっきの隷属させる指輪で、命令してもいいんだよ」
「あ、あれはそういう用途には使わなーーッんぁう」
答えていたら両方をぎゅっと掴まれた。
「前ダラダラだけど、乳首好きなんだ?」
「……誰のせいで……」
「僕のせいなら嬉しいよ」
楽しそうにファウストが笑った。それから僕は押し倒されて、真上にあるファウストの顔を見た。思いの外まつげが長い。仕事をせっかく思い出したのに、こんなに好きになってしまった。
「ああっあ、ナん、ふァ、ああっ!」
そのまま急に香油まみれの指先が後ろの中へと入ってきた。
「ひゃっ」
感じる場所を規則的に刺激された。
おもわず腰が引けそうになったが、ファウストのもう一方の手が僕の腰をつかんで離してくれない。
「やだ、あ、イク」
「もうちょっと待ってね」
そう言ってファウストが指を引き抜き、腰を進めてきた。
「ああーっ、ん、うあ、あああああ」
圧倒的な熱に意識がクラクラしてくる。
激しく疲れ、そのまま僕は果てたのだった。

このようにして、僕らの関係性はちょっとだけ変わった。
ただ、これから幸せになっていけたらいいなと確かに思った。
僕はセトで、そしてやっぱり一番なのだと思う。多分今は、ファウストの中の一番でありたい。ファウストは僕の中で一番になったから。

停戦していた戦争が、終結したのはその二ヶ月後のことだった。
帝国の終戦派と連盟国軍情報部指揮官の功績だと後世の歴史書には記載されるのだが、そこには決して、帝国の人形の名前が出ることはないのだった。